福本豊の出身高校

福本豊 プロ野球選手

福本豊卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1947年11月7日生まれ

福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年11月7日 - )は、大阪府大阪市生野区出身で東大阪市育ちの元プロ野球選手(外野手)。

通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時はMLB記録も超えた)で、「世界の福本」の異名を持つ。引退後はコーチを経て主に野球解説者、野球評論家として活動している。

現役通算2543安打、通算208本塁打を記録した確実性とパンチ力を兼ね備えた打撃、歴代1位の通算1065盗塁と通算115三塁打を記録した俊足、主に中堅手として足を生かした広い守備範囲を誇る外野守備で、長池徳二・山田久志・加藤秀司らと共に阪急黄金時代の主力として活躍した。

大鉄高等学校時代は、野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて球拾いに専念していた。しかし、練習中に右翼手の守備に就き内野手を務めていた選手の一塁手への送球が逸れた際に、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。高校3年生夏に、同校初の甲子園出場となる第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たしたが、初戦で4強入りした秋田高校に延長13回裏、福本と二塁手が打球をお見合いしてしまい、サヨナラ負けを喫した。ちなみに、1年下のチームメートには、高橋二三男(元西鉄・ロッテ、外野手)がいた。

卒業後は社会人野球の松下電器(現・パナソニック)に進む。俊足が武器であったため、監督に「広瀬叔功になれ」と言われ、当時の広瀬の背番号である12を背中に付けて広瀬をよく観戦しにいったという。福本は後年に「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」と語っている。

社会人3年目の1968年には松下電器同僚の加藤秀司(後の英司)・岡田光雄(元近鉄)と共に富士製鐵広畑の補強選手として第39回都市対抗野球大会に出場しチームを優勝に導き、社会人ベストナインのタイトルを獲得したが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。同年秋のドラフト会議で、阪急ブレーブスに7位指名を受けた。入団当時の背番号は「40」。なお、阪急ブレーブス以外に、南海ホークスも、早くから福本の俊足に注目していた。しかし168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。

プロ入りのきっかけは、松下電器時代既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。試合でスカウトが来ている時に本塁打を打ったり、都市対抗野球でホームへ好返球をしたりする(ドラフト同期の山田が福本の名を知ったのはこのプレーだという)等のプレーが認められたものだった。これについて、福本は「たまたまあのときだけ、一番いいプレーが出たんや」と語っている。さらにスカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝したことが「プロ向きのいい根性を持っている」と勘違いされ、これも指名される要因になったのではないかと述べている。

本人はドラフトで指名されたことを全く知らず、翌朝会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と言われ、そこで初めて自分が指名されたことを知ったという。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から肉料理をご馳走され、「プロなったらこんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留していたが、そうしているうちに何度も食事に誘ってもらったため断りにくくなってしまったという。結局、4回目の食事の時に入団を決意した。

入団時、福本の父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際して阪急への恩を感じたため、その職場を退職した。また福本夫人は野球に一切興味がなく、夫が野球選手であることも知らなかったが、福本も夫人に「松下から阪急に転職する」としか説明していなかったため、夫人は夫が阪急電鉄の駅員であると思っていた。ある時夫人が各駅を探し回っているうちに、駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と尋ねられ、そこで初めて自分の夫がプロ野球選手であるという事実に気が付いたという。

プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだったという。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日の開幕戦(対東映フライヤーズ)、代走で盗塁を試みるも失敗に終わったが、プロデビューは山田や加藤よりも早かった。

1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年から背番号を7に変更し、同年には日本プロ野球史上唯一の3桁、達成当時はMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)も破る世界記録のシーズン106盗塁 を記録してチームのリーグ優勝に貢献、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海戦でそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新し、その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。

1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)で、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。この試合では大差でリードされていたにもかかわらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかという思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を楽しみに見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる(全国紙面では「呑み屋に行けなくなる」と報道された)」と固辞した。ただし大阪府知事賞詞(現:感動大阪大賞)の受賞は受け、大阪府知事岸昌から賞詞を受け取っている。また、記録達成を記念して特例による名球会入会が認められたがこれも固辞し、同年9月1日の対ロッテオリオンズ戦で田村勲から中前打を放ち、史上17人目となる通算2000本安打を達成して正式に入会した。

