金田正一の出身高校

金田正一 プロ野球選手

金田正一卒業高校
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3775位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1933年8月1日生まれ
血液型
A型

金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、愛知県中島郡平和村(後の中島郡平和町、現在は稲沢市)出身の元プロ野球選手(投手)・監督、野球解説者・評論家、実業家、タレント。血液型はB型。

日本プロ野球史上唯一の通算400勝を達成、298敗の最多敗戦記録を持つ。引退後はロッテオリオンズの監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。

愛称は「カネやん」「カネさん」。少年時代のあだ名は、その長身から「電柱」、「割り箸」など。プロ入り後は「巨人キラー」や「天皇」などと言われることもあった。

現役時代は主に国鉄スワローズで活躍し、日本球界不滅の400勝を達成している。引退後は1973年~1978年と1990年~1991年の2度ロッテオリオンズの監督を務め、1974年には前期リーグ優勝、日本一を達成している。現在は野球評論家、千葉ロッテマリーンズ取締役。2009年12月3日まで日本プロ野球名球会会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。2009年11月までは、経営する自身の個人事務所株式会社カネダ企画内に名球会事務局が置かれていた。

実弟は元プロ野球選手の金田高義、金田星雄、金田留広で、1軍経験があるのは留広のみ。息子は俳優の金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。

1933年、在日朝鮮人の子金慶弘(キム・ギョンホン、김경홍)として愛知県に生まれる。1959年、日本に帰化。

名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、電気の専門学校を経て、1948年の5月、享栄商業高校(現・享栄高校)野球部に入部、同時に同校に編入学した。 野球部長で監督の芝茂夫とここで出会った。金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。同年夏の甲子園に補欠で出場したが、登板機会はなかった。これが唯一の甲子園出場である。翌年エースになったが、春夏ともに県予選で敗退した。

コントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となる。1950年3月、3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズの監督西垣徳雄にスカウトされた。享栄商業のエースとして甲子園を目指したが、3年夏の予選で敗退するとすぐに高校を中退(当時16歳)、シーズン途中に国鉄に入団した。

初登板は1950年8月23日に松山で行われた対広島戦で、押し出し四球でサヨナラ負けを喫した。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用し、8月デビューながら8勝を挙げた。野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身がかつて各プロスポーツ関係者から特に手厚い待遇を受けていた「特待生の中の特待生」だったことを明かしている。金田の弁によれば、この制度によって様々な経済的援助を受けたことにより、「中学・高校を通して学費を払ったことが一切ない」という程だった。金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず、半ばなかったことになってしまったという。

1951年は全107試合中44試合に先発登板。9月5日の対阪神戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録。同年は22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。

1954年8月8日の試合で球審の国友正一に対して暴言を吐き自身初の退場処分となった。

1957年8月21日の対中日戦(中日球場)で完全試合を達成。登板の前日に下痢を発症して体調を崩した中での記録達成であった。しかも、達成直前の9回一死で酒井敏明のハーフスイングの判定を巡って中日が猛抗議し、43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共に全て空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。再開時にベンチを出る際、金田はチームメイトに「あと6球で終わりや、帰り支度しといてや」と豪語したという。なお、2014年現在、NPBにおいて左腕投手で完全試合を達成したのは金田ただ1人である。

1958年4月5日の開幕戦(対巨人、後楽園球場)では大物ルーキー長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。しかし、結果4連続三振を奪ったものの、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と述べている。初対決で金田から4打席4三振を喫した長嶋は「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ。」と感想を残した。次の対戦でも最初の打席で三振を奪い、長嶋のデビューから対戦5打席連続で三振に仕留めた。長嶋は1964年までの7年間で金田から打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打った打者となっている。翌年は王貞治が入団し、1959年4月11日の開幕戦で対戦、2打数2三振を奪った。王は同じく1964年までの6年間で打率.283、13本塁打を記録。金田は毎年最低1本は王に本塁打を打たれたが、特に最後の対戦となった1964年には1シーズンで7本塁打を打たれた。

1958年6月5日、通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。6月12日には、開幕よりわずか70日の51試合目でシーズン20勝目を挙げた。いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(他に13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64回1/3連続無失点の日本記録もこの間に記録している。

1962年9月5日、MLBのウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。

1963年6月30日、通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。

1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。対巨人戦通算65勝は歴代1位。国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている。国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝。対巨人戦では通算72敗を喫し、負け越している。

1965年、B級10年選手制度を行使して巨人に移籍。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社とフジテレビが球団経営に参加した時に遡る。この時の産経・フジのやり方に反発し、この年の移籍につながったと言われている。国鉄は1965年5月10日付で産経・フジに球団を売却し経営から離れた。

