谷亮子の出身高校

谷亮子 議員

谷亮子卒業高校
福岡工業大学附属城東高校 偏差値 福岡県高校偏差値ランキング
議員ランキング
717位 / 885人中 議員別偏差値ランキング
性別
女性
生年月日
1975年(昭和50年)9月6日生まれ
血液型
A型

谷 亮子(たに りょうこ、1975年(昭和50年)9月6日 - )は日本の政治家、元柔道競技者(四段)。生活の党と山本太郎となかまたち所属の参議院議員(1期)、生活の党と山本太郎となかまたち副代表兼参議院幹事長。旧姓は田村(たむら)。オリンピックで2度、世界選手権で7度金メダルを獲得した。柔道競技の引退後、2010年の第22回参議院議員通常選挙で民主党の比例候補として当選し、のちに小沢一郎らとともに離党。

帝京大学文学部卒業、日本体育大学大学院修了。夫はプロ野球選手の谷佳知である。

血液型はB型。階級は48kg級。組み手は右組み。段位は四段。得意技は背負投。福岡工業大学附属高等学校(現・福岡工業大学附属城東高等学校)、帝京大学文学部卒業、日本体育大学大学院博士前期修了。元トヨタ自動車所属。日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度を適用。

世界選手権6連覇、全日本体重別11連覇、福岡国際11連覇、オリンピックでは2度の金メダル、2度の銀メダル、1度の銅メダルと出場した5大会全てでメダルを獲得するなど圧倒的な戦績を誇り、女子柔道、柔道の普及に大きな貢献をした。

2010年(平成22年)3月31日付でトヨタ自動車のスポンサー契約(同社所属の従業員選手扱い)が終了し、選手としての所属を個人事務所の「オフィス・リョウコ」に変更する。2010年(平成22年)5月10日、第22回参議院議員通常選挙で民主党の比例区公認候補として出馬表明を示した。柔道については当時は現役続行を宣言し、2012年のロンドンオリンピックで金メダルを目指す意欲を示していたが、断念した(後述)。

同年7月、第22回参議院議員通常選挙で民主党の比例区から立候補し、民主党公認候補の中で得票数第2位となる352,594票を獲得し、初当選を果たした。小沢ガールズと報道される。

本人は前述の通り、現役選手と国会議員の活動を両立する意向を持っていたが、同年9月17日、全日本柔道連盟の強化委員会が強化指定ランクを格下げ(最上位の「ナショナル」から「シニア」に1段階降格)したことにより国際大会への出場が大幅に制限されることとなった。

その後も柔道競技者として練習は続けていたものの、2010年10月15日、国会議員としてまずは国政でのスポーツ振興に全力を注ぐことを優先し、2012年のロンドン五輪への代表選考試合への不参加を表明し、「柔道家引退」と報じられた。なお、2008年の北京オリンピックで銅メダルに終わって以降、柔道の公式試合には一度も出場していない。

2012年7月2日に小沢一郎の民主党離党に同調して離党届を提出。翌3日に受理され、10日に離党した。その後2012年7月11日、小沢が率いる国民の生活が第一の結党に参加した。同年11月28日、嘉田由紀子滋賀県知事が代表を務める「日本未来の党」(前日27日に結成)に参加した。12月1日、党幹事(遊説担当)に就任。 日本未来の党の解党後は、小沢一郎の率いる生活の党と山本太郎となかまたちに所属している。

2013年6月には全日本柔道連盟の理事に田辺陽子、北田典子とともに女性として初めて起用されることになった。その際に「(女子選手の)窓口的な役割が求められていると思う。柔道を通じて夢や希望を持てる体制を作りたい」「選手と所属(団体)、全柔連などの組織が孤立しないように、意思の疎通を深めたい」「日本発祥の柔道には素晴らしい伝統と文化がある。それを広めながら改革していきたい」と決意を語った。

2013年8月2日、生活の党副代表兼参議院幹事長に就任した。

2015年6月には公務多忙を理由に全柔連の理事から外れた。

城浜小学校2年生の時に兄に影響されて東福岡柔道教室で柔道を始める。それからわずか数ヵ月後には櫛田神社の奉納試合で5人抜きを演じたが、その際には男の子を投げ飛ばして、けがを負わせたことがある。この当時は柔道以外にピアノと書道と乗馬も習っていたが、ある時ピアノの教師に「ピアノには五輪はなかと」と言われたことがきっかけで柔道に専念するようになった。