1984年8月7日には1000盗塁に到達。その後は記録を1065まで伸ばした。引退から4年後の1992年6月16日、リッキー・ヘンダーソンにより、同記録は破られた。ヘンダーソンが福本の記録に近づいた際、福本は記録を破る瞬間を見届けるべく渡米している。ヘンダーソンは、福本が始球式を務めたその試合で見事福本の記録を抜いた。福本はヘンダーソンを祝福し、金色のスパイクをプレゼントしたのに対して、ヘンダーソンは試合後、記録を達成した時の二塁ベースをプレゼントした。福本はヘンダーソンの身体能力、特に盗塁・帰塁の1歩目を「まるでベン・ジョンソンのスタートのようだった。自分の筋力ではできない」と絶賛し、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と述べた。

1984年から1986年前半までレフトを守る機会が増え、40歳近くになると盗塁のサインがダグアウトから出るようになったり、晩年は「走るな!」のサインまで出されることもあったという。1987年4月18日のロッテ戦(川崎球場、先発・山田久志)で佐藤健一のライナーを無理に取ろうとして右肩の脱臼をした。(全治2週間)福本にとって最初で最後の大きな故障離脱で、これを境にスタメンから外れ、出場試合数も減るようになった。(福良淳一、ダラス・ウイリアムズなどが1番打者に)

1988年10月23日、阪急ブレーブスとしての阪急西宮球場最終戦、試合後の挨拶で監督の上田利治が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。早くから引退を示唆していた山田に対して、福本は皆に「冷たい奴や」と言われたと回顧している。

後年、この時のことについて「引退を取り消すのが面倒くさかった」とも、「体力的にはあと3年はやれたけどね」とも語っている。また、ベースボールマガジンなど一部メディアでは、前日にコーチ要請を受け、阪急もなくなると言うことで引退を決めたと書かれている。週刊ベースボールでのインタビューによれば、当初は自由契約を希望したものの、受け入れられず任意引退の形を取られ(取らされ)、それならばと思いコーチ兼任を依頼したが拒否されたという。結果的に知人のアドバイスにより引退を決意した。

他方で、その8日前で阪急身売りが公表される前の10月15日、毎日放送の野球中継中(南海対近鉄第25回戦)、門田博光の活躍に触れる際、同年代の選手として引き合いに出す形で福本がその年限りで辞めると述べていることが井上光央アナウンサーから言及されている。

現役最末期の福本は盗塁数が極端に減っており、やくみつるに「走らざること山の如し」と揶揄されるほどだったが、これは出塁しても「待て」のサインが出るようになったためで、これにプライドを傷つけられていたことも引退の一因になっていると語っている。なお、最後に出場したオールスター戦では盗塁を試みており(結果は失敗)、これについて「知らないうちに足が動いていた」とコメントしている。また1989年の引退試合(対読売ジャイアンツ戦・西宮球場)では山田共々阪急のユニフォームで打席に立った。その後、コーチとして携わるオリックス・ブレーブスのユニフォームに着替えてベースコーチを担当した。

引退後はオリックスの一軍打撃コーチ(1989年)、二軍監督(1990年 - 1991年)を務めた。その後は阪神タイガースの一軍打撃コーチ(1998年)、一軍外野守備・走塁コーチ(1999年)歴任した。阪神のコーチ時代、1999年に監督就任した野村克也に現役時代の盗塁術を買われて三塁ベースコーチを任せられたが、「安打を打てなければレギュラーになれない。レギュラーになれなければ出塁できる確率も少ない。出塁ができなければ盗塁もできない」という持論から選手に打撃指導ばかりしていたため、同年限りで解任された。

その後は朝日放送・サンテレビジョンの野球解説者、スポーツ報知で野球評論家として活動している。

2002年に野球殿堂入り。現役時代からボランティア活動に熱心に取り組んでおり、日本身体障害者野球連盟の名誉理事長も務めている。また、2006年1月からは阪南大学野球部特別コーチを務めている。

2007年、第5回グッドエイジャー賞を受賞。

野球以外では、阪神甲子園球場そばにあるベースボールバー「G.LOVE」のオーナーを務めており、店内には本人の阪急時代のユニフォームや阪急西宮スタジアムの座席などが飾られている。

1年目の4盗塁から2年目に75盗塁できたのは、1964年東京オリンピックの400メートル競走選手(早瀬公忠選手(八幡製鉄)の可能性が高い)が阪急の春季キャンプに臨時コーチでやってきて、腕が横振りであったのを矯正されたのと、腿上げを繰り返しさせられたのがきっかけと語っている。また、福本の足はチーム内でも特別俊足というわけではなく、走塁時に左右の歩幅が一定で横に広がらない陸上短距離選手が理想とするような走り方であると足跡を収めた映像を交えて検証されたこともある。なお、初の盗塁王については福本は「単に勢いで取れただけ」と語っている。

