高村智恵子の出身高校

高村智恵子 芸術家

高村智恵子卒業高校
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141位 / 327人中 芸術家別偏差値ランキング
性別
女性
生年月日
1886年5月20日生まれ

高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年5月20日 - 1938年10月5日、旧姓:長沼)は、日本の洋画家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。夫の光太郎が、彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』で有名である。

1886年5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた。戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、資産家であった。

1903年、福島高等女学校(現・福島県立橘高等学校)を卒業。日本女子大学校に入学。油絵に興味を持つようになり、1907年に大学を卒業した後は、当時では珍しい女性洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学んだ。1911年には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に注目されるようになっていた。

光太郎の評論「緑色の太陽」に共鳴していたが、同年12月、柳八重の紹介で光太郎と出会い、1913年、一緒に上高地に行って絵を描いた時に結婚の意思を固め、1914年に結婚(この時点では未入籍)。結婚後は、金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも制作活動を続けていたが、1918年の父・今朝吉の死、1929年の長沼家の破産・一家離散など心労が多く、結婚以前から病弱(湿性肋膜炎)であったこともあり、1931年8月に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中、統合失調症の最初の兆候が現れる。1932年7月15日、大量の睡眠薬を飲み自殺を図るが、未遂に終わる。1933年8月23日入籍。1935年に東京・品川のゼームス坂病院に入院し、病室で多数の紙絵を生み出した。1938年10月5日、粟粒性肺結核のため死去。東京都豊島区駒込の染井霊園に埋葬される。

造り酒屋であった高村智恵子の生家の様子が再現されており、裏庭には智恵子記念館がある。記念館には彼女の油絵、紙絵が展示されている。

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