近江俊郎の出身高校

近江俊郎 ミュージシャン

近江俊郎卒業高校
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性別
男性
生年月日
1918年7月7日生まれ

近江 俊郎(おうみ としろう、1918年7月7日 - 1992年7月5日)は、東京都出身の歌手、作曲家、映画監督である。本名大蔵 敏彦(おおくら としひこ)。兄は新東宝、大蔵映画社長を務めた大蔵貢、姉はコロムビア専属歌手となった香取みほ子。

正則中学校卒業、武蔵野音楽学校に在学中、教授と進級試験の方法を巡って対立。1936年(昭和11年)に退学した。タイヘイレコードから鮫島敏弘の芸名で「辷(すべ)ろよスキー」でレコードデビュー。ポリドールレコード専属になるまで、マイナーレコードを転々とし、その間に大友博(リーガル)、大久良俊(アサヒ)など改名を重ねるが、ヒットに結びつく作品はなかった。その間では、特にリーガル専属として活躍した大友博名義でのレコーディングが多く、松平晃の「夕日は落ちて」の替え歌「流浪の涙」やコロムビア本盤から本名で発売された「北京高脚踊り」などが代表作となる。

1940年(昭和15年)、ポリドールに自ら作曲した「想い出の並木路」を持ち込んで、歌手兼作曲家として専属となり、同曲でデビュー。「どうせこの家業は水商売だから…」と琵琶湖に近い滋賀の近江商人にならって、「近江志郎」と名乗り、「世紀の青空」「僕の東京」「広東航路」など、20曲以上をレコーディングし、ポリドールの代表的な歌手となるが、1941年(昭和16年)末の宴席で、ワンマンで有名な鈴木幾三郎社長と対立。そのまま、ポリドールを退社してしまう。

1942年(昭和17年)、ポリドールの先輩である上原敏のヒット曲「妻恋道中」をテストで歌ってコロムビアの専属歌手に。さらに古賀政男に懇願して、門下生となり、主に軍需工場の慰問に活躍した。「南方みやげ」を近江志郎名で発売した後、近江俊郎と改名し、「突撃喇叭鳴り渡る」「敵白旗を揚げるまで」「かくて神風は吹く」などをレコーディングするが、当時の近江にとって印象が深い曲は、ニュース歌謡「台湾沖の凱歌」であったと後年に語っている。

デビューから10年目の1946年(昭和21年)に「悲しき竹笛」が大ヒット。当初、会社側は奈良光枝のソロで発売したい意向であったが、古賀の推薦により近江がデュエットすることとなった。さらに翌年、ポリドール時代に懇意にしていた米山正夫がシベリアから復員。抑留中に作曲した「山小舎の灯」を持ち込み、この曲に感動した近江が強力なプッシュでNHKのラジオ歌謡に採用させ、大ヒットとなった。この曲のヒットでコロムビアの専属となった米山の次作「南の薔薇」も大ヒットし、歌手としての地位を確立。近江が主演し、水戸光子の共演で大映で映画化されるほどとなった。

1948年(昭和23年)、霧島昇のために作曲した「湯の町エレジー」を、古賀は近江にレコーディングさせた。歌い出しの低音が出ず、本番を20回近く録り直す苦心の末に発売。同曲は1年で40万枚、最終的には100万枚近い大ヒットになる。「湯の町物語」などシリーズものが発売されるほどのヒット作となり、岡晴夫、田端義夫とともに戦後三羽烏と言われるスターダムにのし上がることとなる。

その後も、1949年(昭和24年)に「ハバロフスク小唄」「月夜船」などのレコードをヒットさせる一方、映画にも主演や助演で2枚目役として活躍し、順調であったが、1951年(昭和26年)、多額の支度金を用意されキングレコードに移籍。「湯の町月夜」などのヒットを出すが、「専属作曲家の作品を吹き込まずに、自分の作品だけをレコーディングしていたら、キングの作曲家を代表して江口夜詩から抗議を受けた」ということもあり、3年の契約終了後退社。ポリドールに移籍し、「忘れないよ」などを発表。