打力が付きレギュラーに定着したが出塁すると牽制死、盗塁失敗を繰り返していた。こんな状況では自身のプロ生活は長くないと感じていたある日、自分が野球選手だったという証を残すため友人に8ミリカメラで試合を撮影するよう依頼する。すると自宅でその映像を見ていた時に投球と牽制で投手の体の動きが違う「癖」に気づき、これにより盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。その後フィルム撮影は球団の手で行われることとなった。

しかし、近鉄バファローズの神部年男、鈴木啓示の2人だけはなかなか癖を盗むことができず、何度もフィルムを再生しなおし、神部は軸足(2mmほど動いたら投球する)、鈴木は顔(打者に向いている時は牽制、走者を一度見たら投球)に癖をあることをついに発見、両投手の攻略に成功した。この研究が1972年の106盗塁と言う大記録につながっている。

リーグでも牽制が上手い東尾修を盗塁における1番のカモにしており、顔を合わせるごとに「オレの弱点は何なのか教えてくれ」と東尾にしつこく聞かれ教えてしまい、それを基に東尾は次の対戦までに癖を直してきた。しかし、癖の修正によって生まれた新たな癖を発見したという。ただし、この件に関しては発見したのが互いの引退間近の頃だったため、再び隙をつく機会が得られず引退後もたびたび悔しがっていた。

盗塁の3要素と言われる「3S」、つまりスタート、スピード、スライディングのうち、スタートは以上のような徹底した投手の癖の研究、スピードは天性の俊足と若い時のフォーム矯正によって研磨された。残るスライディングについてはつま先からやわらかくベースに触れるスライディングを誰にも教わることなく独自に編み出している。スピードを殺さず、足への負担も少ないスライディングだった。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。ヘッドスライディングの危険性については引退後もたびたび解説の場などで口にしている。

スパイクシューズも特注で、普段の靴のサイズ(25 cm)よりも小さい24.5cmを使用し、400グラム弱と非常に軽く作られていた。

福本の盗塁には優れた2番打者の存在も大きかった。福本自身、「有能なサポーターがおらんと、盗塁なんてひとつも成功しない」と語っている。当初は阪本敏三、ついで大熊忠義がその任にあたった。大熊は福本が盗塁を企図し、スタートが悪ければカットし、微妙な場合は空振りするなど、巧みなアシストをし、二塁に達した後はバントや右打ち(福本が二塁に達したときには、カウントが悪くなっていることが多かった)で三塁へ進めていた。一度、盗塁を目論んで一塁から良いスタートを切れたにもかかわらず、大熊がその投球をファウルボールにしたことに対し、「1球見送ってくれたら、二塁は完全にセーフやったのに」と言った結果、大熊の機嫌を損じた。頭にきた大熊の申し出で、その翌日から2番打者がウイリアムスになった。ウイリアムスは1球目から打ちに行くため、福本は丸1週間全く盗塁出来なくなった。アシストが無いと走れないと謝罪し、大熊は元の2番に戻ってくれたという。1978年からは簑田浩二が台頭、簑田は自身も俊足を生かしてこの年から1983年まで25盗塁以上を記録した。

このように、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781と優秀ではあるが飛び抜けて高くはなく、通算盗塁刺299も日本記録である。これらのことから盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。

1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島東洋カープの高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、答えはたった一言「気合いや」だったので面食らったという(ちなみに、高橋は歴代5位の通算477盗塁を記録しているが、福本に次ぐ歴代2位の通算206盗塁刺を記録している)。なお、第1戦の3回裏、安打で出塁した福本はすぐに盗塁を成功させ、高橋も9回に三盗を成功させている。

野村克也は、福本について「(こちらが)走ると思うと走らない。走らないと思うと走る。あいつに鍛えられた」と評している。また、堀内恒夫は「福本はクロスプレーも巧い。福本は、クロスプレーの際に相手の捕手がベースを覆い隠していた場合には、相手の脚の関節をスパイクの裏で蹴るらしい。そうすることにより、自然に相手の足が動いて隠れていたホームベースがあらわれる」と語っている。

1972年に球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。この保険は福本が引退するまで継続されたが、後述するように人一倍体調管理、怪我防止、強靭な体作りに神経を使った福本は現役中一度も足を怪我しなかったため、保険金も支払われることなく終わっている。

ちなみに、ホームスチールの成功率は低く7回試みて成功は1回のみである。

福本の盗塁が脅威になると、他球団も対策に真剣に乗り出すようになった。

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