金田の巨人入団には、巨人ナインも金田に見習ってほしいという監督・川上哲治の思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促しチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、あえて日本シリーズ第1戦先発に何度も送り出した。公式戦の開幕投手も5年間で4回任されている。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かしたい川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合で本塁打を打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。

1965年4月12日対阪神戦で、柿本実が長嶋茂雄に対して際どいシュートを投げたことから乱闘騒ぎになり、柳田利夫と共に柿本を突いたとして柳田と共に2度目の退場処分を受けた。

1969年10月10日、対中日戦で球界初の通算400勝を達成。同年限りで現役を引退した。巨人での背番号34は永久欠番に指定された。金田は当初は引退するつもりがなかったが、石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原の「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに最終的には引退を受け入れたという。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。CS日本「巨人の魂」での金田の証言によると、川上が試合前のミーティングで金田に400勝をさせて辞めてもらおうと言ったとのこと。金田がそれに気づいたのは400勝達成の胴上げの際、長嶋が泣きながら「御苦労様でした」と言ってきたことだったという。

引退会見では長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれた。ただし、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっている。

引退後は日本テレビ及びニッポン放送の解説者(1979年頃、フジテレビ・プロ野球ニュースの解説者としても出演)を務めた。またタレントとしても活動していた。

1973年から1978年、1990年から1991年にはロッテオリオンズの監督を務めた。1974年にリーグ優勝・日本一を果たしている。日本一になった際に「長嶋が最後の年だから相手が巨人じゃなかったのは残念だが、わしは世界一のファミリーに恵まれた。幸せな男や」と喜んだ。金田が1987年11月30日にさんまのまんまに出演した際「どの番組や新聞を見てもロッテの優勝の事はほとんどやってなくて長嶋引退の事ばっかり取り上げてた。」と語っている。1975年4月23日から5月5日まで心臓発作で休養し、監督代行は2軍監督の高木公男が務めた。選手として国鉄時代の完全試合達成、巨人時代の400勝達成、監督としてはロッテ初の日本一と所属球団でそれぞれ偉業を達成したが、これらは奇しくも全て金田の地元の球団である中日戦である。

ロッテ監督時代の1978年に日本プロ野球名球会を設立し、2009年12月まで会長・代表幹事を務めていた。1988年、野球殿堂入り。

2008年4月11日から13日までの巨人対ヤクルト戦は「川上哲治/金田正一シリーズ」(永久欠番シリーズ)として開催された。この日付は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることにちなんでいる。

現在でも、金田の球歴を知る選手・OB・関係者にとっては畏れ多い存在である。2008年に金本知憲の2千本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れない様子だった。一方、2006年2月に巨人のキャンプを訪問した際には原辰徳監督が内海哲也に「あの方を知ってるか」と聞いたところ、「カネムラさん」と呼び間違えた上、(勝利数を問われて)「300何勝でしたっけ?」といった発言をしたことに、同行した広岡達朗が激怒したことがあった。

2012年11月14日、徹子の部屋に36年ぶりに出演した。2015年6月25日にはアウト×デラックスに出演し、「自分のことやから言うけど34歳で(現役を)終えてるの。皆40歳近くまでやってるでしょ。それが凄いんです」と発言。さっそく自らを絶賛し、山里亮太から「ダルビッシュとどっちが凄いんですか?」と訊かれると、「それは無礼だよ」と言い、矢部浩之から「現役時代180キロは出ていたと発言」といった金田の伝説が紹介されると、「その頃は測る機械もないじゃない。出たと思えばいい」と答えた。

20年近くの現役生活で多くの記録を残したが、試合で投げる球種はほぼ直球とカーブのみであった。特に直球の威力は凄まじく、数々の逸話を残している。高校時代には金田の投球を捕球出来る捕手がおらず、苦肉の策として投球練習する際には捕手をマウンドの上に座らせ自身がホームベース上に立って投球練習を行ったという。金田がデビューした年、長野における阪神戦で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。投手と捕手との間隔が短過ぎるのではないか」とクレームをつけたためゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は規定通りであった。全盛期の金田と対戦した経験がある選手たちは異口同音に「間違いなく150km/h台の後半か160km/h台を出していただろう」と証言しており、川上哲治も「最も速い球を投げる日本人投手は誰か」と問われた際「自分が実際に見た中で言うなら、金田だと思いますね。若い頃はもう、本当に速かった」と答えている。

金田は自身の現役最末期、当時解説者をしていた青田昇の元を訪ね「青さん、ワシと沢村栄治さんと球どっちが速かった?」と尋ねたことがある。青田は「アホ! 沢村さんに決まっとるやないか! お前と比べれるかい!」と一喝し、金田はその答えに憮然としながら去ったというが、後に「キツイこと言って悪いことしたな。沢村さんのことは大切にしなきゃいかんが、本当はカネやんのほうがすごかったかもしれんなあ」と述懐している。青田は沢村の全盛期の球威は知らず、「戦前のスタルヒン、戦後の金田」と評している。

