青木真也の出身高校

青木真也 スポーツ選手

青木真也卒業高校
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スポーツ選手ランキング
420位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
性別
男性

青木 真也(あおき しんや、男性、1983年5月9日 - )は、日本の総合格闘家、柔術家。静岡県静岡市出身。パラエストラ東京/Evolve MMA所属。柔道参段。ブラジリアン柔術黒帯。現ONE世界ライト級王者。元DREAMライト級王者。

寝技の極めの技術に非常に長け、数々の試合で一本勝ちを収め、日本の軽量級最高峰の寝業師として評価されていた。「跳関十段」(とびかんじゅうだん)、「バカサバイバー」の異名を持つ。

小学3年生から柔道を始め、東海大第一中学、静岡学園高校、早稲田大学人間科学部のそれぞれで柔道部に在籍。この当時から既にさまざまな格闘技に通じ、跳びつき腕ひしぎ十字固め・脇固め・スピニングチョーク・フットチョークなど、柔道においては特異な技の数々で勝利をものにしてきた。その結果全日本ジュニア強化選手となったが、競技柔道(講道館柔道)では投げ技による一本勝ちを重視する傾向があるため、ともすれば高専柔道や七帝柔道とも見なされかねない青木のスタイルは講道館柔道の世界からは異端扱いをされ、結果青木はその格闘技観の違いから、「極」を重視した格闘技へと活躍の場を移すことを決意。サンボと柔術、コンバットレスリング、総合格闘技などでその実力を顕している。デビュー当初は練習場所のRJJ(Real Japan Judo)やTeam ROKENを所属先としていたが、2004年10月のDEEP 16th IMPACTから中井祐樹のパラエストラ東京所属となった。なお、青木は中井からブラジリアン柔術黒帯を授けられている。

2003年11月24日、club DEEP 4thで行なわれたフューチャーキングトーナメント82kg以下級で優勝。

2004年10月30日、DEEP 16th IMPACTで行われたウェルター級(-76kg)トーナメント準決勝で中尾受太郎と対戦。寝技を駆使し試合を優位に進めるも、スタンドの打ち合いで左ストレートを喰らい、KO負け。

2004年11月28日、COPA reversal 2004で弘中邦佳と柔術マッチで対戦し、跳びつき腕ひしぎ十字固めで一本勝ち。フィニッシュの腕ひしぎ十字固めで弘中は右肘を脱臼した。

2005年1月29日、初参戦となった修斗でキース・ウィスニエフスキーにスタンド状態から腕ひしぎ脇固めで一本勝ち。フィニッシュの腕ひしぎ脇固めでウィスニエフスキーは左腕を骨折した。

2005年5月4日、修斗で岩瀬茂俊と対戦予定であったが、眼底検査で網膜裂孔と診断され、インターナショナル修斗コミッションよりライセンスが発行されず、欠場となった[7]。

2005年5月28日、ADCC 2005では77kg未満級の2回戦でマルセロ・ガッシアと対戦、バックを許し、チョークスリーパーで一本負け。翌日5月29日には無差別級の1回戦でホジャー・グレイシーと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。

2005年6月11日、プロ柔術関西「大阪夏の陣」で渡辺直由へのリベンジに成功。試合後、セコンドについていた渡辺の師である早川光由に「次はお前だ!」と対戦要求した[8]。

2005年7月30日、網膜裂孔が完治し修斗よりライセンスが発行され、5月に中止となった岩瀬茂俊と対戦[9]。開始35秒右ローキックを股間に受けてしまい、反則勝ちとなった[10]。

2005年8月20日、修斗で桜井"マッハ"速人と対戦し、判定負け。

2005年10月19日、カリフォルニア州で行なわれたヒクソン・グレイシー主催のブドーチャレンジ77kg未満級トーナメントに参戦。決勝でキャメロン・アールに一本勝ちし優勝を果たした。

2005年11月6日、1年前に柔術マッチで対戦した弘中と修斗で再戦し、三角絞めで固めた上での鉄槌で左眉付近をカットさせ、TKO勝ち。

2005年11月20日、カンペオナート・ジャポネーズ・ジュウジュツ・アベルトのアダルト黒帯アブソルート級1回戦で、階級が下の小野瀬龍也のスパイダーガードを攻略出来ずに敗北。

