難波昭二郎の出身高校

難波昭二郎 プロ野球選手

難波昭二郎卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1935年2月19日生まれ

難波 昭二郎(なんば しょうじろう、1935年2月19日 - 2009年8月14日)は、プロ野球選手(内野手)、実業家、音楽プロデューサー。

大阪府生まれ。高槻高等学校を経て、1954年に関西大学に入学。2年生から4番打者を務め、1956年にはエース村山実とともに投打の両輪として活躍し、全日本大学野球選手権大会で優勝を飾る。関西六大学リーグで通算86試合出場、283打数73安打、打率.258、7本塁打を挙げ、当時の本塁打リーグ記録を打ち立てた。大型三塁手として関西の大学野球界を代表する選手で、同時期に東京六大学野球で活躍し同じく本塁打のリーグ記録(8本)を作った長嶋茂雄と並んで「東の長嶋、西の難波」と並び称された。

プロ入りに際して、難波は中日ドラゴンズへの入団が内定していたが、長嶋の獲得見通しが立っていなかった(南海ホークスへ入団すると見られていた)読売ジャイアンツの命を受けた、関大の先輩で読売新聞運動部記者の坂本幸夫から熱心な誘いを受けて翻意。長嶋の入団が決まった後、巨人は難波に対して中日を選んでもよい旨通告したというが、難波は再翻意せずに長嶋と2人そろって巨人へ入団することになった。

1958年春季キャンプ初期の時点では、水原茂監督は二塁・難波、三塁・長嶋を構想していた。しかし、長嶋の入団により三塁手から二塁手へコンバートされてきた土屋正孝との競争に敗れ、難波は代打や外野手の控えとして40試合の出場に留まる。1959年は引退した川上哲治の後釜として、与那嶺要・王貞治とともに一塁を守って、66試合と出場機会を増やし、本塁打も5本打っている。しかし、1960年王が一塁手のレギュラーに定着すると出場機会が半減する。1961年は土屋が国鉄スワローズへトレードされ正二塁手不在の状況となるが、藤本伸・塩原明らの台頭を横目にチャンスを生かせず、わずか10試合の出場に終わった。1962年に西鉄ライオンズへ移籍するが、14打席で8三振を喫すなどほとんど活躍できず、同年限りで現役を引退した。

引退後はデュプロに就職。非公式ながらデュプロ硬式野球部の設立・強化を支援し、1969年には都市対抗野球大会に出場するまでに成長させる。

その後、パイオニアに入社していた坂本幸夫に誘われて、同社に転職[7]。後に当時傘下だったワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)に移籍、制作ディレクター・プロデューサー・営業等を務め、その後取締役に就任した。プロデューサー・ディレクター時代には、長嶋茂雄関連の音源の販売権を取得した他、さだまさしや小林幸子等を担当していた。

2009年8月14日心不全のため死去[8]。満74歳没。

1964年に東宝系で公開された、長嶋茂雄本人が主人公で出演した『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』(佐伯幸三監督作品)で、難波をモデルにした登場人物を佐原健二(劇中では「波山」役。劇中、先述にあった「東の長嶋、西の波山(難波)」という台詞がある)が演じた。

長嶋茂雄関連の音源販売権を巡って各レコード会社が争奪戦を繰り広げた際、当初難波は黙って見ていた。残り数社に絞られた候補の一つにまでワーナー・パイオニアが残ってから、難波は初めて長嶋に会いに行き、「他の人より、もしかしたらぼくが売る方が、いいかもしれない」とだけ伝えたところ、翌日に長嶋から応諾の返事が来たという。[9]

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