萩本欽一の出身高校

萩本欽一 お笑い芸人

萩本欽一卒業高校
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お笑い芸人ランキング
89位 / 407人中 お笑い芸人別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1941年5月7日生まれ
血液型
A型

萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年5月7日 - )は、日本のコメディアン、タレント、司会者、ラジオパーソナリティー、演出家である。日本野球連盟茨城ゴールデンゴールズの初代監督でもある。

東京都台東区出身。浅井企画、佐藤企画(業務提携として所属)、萩本企画(個人事務所だが浅井企画の関連会社)所属。身長164cm、体重65kg。血液型はA型。駒込高等学校卒業。2015年4月より駒澤大学仏教学部に在学している。

大衆からはもとより、芸能界でも先輩・後輩問わず「欽ちゃん」の愛称で呼ばれる。その他の愛称は「萩モー」「萩」「欽坊」「欽様」など。また、彼の番組や舞台から育った欽ちゃんファミリーからは「大将」と呼ばれている(ビートたけしが弟子たちに「殿」と呼ばせているのは、萩本と周囲のこうした関係性への憧憬や敬意によるところが大きい)。ゴールデンゴールズの選手からは「欽督(きんとく)」と呼ばれている。

1970年代〜1980年代に、「なんでそーなるの!」というギャグや、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方(原点は師匠の東八郎)など体を使った笑い、さらに素人および素人っぽさを残す才能を開花させたり番組でユニットを作り曲を出すなど現在のバラエティの基本となるものを開発。本人によると「演技のボケは難しいから、素人を連れてくる方が簡単」。

「どっちらけ」「バンザーイなしよ」など、語り継がれるギャグも多い。後に普通に使われるようになった「ウケる」(ややウケ、バカウケなど)という言葉も、最初は『欽ちゃんのドンといってみよう!!』から広まったとされる(芸人言葉を一般にも広めた)。また、「天然ボケ」(略して天然とも)を初めて使ったのも萩本であるとされている)。

東京府東京市下谷区稲荷町(現:東京都台東区東上野3丁目)生まれ。両親は香川県小豆島出身。父の実家は饅頭屋で、母はお嬢様で嫁ぎ先で洗濯をする発想が無く洗濯物を貯めこむ有様だった。稲荷町で幼少期を過ごすも、父親が稲荷町の長屋で営んでいたカメラ製造販売(戦時中に借金をして買い込んだ故障品を戦後ニコイチで粗製し、進駐軍に売りさばいた)が成功し埼玉県浦和市に家を建てたため、稲荷町から一家で浦和に転居、裕福な少年時代を送る。父は都内に妾を囲っており浦和へは週末しか帰宅しなかったが母はそれを甲斐性として是認し子供達には立派な父だと教え萩本少年には妾宅へ遊びに行く事を勧めたりしたという。父と愛人と萩本少年とで浅草へよく出かけ、それが芸能へ興味を持つ原点になっている。地元の市立高砂小学校では級長をしたりしたが、強い生徒の後ろに隠れたり、女の子と遊ぶような少年だった。遊びに行った家の親御さんにおべっかを使うのが上手で可愛がられたという。昭和25年、萩本が小学校5年の時、父の会社が倒産(低価格カメラを発売するも販売不振。ボルタフィルムを参照。)。再び稲荷町の長屋に居を移す。さらに中学校3年の時、文京区丸山町に転居するが極貧生活を余儀なくされ萩本の高校時代に一家で夜逃げ。その後家族は"解散"し両親は香川に帰った。父はその後、欽一の兄が開いた写真館で働いていた。

極貧の生活を抜け出したい萩本は、映画で“面白い人が面白いことをしてお金をもらっている姿”を見たことがきっかけで中学卒業と同時に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られた。高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、寸前で入門することを取り止め、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。

東洋劇場では、先輩芸人である池信一や石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼らの大師匠筋である浅草の首領こと深見千三郎からも薫陶を受け、大いに可愛がられる。

入団当時、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込み諦めようとした際、池が演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっといていいよ」と萩本を引き止めた。その後、その演出家から「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ」と池が言っていたことを知らされる。さらに、その演出家から「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ」と言われ奮起。その後、誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返すなど才能を努力で補うために必死になった。

その後、父親の家が火災になり、萩本は父親を助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあったが、それを聞いた池は、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を萩本に渡した。これには、萩本も感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意した。

東洋劇場で上達した頃、同系列の浅草フランス座へ出向。ストリップの幕間コントでさらに腕を磨く。ここで漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(後の坂上二郎)と知り合う。しかし、当時は共演というよりはむしろ競演で、お互いに自分だけがウケようと衝突していたとのことである。彼の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったという。

その後萩本は東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て浅草松竹演芸場で劇団浅草新喜劇を旗揚げして座長公演を行う。同時期に、放送作家のはかま満緒に師事してお笑い作りに本格的に取り組む。ここで、後年コント55号のほとんどの台本を手掛けた岩城未知男と知り合う。さらに、はかまの伝手で、TBSのプロデューサー・向井爽也や芸能マネージャー・浅井良二(浅井企画代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始。向井の手掛ける公開コメディ番組ジンタカ・パンチ!のコマーシャルに起用される。しかし、ここで緊張したのか気負ったのか、萩本は異例とも言える21回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる。