剛速球と共にカーブを讃える者も多い。有本義明は戦後最高のカーブの使い手として堀内恒夫、江川卓と並んで金田を挙げている。佐々木信也は「カネやんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と、野村克也は「バッターの直前まで頭の高さで球が来て、ボールになるかと思ったらストライクになった。同じ高さでストレートも投げるから簡単には打てなかった。(金田と対戦するとき)バットはグリップエンドから二握り分くらい短く持った」と語っている。金田のカーブは軌道の違いによって5種類あったといわれるが、特に「2階から落ちる」と言われた「モノになるのに10年かかった」という縦のカーブが武器だった。そのカーブは左肘に対する負担が大きく、毎年のように肘の痛みに苦しめられた。入団5年目辺りから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。序盤快調だったシーズンでも梅雨時や秋口に1か月くらい勝てないことがよくあった。

巨人に移籍した後は球速が落ちたが、バックの守りが安定していたこともあり、フォークや今でいうスラーブやカットボール気味の小さな速いカーブ、稀にシュートや超スローボールなども用いるようになり、球威の衰えをテクニックでカバーする技巧派の一面も見せている。

記録から見た大きな特徴としては奪三振の多さが挙げられる。1957年、プロ入り8年目にして通算2000奪三振を達成した。金田が第1号である。金田以前にもヴィクトル・スタルヒン、若林忠志、野口二郎、中尾碩志、藤本英雄、別所毅彦、杉下茂などの本格派の大投手はいたが、彼らはいずれも2000奪三振は達成していない。これは「打てば三振、守ればエラー」と言われるほど国鉄が弱く、「せっかく凡打に討ち取ってもエラーされては何にもならない」という思いから三振を奪うことに注力した結果であるという。通算400勝と並んで通算4490奪三振も歴代1位であり、来歴の項にある通り当時はMLBの記録をも凌駕していた。奪三振は後にノーラン・ライアンが更新し、現在はライアンの他、ランディ・ジョンソン、ロジャー・クレメンスが金田の記録を上回る奪三振数を記録している。

金田が入団した当時の国鉄は弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦を3度、20敗以上6度、入団以来国鉄に在籍した全てのシーズンに当たる15年連続で2桁敗戦、通算267敗を記録している。弱い国鉄にいながら敗戦数を大きく上回る353勝を挙げ、この間のチーム全体の勝星833勝の42%に相当する。この間の国鉄の順位は最高で3位が1回あるだけでそれ以外は全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。また、20年間の現役中、最高勝率のタイトルは1度も獲得できなかった。

通算400勝の金字塔は、今日の投手にとってはほとんど不可能な数字であり、「今とは時代が違う」ため同様に比較できないといった指摘もある。水道橋博士と雑誌で対談した際にそのことを指摘された金田は「この小童(こわっぱ)が!」と激高した。先発ローテーション確立前における、先発連投や先発救援兼任も当たり前だった、投手酷使時代の産物ではあるが、そんな中にあって、致命的な故障をせずに長期間勝ち続けた点に金田の真骨頂がある。この時代の投手でも200勝を達成した人間は数える程しかおらず、通算勝利数2位の米田哲也に50勝もの差をつけていることなどから、当時としても圧倒的だった。その勝利の約90%にあたる353勝を弱小球団であった国鉄時代に挙げていることも特筆に値する。当時国鉄と並ぶ弱小球団だった広島との対戦で通算90勝を挙げており、一人の投手が特定の1球団から挙げた勝ち星としては、自身の対大洋戦77勝、米田哲也の対ロッテ戦76勝を抑えてダントツの1位である。広島に対しては通算30敗しかしておらず60の貯金があり、山田久志が南海を相手に73勝28敗で貯めた45を抑えて1位である。

現役晩年、400勝と並んで金田が記録更新を目指したのがスタルヒンが持つ通算完封記録。金田の現役当時、スタルヒンの公式な完封数は84とされていた。金田は82完封で引退することになったが、金田の現役引退から数年後に集計ミスが発覚し、スタルヒンの通算完封数は83に訂正されている。仮に前記の集計ミスが金田の現役中に発見されて訂正されていたら、あとひとつまで迫っていただけに記録更新の可能性もあったとする意見がある。勝星を稼ぐために中継ぎ転向を勧められたこともあったが、金田はこの通算完封数の記録更新のために先発にこだわり続けたという。82完封のうち1/4以上を占める23試合で1-0のスコアで勝っており、通算1位である。既述のノーヒットノーラン、完全試合ともいずれも1-0である。0-1の完投敗戦21も史上1位である(0-2は9試合、1-2は17試合)。1-0での完封勝利の全て、0-1の完投敗戦も20敗までが国鉄時代に記録したものである。

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