2006年2月17日、修斗世界ミドル級(-76kg)チャンピオンシップで王者菊地昭に判定勝ち、史上最短の5戦目にして世界王座獲得に成功した。試合直後にリング上でマイクを握った青木は号泣しながら修斗への感謝を語り、「俺は一生修斗しかやりません」と宣言した[11]。また、直後のインタビューでは「PRIDEさんからも声がかかったけど、PRIDEは競技ではない。あれはイベントであり、エンターテイメントだから僕の目指す競技ではない」と発言していた(後述)。

2006年3月に大学卒業後、警察官(静岡県警)となり警察学校に入るが2か月で退職し、プロ格闘家一本へ。そして雑誌にてPRIDEへの参戦を仄めかし、後にPRIDE参戦が決定。

2006年8月26日、PRIDE初参戦となったPRIDE 武士道 -其の十二-でジェイソン・ブラックと対戦し、三角絞めで一本勝ち。試合後、マイクを持つと「修斗第8代世界ミドル級王者の青木真也です。修斗もPRIDEも皆さんの応援がある限り、まだまだ頑張ります」とコメントした[12]。

2006年10月14日、修斗でジョージ・ソテロポロスと対戦し、足関節技を狙い続けグラウンドを支配するも、2R開始直後に相手が放った金的攻撃による反則勝ちとなった。

2006年11月5日、PRIDE 武士道 -其の十三-でギルバート・メレンデスと対戦予定だったが、メレンデスが負傷欠場。代役のクレイ・フレンチと対戦し、三角絞めで一本勝ち。試合後、リング上でマイクを握った青木は、リングサイドで腕をギプスで固定しながら観戦していたメレンデスに対して、大晦日に試合をすることを呼びかけ、メレンデスもこれに賛同したものの[13]、結局同年の大晦日は青木はヨアキム・ハンセンと、メレンデスは川尻達也と対戦したため両者の対戦は実現しなかった。

2006年12月31日、PRIDE 男祭り 2006でヨアキム・ハンセンと対戦。レインボーカラーのスパッツ&マウスピースといういでたちで登場、開始早々にグラウンドに引きずり込みフットチョーク(PRIDEの公式記録はトライアングルチョーク)で一本勝ち。

2007年2月17日、修斗世界ミドル級王座防衛戦で菊地昭と再戦し、三角絞めやオモプラッタを交えた絞め技(糸通し)、関節技でグラウンドを支配するも、菊池のパウンドで若干ポイントを取られ、2-1の判定勝ちを収め初防衛に成功した。

2007年3月、DEEP GYMで自らが指導するクラスを開始させた。

2007年4月8日、PRIDE.34でブライアン・ローアンユーと対戦。ローアンユーのパウンドや膝蹴りでダメージを負うも、冷静に下から腕ひしぎ十字固めを極め一本勝ち。

2007年6月17日、グラップリング大会『DEEP X』のメインイベントでペドロ・アキーラと対戦。開始38秒、チョークスリーパーで一本勝ち。

2007年12月31日、やれんのか! 大晦日! 2007でJ.Z.カルバンと対戦予定であったが、カルバンの負傷による欠場により、代わりに参戦となった総合格闘技デビュー戦のチョン・ブギョンとメインイベントで対戦。腕ひしぎ十字固めを2度極めかけられるなど苦戦するも、パウンドで流れを引き寄せ3-0の判定勝ち。

2008年3月15日、DREAM.1のライト級グランプリ1回戦でJ.Z.カルバンと対戦。1R序盤、カルバンがガブッた体勢から振り下ろした肘が青木の首に当たってしまう。反則行為である延髄への打撃と見なされ、ダメージの残る青木に3分間のインターバルが与えられるも回復せず、偶発的なアクシデントによりノーコンテストとなった[14]。トーナメントの勝ち上がりは主催者預かりとなったが、4月4日の記者会見で没収試合に裁定変更のうえDREAM.2で再戦することが発表された[15]。