失意の萩本は、テレビ進出を諦め生涯舞台役者で生きていくことを決意。浅草新喜劇も解散して、熱海つるやホテルの営業で再起を期していた。ここでたまたま考案した一人コント「机」が、後年日本中を席捲したコント55号の端緒となるのである。

後に『快獣ブースカ』で脚本家デビューすることになる市川森一と、はかま満緒師事時代に友好を持ち、市川は後年、日本テレビの開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は小堺一機)の、これらのエピソードを描いている。

熱海で考案したコント「机」を売り込もうと帰京したところ、たまたま坂上二郎から電話が掛かってきて会うことになり、その際萩本が「机」のあらすじを語ったところ坂上から「そのコントは二人で演じた方がいいのでは」と提案されたのがきっかけとなり、一回の舞台契約だけで、1966年、「コント55号」を結成。

なお萩本は帰京後すぐにそのまま劇場にコントを売り込むつもりでおり、帰京直後というタイミングで坂上からの電話がなければコント55号の結成はなかったと後年語っている。

前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』(1968年〜1971年)で人気に火がついた。以降、『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』『コント55号のなんでそうなるの?』(ともに日本テレビ)、『チータ55号』『みんなで出よう55号決定版!→55号決定版!』(TBS)、『ウォー!コント55号!!』『コント55号!!笑ってたまるか!?』(いずれもNETテレビ・現:テレビ朝日)など数多くのレギュラー番組を抱え、テレビを席巻した。その後もコンビとしての活動は続いたが、1975年に始まり、久米宏の司会で大人気となった『ぴったし カン・カン』(TBS)では双方がチームリーダー役になるなど、70年代後半以降はコンビでのコントやテレビ出演の機会が減少し、次第に個々の活動を中心とするスタンスに変わっていった。その後、萩本はコメディアンとして活躍。坂上はその後は、俳優活動が中心となっていく。

コント55号で人気絶頂期の頃の1971年、日本テレビ『スター誕生!』の初代司会者(司会は初めての経験)としてソロ活動を始める。ソロでも人気は安定であり、それ以降の主演のレギュラーにも結びついていく。翌1972年にはニッポン放送のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』が開始。聴取者からのハガキ投稿が基本の番組で人気が上昇、1975年にニッポン放送と同じフジサンケイグループのフジテレビにて『欽ちゃんのドンとやってみよう!』として公開テレビ番組となる。当時同局で司会を担当していた『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年〜1986年、ただし萩本は1984年6月限りで司会を降板)で編み出したともいわれる、ゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶり(いわゆる「素人いじり」)は、「欽ドン!」では素人主体で結成された「欽ドン劇団」や、ロケ先で道行く人々をも巻き込み大きく開花し、後の番組においても一連の素人扱いぶりは天才的な至芸を極めた。

オファーがあった際に「僕は司会ができないから、ちゃんと司会ができる女の子をつけてほしい」と希望、これが後のアシスタントの走りとされる。

以降、間を置いて1981年には月曜9時にフジテレビ『欽ドン!良い子悪い子普通の子』シリーズが開始。(最高視聴率38.8%)1976年から始まっていたホームコメディのテレビ朝日(当初はNET)『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(欽どこ)は、最高視聴率42%を記録する。1982年に始まったTBS『欽ちゃんの週刊欽曜日』(最高視聴率31.7%)、さらにはTBS『ぴったし カン・カン』(最高視聴率37.6%)、フジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』(最高視聴率28.5%)と高視聴率番組が続き、各番組の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取る。これらの番組から人気芸能人が生まれ、彼らは「欽ちゃんファミリー」として巣立った。

一連の企画・主演バラエティ番組以外でも、先述の『スター誕生!』、『オールスター家族対抗歌合戦』の司会者以外にも、1978年から現在も続いている『24時間テレビ』(日本テレビ系)と1975年に始まった『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』(ニッポン放送)では初期にメインパーソナリティを務め、番組の顔ともなった。

1985年3月、充電と称して当時のレギュラー番組を全て降板、半年間程休養する(ただし『欽ちゃんの仮装大賞』の司会だけは例外として続行している)。理由について本人は「『100%男』と言われるまでに至った人気を維持していくことに自信が持てなくなった」と説明、また当時人気のあった『オレたちひょうきん族』などの一連のアドリブ主導(出演者の技量、機転に依存、丸投げにする番組作り)のテレビ番組が嫌になったとも言われる。また視聴率が下降気味であることを指摘されるようになり嫌気が差したとも本人は後に述べている。

休養後テレビに復帰するも、復帰した番組は休養前とうって変わって低視聴率に陥り、次々と打ち切りの憂き目に遭う。1980年代前半にはタモリ・ビートたけしらと共に「お笑いBIG3」とされてきたが、その「BIG3」の座も明石家さんまに明け渡すなど人気においても以前程の勢いはなくなった。しかしながら2010年代に入っても『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』(日本テレビ)の司会などでテレビに登場している。