小学校5年の時には全国少年柔道大会の団体戦に東福岡柔道教室の先鋒で出場して、準決勝で敗れたものの、3位入賞を果たした。

城香中学2年の時に体重別九州予選に出場すると、準決勝で柳川高校3年の衛藤裕美子と対戦した。ポイントでリードしながら終了20秒前に送襟絞をきめられて参ったしてしまい、本選への出場はならなかった。この際に道場の師範だった稲田明に、「試合を放棄するようなことはするな。あと20秒辛抱すれば勝ったのに、今までやってきたことが台なしではないか。やり直しだ」と叱られて顔を叩かれた。道場では竹刀で叩かれたことがあったものの、顔を叩かれたのはこの時が初めてだったという。

翌年は九州予選で優勝して本選に進むも、準決勝でこの階級の第一人者である筑波大学1年の江崎史子に横四方固で一本負けしたが、3位に入賞した。

8月には全日本のフランス遠征メンバーに選ばれて、現地での練習試合では5戦全勝した。

10月には強化選手選考会に出場して、決勝で京都産業大学3年の坪井由香里に先に小内刈で効果を取られるが、すぐに同じ小内刈で効果を取り返すと、その後は攻め込んで判定勝ちを収めて福岡国際の代表に選ばれた。

12月の福岡国際には大会が始まった1983年以来、集団演武に東福岡柔道教室の一員として毎年参加していたが、今回は初めて選手として出場することになった。 その初戦で中国の高宇紅と対戦して技ありと有効2つを取るも、終了間際に高の内股で審判団が協議になるほど一本に近い技ありを取られた。しかし判定は変わらず優勢勝ちを収めることとなった。準決勝では長年この階級の女王として君臨してきたイギリスのカレン・ブリッグスを体落と内股で立て続けに技ありを取って僅か28秒の合技一本で破った。さらには、決勝でも前年の優勝者である中国の李愛月に内股すかしで一本勝ちして、この大会最年少の15歳での優勝を成し遂げ、衝撃的な国際大会デビューを飾った。その直後に開催された体重無差別の福岡県女子選手権では、4階級上の66kg級の選手である福岡大学1年の多田尾優子を判定ながら破って優勝を飾った。なお、小学校の頃から引っ込み思案で思ったことをなかなか口に出せなかったが、福岡国際で優勝した際に一部マスコミから愛読していた漫画のYAWARA!の主人公に引っ掛けて「ヤワラちゃん」と呼ばれるようになってからは、自分の思っていることを躊躇わずに発言できるだけの強い気持ちが持てるようになったという。

1991年4月には福岡工大付属高校に進学した。 そして6月の体重別では、準決勝で筑波大学1年の永井和恵を掬い投げで破り、決勝では同大会の6連覇を狙う江崎に対して後半に攻め込まれていたものの、出足払で相手を崩したのが評価されてか、3-0の判定で優勝して前年の雪辱を果たすとともに、世界選手権代表に選ばれた。

7月にバルセロナで開催された世界選手権では、2回戦で世界ジュニアチャンピオンであるキューバのレグナ・ベルデシアに有効を取って優勢勝ちするなどして勝ち進むも、準決勝でブリッグスに寝技に持ち込まれて上四方固で一本負けし、3位決定戦でポーランドのマウゴジャータ・ロシュコフスカを大外刈で破り3位になった。

10月の国体少年女子の部では柳川高校2年の佐野奈津子、3年の国吉真子とともに福岡チームの一員として参加して、チームの優勝に貢献した。

11月には大阪で開催されたアジア選手権に出場。初戦で中国の湯礼紅に有効2つ取られて敗れたが、その後の3位決定戦で韓国の尹榮娥に3-0で判定勝ちして3位に入賞した。

続く福岡国際では決勝で江崎との対戦になり、両者注意の後、江崎に場外際に追い込まれ動きが止まったため赤畳5秒ルールの警告が与えられるかとも思われたが流されて、終了間際に内股で効果を取って辛うじて勝利を収めた。

1992年2月にはドイツ国際に出場して、決勝で地元ドイツのドルテ・ダンマンを内股で破ったのをはじめ、オール一本勝ちで優勝した。

5月の体重別では、決勝で埼玉大学1年の長井淳子に先に小内刈で有効を取られるも、その後すぐに掬い投げで有効を取り返して、3-0の判定で優勢勝ちして大会2連覇を達成するとともに、オリンピック代表に選ばれた。