2008年4月29日、DREAM.2でJ.Z.カルバンと再戦。1Rにカルバンのパウンドを受けるもバックを奪い、2Rにも再三跳び関節を仕掛け、3-0の判定で勝利。前年の大晦日から続いた因縁に決着をつけた。

2008年6月15日、DREAM.4のライト級グランプリ2回戦で永田克彦と対戦し、マウントからのフットチョーク(アオキプラッタ)で一本勝ち。

2008年7月21日、DREAM.5のライト級グランプリ準決勝で宇野薫と対戦。終始ペースを握って次々と関節技を仕掛け、宇野の粘りに一本は奪えなかったものの3-0の判定勝ち。決勝ではリザーブから上がってきたヨアキム・ハンセンにパウンドでTKO負けを喫し準優勝となった。

2008年9月23日、DREAM.6ではトッド・ムーアと対戦し、裸絞めで一本勝ちを収めた。試合後にマイクを持つと、「僕が大黒柱です」「僕の前に試合をした秋山“マイケル・ジャクソン”成勲先輩!青木真也と大晦日にネバーランドでワオワオしませんか?」と秋山成勲に対戦を要求した[16](秋山の「韓国での自分の人気の高さはマイケル・ジャクソンに匹敵する」という発言への皮肉を込めた挑発である)。

2008年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2008〜でエディ・アルバレスと対戦し、踵固めで一本勝ち。試合後のマイクでは「UFCよく聞け、日本がトップだコノヤロー!」と絶叫した[17]。この勝利により、初代WAMMA世界ライト級王座に認定された[18]。

2009年3月8日、DREAM.7でデイビッド・ガードナーと74kg契約で対戦。ガードナーが「ハロージャパン」と発声したスキを突きチョークスリーパーを極め一本勝ちを収めた。試合後のコメントでウェルター級グランプリへの参戦を表明した。

2009年4月5日、DREAM.8のウェルター級(-76kg)グランプリ1回戦で桜井"マッハ"速人と対戦し、開始直後にテイクダウンを奪ったもののバタフライ・スイープで体位の逆転を許し、開始27秒パウンドでKO負けを喫した。桜井からは「青木はチョン・ブギョンに2回も腕十字をとられかけている。寝技のレベルでいったらブギョンの方が上。俺はチョン・ブギョンと一緒に練習したが、全然寝技が強いとは思わなかった。青木程度の寝技は研究されると使えなくなる。結局技術が均衡したところで青木には無い体力がものをいう」と痛烈な批判を浴びた。

2009年4月29日、「DEEP M-1 CHALLENGE 3rd EDITION in JAPAN」でエメリヤーエンコ・ヒョードルとサンボ衣着用・打撃ありのスーパーエキシビションファイトを行なった。お互いに見せ場を作った後、終了間際に青木がヒョードルのアキレス腱固めにタップアウト。

2009年7月20日、DREAM.10でビトー・"シャオリン"・ヒベイロと対戦。シャオリンとの対戦が決定した際に「(柔術世界王者シャオリン相手に)思いっきり寝技で勝負します!」と宣言していたにもかかわらず、試合では寝技を避けて終始スタンドでのミドルキックや膝蹴りで攻勢となり、判定勝ち。試合後のリング上で「いやー、ムエタイって面白いでしょ?」(友人である藤原あらしの発言のオマージュ)と発言すると、会場からブーイングが起こった。また、試合後の会見では「最初から“判定上等!”でした」と発言した。

2009年10月6日、DREAM.11のライト級タイトルマッチで3度目となったヨアキム・ハンセンと対戦し、試合終了残り4秒となったところで腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収め王座獲得に成功し、DREAM初の日本人王者となった。

