飯田徳治の出身高校

飯田徳治 プロ野球選手

飯田徳治卒業高校
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72位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1924年4月6日生まれ

飯田 徳治(いいだ とくじ、1924年4月6日 - 2000年6月19日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手・監督。

浅野綜合中学校から東京鉄道局に就職し野球部に入部。中学時代はエースで4番、鉄道局時代に一塁手へ転向し4番として活躍した。1942年の都市対抗野球では打率.556をマークして打撃賞を獲得した。戦争をはさんで1946年の都市対抗にも出場。実業団の若手の中で随一のプレーヤーだった。

1947年、南海ホークスに入団。2年目からレギュラーに定着。チャンスに強く長打の打てるバッティングと6年連続40盗塁の俊足で、中心選手として南海の5度の優勝に貢献。1949年、5月21日の巨人戦では満塁サヨナラ本塁打を放っている。1951年~1952年に打点王、1955年にMVPを獲得。その後木塚忠助、蔭山和夫、岡本伊三美らが入団、いわゆる「百万ドルの内野陣」が結成されるのだが、その中でも飯田の一塁守備が光った。特に一塁守備でのワンバウンド送球に対するグラブ捌きは、戦前の名一塁手・中河美芳の跡を継ぐ「タコ足二世」と呼ばれた。ショートバウンドの処理は抜群で、それまであまり問題にされなかった一塁手の守りの重要性を飯田は認識させた。走攻守にわたって隙の無い選手として活躍した。守備の負担軽減を狙って1955年より中堅手に転向した。同年飯田は4度目の3割台をマーク、リーグ最多の163安打を放ちMVPに選ばれたが、この年も143試合にフル出場したのが大きく評価されたと思われる。同年8月24日のトンボ戦でサイクル安打を達成する。1956年には154試合にフル出場。外野手転向2年目だったが、脚力を生かして広い守備範囲を誇りソツなくこなした。

1956年シーズンオフ、飯田は10年選手の権利を得たため南海にボーナスを要求したが、南海は長打力重視のチーム方針から力の落ちた飯田に対してボーナスを支払う意思はなく、飯田は国鉄スワローズへ金銭トレードに出され、南海が国鉄から受け取ったトレード金銭を、飯田はボーナス代わりに受け取った。

国鉄に移籍した1957年より一塁手に戻り、40盗塁で盗塁王に輝くなど1番打者として脆弱な打線を牽引するが、1958年5月24日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で走塁中、二塁ベースにつまずきアキレス腱を断裂して、1948年9月12日(金星スターズ戦)以来続いていた連続試合出場記録は1246試合で止まった。広島の衣笠祥雄に破られるまで長く日本記録だった。しかしながら、連続試合出場中の1951年の南海の公式試合数は「104」ながら当人の試合出場数が「100」になっているのは開幕前にパリーグ選抜軍のメンバーでハワイに遠征したが、帰国が遅れ開幕日の3月31日に間に合わず4試合欠場したのだが、これは不可抗力というので公休扱いになり、連続出場の中断の憂き目をみずにすんだ。また、1954年にも手首に死球を受けて、代走だけで出場したケースが3試合ある(現在の公認野球規則では連続出場記録を継続するためには1打席を完了させるか、1イニングの初めから終わりまで守備につかなくてならず、代走だけの出場では記録は継続されないと規定されている)。1959年に復帰するが徐々に精彩を欠き1961年にコーチ兼任となり、1963年に2000試合出場まであと35試合、2000本安打まであと22本という所で引退した。

引退試合は1965年3月27日の南海戦で(横浜公園平和野球場)、当時のオープン戦の観客数は2000人だったが飯田の引退試合には有料入場者が6000人を超え、フジテレビでも中継された 。途中から一塁手として出場し勝ち越しの3塁打を放っている。引退試合でヒットを打っているのは国鉄では飯田のみである。

ちなみに、同年には1歳下の関口清治(当時阪急)や飯田同様1リーグ時代にプロ入りした田宮謙次郎(当時大毎)も引退しているため、この1963年を以て公表上における大正生まれの現役選手及び1リーグ時代からの在籍現役選手が球界からいなくなった(但し、前者については本来大正生まれの近鉄・関根潤三が現役を続行していたが、諸事情により公表上は昭和生まれとなっている。詳細はこちらを参照)。

温厚な性格で「仏の徳さん」と呼ばれ親しまれた。

引退後は、1964年~1965年に国鉄・サンケイヘッドコーチ、1965年オフ球団が新監督に鶴岡一人の招聘に動くが後任監督の蔭山和夫が急死により鶴岡が南海監督に留任し飯田が監督に昇格し1966年~1967年までサンケイ監督。戦力的に恵まれないチームで「仏の徳さん」といわれた温厚な性格をあえて鬼にし、特に巨人戦に力を入れて戦ったが、戦力不足は埋めることができず、両年とも5位に終わった(1967年には不振の責任をとり一時中原宏コーチが代行を務めたこともある)。

1968年南海ヘッドコーチ。1969年、鶴岡の勇退を受け監督に就任。しかし主力選手の故障者続出や「声を出せ」しか指示がない等チームに不信感が生じ、戦後初の最下位となり責任を取る形で辞任。後任には野村克也捕手(選手兼任監督)が昇格した。

その後はNETテレビ→テレビ朝日の野球解説者。引退後は喫茶店を開業し駅ビル商店会のよき相談役だった。1981年に野球殿堂入り。

2000年6月19日、心筋梗塞のため死去。76歳没。

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