1955年には近江プロダクションを結成して映画制作に乗り出し、同年に自ら主演した「陽気な天国」(日活)で監督デビュー。翌年、兄の経営していた新東宝へ活動の場を移し、1960年までの5年間で20本以上の映画を制作した。

映画に進出してからの近江は、高島忠夫を主演とした「坊ちゃんシリーズ」やコロムビア・トップ、ライト、古川緑波を起用した「珍道中シリーズ」などの喜劇映画を得意とした。近江自身もマーキュリーで「坊ちゃん青空を行く」などをレコーディングし、歌手活動も継続しているが、作曲家としても藤島桓夫らに曲を提供している。特に1961年(昭和36年)に、由利徹のために作曲した「カックンルンバ」はヒットした。

また戦後1979年、脇役(長田総長役)ではあるが喜劇映画「下落合焼とりムービー」にも出演。

1960年代後半(昭和40年代)以降は、なつメロ歌手として活躍する一方、テレビ番組の司会者やコメンテーターとしての才能を発揮。歌手というよりタレントとして認知されていく。B級歌謡番組やモノマネ番組などの「審査委員長」を務める事が多く、紹介の時に「近江俊郎大先生!!」などと紹介された。往年のスター歌手でありながら、本人も偉ぶらない洒脱なキャラクターを通していたことから、この頃には既に好々爺の風格があった。萩本欽一のバラエティー番組テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」出演時は「トウシロウ君」の名でレギュラー出演、ユーモラスな学生服姿と飄々とした演技でお茶の間を沸かせたこともある。やはり萩本が主演だったフジテレビ「オールスター家族対抗歌合戦」で審査員を務め人気を得る。しかし。1985年の年末に同じ審査員だった立川清登が急死し、翌年1月に異例の追悼特番を放送し、出演者代表で弔辞を読み号泣した。

一連の喜劇映画を監督した経緯からお笑いにも造詣が深く、「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ)の審査員も永年務めていた。このほか「ドバドバ大爆弾」(テレビ東京)等でも肩書きは常に審査委員長であった。「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」(日本テレビ)が末期のテレビ出演であったが、この時もとんねるずが久々にコントネタを披露する際の審査員役であった。

1976年(昭和51年)、「惜しまれるうちに引退したい」と歌手としての引退を宣言(後年それは夫人の想いを酌んだものであることを明かしている)、全国縦断リサイタルを行い、最終公演はNHKホールで「ビッグショー」の公開録画と兼ねて行われた。しかし1979年に恩師である古賀政男の追悼音楽会が開かれるにあたって3年ぶりにマイクを握った。この音楽会において「一番世話になった人の会に美空ひばりが出ないのは人の道に外れている」と発言し、メディアの話題をさらった。一方、美空ひばりの所属プロダクションは、美空の不出演は長期劇場公演中のためであり、美空自身には出演の意思はあり、もっと早期に製作側の出演要請があればスケジュール調整も可能であったと釈明をしている。その後、もともと幼少時から可愛がっていた美空とは和解が成立。1985年放送の「思い出のメロディー」では久々に競演し、にこやかに両者が話すシーンも放送されている。

この公演以後「原則、歌手は引退」としながらも、NHK「思い出のメロディー」(1985、86年)やテレビ朝日「題名のない音楽会」(1989年)など、メディアで往年のヒット曲を披露することは少なくなかった。また「今夜は最高!」へ出演した際にはこの言動をパロディ化したコントを自ら演じている。

周囲の要望と、引退を薦めたとされる夫人から諒承を得たことから1990年(平成2年)にテレビ東京「年忘れにっぽんの歌」で歌手として復帰。舞台劇「影を慕いて」や歌手協会主催の「歌謡祭」などにも活躍を始めるが、1991年10月、1990年に患った前立腺癌が再発したことを公にし「絶対勝ってみせる」と語るも、その直後急激体調は悪化。入退院を繰り返し、1992年7月5日に肝不全のため死去。命日は誕生日の僅か2日前である。亡くなる次の日には「昭和歌謡大全集・第2弾」(テレビ東京)の収録予定が入っており、また9月には神奈川県内数ヶ所でリサイタルを開く予定があった。

なお、実兄との関係で死去するまで大蔵映画の副社長を務めていた。

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