2009年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜のDREAM vs SRC(戦極)対抗戦でSRCライト級王者・廣田瑞人との王者対決を戦い、アームロックを極めるが廣田がタップアウトしなかったため、右上腕を骨折させ見込み一本勝ち。勝利後のリング上で横になったままの廣田に対し、舌を出しながら中指を立てるファックサインで侮辱し、さらに会場中に向かってファックサインをして観客を侮辱するなどなど物議を醸す結末となった(その時セコンド陣から「止めろ!」と即静止させられた)。試合後の記者会見や試合翌日の記者会見でフィニッシュした極め技のことを「笹原圭一プロデューサーから刺しにいけと言われたので刺したので『笹原圭一2010』です」と発言した。廣田を試合後に侮辱したことに関して笹原プロデューサーから厳重注意が与えられたことが発表された。試合翌日の会見で青木は廣田を侮辱したことについて謝罪した。

2010年1月7日、Dynamite!!での試合後の不道徳行為について、パラエストラ東京から厳重注意が与えられ、パラエストラ東京の指導スタッフから解任されたことが発表された。

同日に行なわれた記者会見でSRC当局は、「試合後のインタビュー等においても形式的に謝罪の弁は述べているが、フィニッシュした極め技のことを「笹原さんが『刺しに行け』と言って、しっかり刺してきたので『笹原圭一2010』です」とコメントしたり、廣田選手の腕を「確実に折りにいきました」と述べるなど、誠意と謝意は微塵も感じられない言葉を重ねている。青木自身はもとより、彼をその影響下におき、煽り立て、結果としてかかる振る舞いに至らしめたと推測される関係者に対して心からの猛省を促すと共に然るべき処罰を強く求めます。少なくとも「厳重注意」「反省」といった、お手盛りの言葉とやりとりで許される類いのものでは決してない」と処罰を要求する意見書を発表した。

2010年4月17日、アメリカ合衆国で開催されたStrikeforce: Nashvilleにてケージデビューし、Strikeforce世界ライト級王者ギルバート・メレンデスの王座に挑戦するも、終始圧倒され、18度のテイクダウンを試みるが1度も成功せず寝技でもパウンドを受け続けるなどして0-3の判定負けで王座獲得に失敗した。試合後は、メレンデスの所属チームであるシーザー・グレイシー柔術アカデミーに弟子入りを申し出、主席コーチであるシーザー・グレイシーより承諾を受けた。

2010年5月21日付けで2006年2月17日から保持していた(2007年2月17日以降、防衛戦を行なっていなかった)修斗世界ミドル級王座を返上した。

2010年7月10日、DREAM.15のライト級タイトルマッチで川尻達也と対戦し、1Rにアキレス腱固めで一本勝ちを収め初防衛に成功した。試合後のリング上で「私事ですが、僕は結婚します!」と結婚することを宣言した

2010年9月25日、DREAM.16でマーカス・アウレリオと対戦し、3-0の判定勝ちを収めた。試合前の煽りVTRでは結婚&父親となったことが発表された。

2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜で長島☆自演乙☆雄一郎と対戦。試合はミックスルール(1Rが3分の特別キックルール(フリーノックダウン制)、2Rが5分の総合格闘技ルール。2Rで決着がつかない場合は判定なし)で行なわれたが、2R開始直後に青木がタックルを仕掛けた瞬間、長嶋の右跳び膝蹴りが直撃し、倒れ込んだところを鉄槌で追撃され、2R4秒で失神KO負け。この試合では、1Rに明らかに時間稼ぎのクリンチやドロップキックなどで逃げ回り、反則であるロープに掴む行為も行ない、会場からはブーイングが浴びせられており、この試合の解説を行った須藤元気には「バチが当たった」、魔裟斗には「逃げてちゃ勝てないですよ」と酷評された。一方で、北岡悟や菊野克紀など、「(ああしたルールである以上)勝つための手段としてならば責められるものではない」といった旨の評価もあり、興行論や競技性などを問う議論ともなった。

2011年4月9日、Strikeforce: Diaz vs. Daleyでライル・ビアボームと対戦し、開始1分33秒、ネッククランクで一本勝ち。2戦目にして全米初勝利を挙げた。

2011年5月29日、DREAM JAPAN GPでリッチ・クレメンティと対戦。終始グラウンドを支配し、2R2分14秒、フェイスロックで一本勝ち。当初はヴィラミー・シケリムと対戦する予定だったが、シケリムのパスポート切れで試合は消滅。その後、ジェイミー・ヴァーナーとの対戦見込みが立っていたが消滅。5月16日にアントニオ・マッキーとの対戦が決定したことが発表されるも、5月20日にマッキーの欠場が発表。最終的にクレメンティが選ばれた。非常に対戦相手選びが難航した試合だった。