バルセロナオリンピックでは、初戦でキューバのアマリリス・サボンから有効を取って破るなどして勝ち上がり、準決勝ではブリッグスを素早い動きで翻弄して反則勝ちを得たものの、決勝ではフランスのセシル・ノバックに効果2つを取られて敗れ、2位になった。

オリンピック後最初の大会となった12月の福岡国際では、準決勝で昨年のアジア選手権で敗れた湯を払腰で破って雪辱すると、決勝でもフランスのシルビー・メルーを背負落一本で下してオール一本勝ちで大会3連覇を達成した。

1993年の2月にはフランス国際に出場して、3回戦でフランスのフレデリク・ジョシネに効果で勝った以外は、決勝のサボン戦も含め全て一本勝ちで優勝を果たした。

3月には高校選手権に出場して、準決勝までオール一本勝ちで勝ち上がり、決勝では土浦日大高校1年の磯崎祐子に3-0の判定勝ちして優勝した。

5月の上海での東アジア競技大会では、決勝で地元の湯から背負投で有効を取って破り優勝を果たした。

7月の体重別では決勝で長井を3-0の判定で破り世界選手権代表に選出された。

7月には団体戦の金鷲旗にも福岡工大付属高校の一員として参加して、1 - 2階級上の選手を相手に3戦全勝した。

10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では、準決勝でイタリアのジョバンナ・トルトラを出足払で破り、決勝でも李を盛んに攻め込んでポイントこそ取れなかったものの3-0の判定で破り、世界チャンピオンになった。

その後の国体では、柳川高校2年の阿武教子、三池高校2年の杉野美紀子とともに福岡チームの一員として参加して、オール一本勝ちを成し遂げてチームの優勝に貢献した。

12月の福岡国際では決勝でロシアのタチアナ・クフシノワを合技で破り優勝を果たした。

1994年になると帝京大学に進学した。

5月の体重別では、決勝でミキハウスの衛藤由佳を合技で破って優勝し、アジア大会代表に選ばれた。

10月に広島で開催されたアジア大会では、決勝で李を3-0の判定で破って優勝を果たした。

11月には強化選手選考会に出場して、決勝で長井から効果を取って優勝を果たした。

12月の福岡国際では決勝で長井から有効を2つ取って優勝して、バルセロナで敗れてから続いてきた連勝記録を50に伸ばした。

1995年5月の体重別では、決勝で長井から大外刈で有効を取り優勝して世界選手権代表に選ばれた。

8月に福岡で開催されたユニバーシアードでは、決勝でサボンに払腰で一本勝ちしたのをはじめ、オール一本勝ちで優勝を果たした。

10月に幕張で開催された世界選手権では、3回戦でサボンから小内巻込で技あり、準々決勝でもジョシネから効果を取って勝ち、準決勝では映画ホーム・アローンに出演したこともある女優で、なおかつ前年の世界ジュニアチャンピオンでもあるアメリカのヒラリー・ウルフを開始早々の体落で破り、決勝では前回大会に続く対戦となった李に対して、先にポイントを取りながらなお攻め続け、ラスト1秒に双手刈で一本を取って優勝し、大会2連覇を達成した。

その後の福岡国際でも決勝でサボンを縦四方固で一本勝ちするなどオール一本勝ちで優勝を果たした。

1996年3月の体重別では、決勝で長井から効果を取って優勝してオリンピック代表に選ばれた。

7月のアトランタオリンピックでは、今度こそ金メダルと期待された。

準決勝でサボンを背負投で破るも、決勝戦ではワイルドカードで出場。暗黙のルールを破って出場した北朝鮮のケー・スンヒに苦戦。ケー・スンヒは柔道着を左前に着ているので組み手が取れず、終盤払腰を小外刈で切り返されて効果を取られ、さらに指導を与えられて敗れ、前回大会に続いて2位になった。 この敗戦によって、前回オリンピックで敗れてから続いてきた連勝記録も84でストップした。

オリンピック後最初の大会となった福岡国際では、準決勝で李に2-1の判定で辛うじて勝利すると、決勝ではサボンに注意で勝って優勝した。

1997年1月には大阪で開催されたワールドカップ団体戦に日本チームの一員として準決勝のキューバ戦のみに出場して、そこでサボンを有効で下して勝利したが、チームは敗れて3位になった。

5月の体重別では長井から燕返で有効を取って勝ち、世界選手権代表に選出された。

10月にパリで開催された世界選手権では、準決勝で北朝鮮のペ・ドンスクを合技で下して、決勝でもサボンから内股で有効を取って破り大会3連覇を達成した。

12月の福岡国際では決勝で長井を指導で下して優勝した。

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