2007年8月18日 - 19日に放送された『24時間テレビ30「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンランナーになる。66歳という年齢などを考慮して走行距離は通例より短い70kmとした。残り900m余りを残したまま放送時間内(20時52分30秒)でのゴールはできなかったが、引き続き生放送された『行列のできる法律相談所』内にてゴール。瞬間最高視聴率はゴール直前の20時52分に43.9%を記録、ゴールの模様を放送した『行列〜』の平均視聴率は35.3%に達した。66歳でのマラソンランナーは最年長記録となっていたが、2011年の第34回で当時70歳の徳光和夫が担当し、更新された。

2008年10月に「ちょんまげワールド伊勢」の名誉村長に就任。1993年にも同所でプロデュースしているが、劇場が閉鎖されていたことを役者から聞いたことがきっかけで再興に乗り出したという。当時は劇場の役者への演技指導や、施設のプロデュースを行っていた。なお、ノーギャラでこの仕事を引き受けており、交通費も自費で通っていた[7]。この縁で2010年12月には三重テレビ放送の名誉局長にも就任した[8]。なお名誉村長については、時期は不明だが、既に辞任している。

2003年からは不定期に明治座での座長公演を行うなど、舞台公演に力を入れていたが、「大きなステージでは動けない」として2014年3月の公演を最後に大劇場での公演から引退する方針を明らかにしている[9]。

萩本の番組や舞台をきっかけに活動の域を広げた関根勤、小堺一機、はしのえみ、柳葉敏郎、勝俣州和らはその後もテレビやラジオ、舞台で活動を続け、また君塚良一、大岩賞介といった脚本家を育成させるなど、芸能界、放送界における萩本の影響力は強く、東京では無名に近かったダウンタウンを自らの番組に出演させて、東京進出のきっかけを作っている。笑いの方向性では対極とも言えるダウンタウンだが、彼らは義理を非常に重んじる面もあり、萩本には他の先輩芸人とは別格の念を持っておりラジオ番組のネタで萩本を揶揄するネタが来たときも、浜田が「萩本さんの悪口言わんといてくれ」と述べている。松本は著書で、「あの時期のダウンタウンに好き勝手やらせて(他のタレントには細かくダメ出しをしていたのに)OKを出していた大将はやっぱりすごい」と評している。

また同時期にジミー大西の才能を見いだし、10年に1度の天才芸人を発見した!と喜ぶが、2人きりで楽屋に入り出て来た後「天然だったんだね…」と一言残し落胆するが、この言葉が天然ボケの言葉を定着させることとなる。1998年には長野オリンピックの閉会式司会を担当。また、1990年代以降、前川清や自らが主催する欽ちゃん劇団の舞台などで演出家としても活動している。

「欽ドン!」「良い子、悪い子、普通の子」「欽ちゃん劇団」など、萩本の発案による冗談やネタは数多い。音曲に合わせ踊りながらじゃんけんをして、負けた者が服を脱いでいく野球拳は、『裏番組をブッ飛ばせ!』で使ってから世間に広まった。ただし汚れ役であることと、野球拳が主体となり自分たちのコントが2次的な存在になることへの嫌悪感から、当時はこの役を相当嫌っていた部分がある。ただし2005年の野球拳発祥の地松山での祭りでは、野球拳(本来の野球拳は服を脱がない)で出演した。この際野球拳について35年ぶりに謝罪し話題を呼んだ。また、じゃんけんの「あっち向いてホイ」は『スター誕生!』の欽ちゃんコーナーで放送されたのをきっかけに全国に広まったものである。

高校時代は野球部に籍を置くいわゆる高校球児だった。

1975年頃には「欽ちゃんず」というチームを持ち、雑誌社などのチームと交流試合も行ったこともある。当時は背番号の代わりに女優の名前を入れたりしていた。

「欽ちゃんのドンとやってみよう!」では、元プロ野球選手の尾崎行雄や“ヒゲ辻”こと辻佳紀らの3人チームがアマチュアチームと対決する「欽ドン!野球」のコーナーもあった。

そのためか、2004年12月26日に、近年の野球人気の凋落を危ぶみ『野球はもっと楽しいスポーツ』だと、2005年度からの日本野球連盟加盟を目指し、関東を本拠(後に茨城県桜川村〔2005年3月22日に平成の大合併に伴い稲敷市になる〕を本拠地に制定)とした社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ(以下、茨城GG)」(愛称:欽ちゃん球団)を結成。萩本は、独自のマイクパフォーマンス や女子選手・元プロ野球選手・お笑い芸人などの参入など、前例のないチーム作りを推進し、茨城GGをアマチュア野球随一の人気チームへと成長させた。また、宮崎県においても、姉妹チームの宮崎ゴールデンゴールズを結成。

これにより、森田健作や山本譲二、森口博子ら著名人が監督となってクラブチームを設立する事例が続出し、野球人気の回復に大きな功績を残した。

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