2011年9月24日、DREAM.17で元WEC世界ライト級王者ロブ・マックローと対戦し、フェイスロック(DREAMの公式記録は裸絞め)で一本勝ち。

2011年12月31日、元気ですか!! 大晦日!! 2011で練習仲間であり度々「戦う事は無い」と共に明言してきた北岡悟を指名してDREAMライト級王座を賭けて対戦。全局面で圧倒し、判定勝ちを収め2度目の王座防衛に成功した。

2012年4月20日、アメリカ合衆国で開催されたBellator 66でエディ・アルバレスと再戦し、アッパーでダウンさせられた後のパウンドで1RTKO負け。

2012年7月3日、自身のtwitterで東南アジアを中心に活躍するONE FCと契約を交わしたことを発表した。

2012年10月6日、ONE FC 6でアルナウド・ルポンと対戦し、1R三角絞めで一本勝ち。試合後には同大会で勝利しONE FCライト級王者となった朴光哲への挑戦をアピールした。

2012年10月18日、自身のブログでDREAMライト級王座の返上を発表した。

2012年12月7日、DREAM.18でアントニオ・マッキーと対戦することが発表。しかし、青木は以前からDREAMの大晦日興業に出場しない意志を表明しており、今回出場するにあたっても「“剥奪”されたベルトですからね。僕がDREAMのチャンピオンだったとか、そういう気持ちはないですね」「DREAM自体は過去のものだったと思っています」などといった発言をし、かつては「親」とさえ呼んでいたDREAMサイドとの溝を示した。

2012年12月31日、DREAM.18でアントニオ・マッキーと対戦。2Rに右フックをヒットさせるとマッキーがタップし、マッキーの戦意喪失によるTKO勝ちとなった。試合後のマイクアピールでは「僕とDREAMで親子喧嘩があって見苦しいことがありました。でも、俺は一生懸命やっているからみんな応援してよ!」と言った。

2013年4月5日、ONE FC 8で朴光哲の持つ世界ライト級王座に挑戦し、2Rにリアネイキドチョークで一本勝ちを収め王座獲得に成功した。試合後に朴が「蛇に睨まれたカエルのように動けなかった」と語ったほど一方的な青木ペースの試合であった。

2013年6月9日、ロサンゼルスで開催されたグラップリングの大会「Metamoris 2」でクロン・グレイシーと対戦し、ギロチンチョークで一本負け。

2013年10月18日、フェザー級転向初戦となったONE FC 11でコディ・スティーブンスと対戦し、判定勝ち。

2013年11月、UFCからシンガポールで開催されるUFC Fight Night 34への出場オファーを受けるも金銭面の不満から断念した。

2013年12月24日、第2子が誕生。

2013年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2013のMMAライト級ワンマッチにてTOSHIと対戦し、開始49秒で腕ひしぎ三角固め(IGFの公式記録は三角絞め)で一本勝ち。TOSHIの戦績は11勝9敗で戦績で見れば青木との実力差は明確だったが、TOSHIの師である桜井"マッハ"速人はこの試合が青木の指名による成立であると発言した。

2014年4月27日、「パキスタン・ジャパンフレンドシップフェスティバル」のIGF提供試合にてプロレスラーとして澤田敦士と対戦。試合後には「プロレスでも総合格闘技でも要望のある方で戦う」と語った。

2014年8月29日、ONE FC 19のライト級タイトルマッチでカマル・シャロルスと対戦し、リアネイキドチョークで一本勝ちを収め初防衛に成功した。

2014年12月31日、INOKI BOM-BA-YE 2014で山本勇気と対戦し、ツイスター(IGFの公式記録は変形ネックロック)で一本勝ち。

2015年5月22日、ONE Championship 27の世界ライト級タイトルマッチで安藤晃司と対戦し、3-0の判定勝ちを収め2度目の防衛に成功した。

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