福田健二の出身高校

福田健二 サッカー選手

福田健二卒業高校
習志野市立習志野高校 偏差値 千葉県高校偏差値ランキング
サッカー選手ランキング
915位 / 1982人中 サッカー選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1977年10月21日生まれ

福田 健二(ふくだ けんじ、1977年10月21日 - )は、愛媛県新居浜市出身のサッカー選手。ポジションはフォワード(FW)。香港ファーストディビジョンリーグ・夢想駿其足球會所属。

小学2年生の時に兄の影響でサッカーを始めた。両親の離婚により母子家庭に育ち、5年生の時に母が生活苦から自殺するという少年時代を過ごした。

父に引き取られて千葉県袖ケ浦市へ転居した後も金銭的な問題からサッカーを諦めかけたが、同級生で同じサッカークラブに所属していた廣山望ら友人たちの助けもあって中学でもサッカーを続け、1992年のU-15クラブ選手権で全国3位の成績を残した。Jリーグ開幕前だったこともあり、中学卒業時にはサッカーのためにブラジルへの移住を考えるなど当時から海外志向を持っていた。

1993年に習志野高校に進学。本田裕一郎監督からゴールへの執念を買われて、1年時から1軍入りし、1994年の高円宮杯で3位、1995年の高校総体で優勝。同期には廣山を始め、小田島隆幸、西脇徹也 (en) 、御厨景、桜井啓らがいた。

1996年に高校を卒業し、Jリーグ・名古屋グランパスエイトに加入。「日本人ストライカーを育てたい」と語るアーセン・ベンゲル監督の下、同年3月のスーパーカップで先発出場し、デビュー戦で1得点1アシストを記録した。1997年、U-20日本代表としてワールドユース出場。名古屋ではストイコビッチと好連携を築き、1998年には公式戦18得点(リーグ戦ではチーム得点王となる16得点)を記録。Jリーグで結果を残したことで海外移籍につながると考えていたが、移籍金や契約期間の関係で不調に終わり、翌1999年のシーズン終了後の移籍も叶わなかった。フィリップ・トルシエ監督率いるシドニーオリンピックを目指す日本代表に招集され、レギュラー格として出場を続けていたが恵まれたJリーグの環境に居心地の悪さを感じる中で徐々に結果を残せなくなり、2000年の本大会メンバーからは外れた。名古屋でも新加入の呂比須ワグナーやウェズレイがFWに定着したことで十数分間出場してヘディングで競り合うだけという状況になり、2001年、ストイコビッチの現役引退と同じタイミングで退団した。

この際、ベルギー・REムスクロンからオファーを受けていたが、代理人からの説得を受けて2001年8月、FC東京へ完全移籍。しかし東京では、1トップにアマラオが入る布陣が採用されていたため、福田は左サイドハーフ(SH)という不慣れなポジションに配された。同年9月、トルシエ率いるA代表候補に選出。2002年は監督交代の影響もあって先発から外れていたが、練習に打ち込む真摯な姿勢は若手選手から慕われ、同年J1・2nd第14節浦和戦のVゴールなど印象に残るプレーでサポーターから愛された。同年12月、チームが天皇杯を控える中、ムスクロンへ短期留学。翌2003年より東京に復帰したが、チーム事情よりも自身の希望を優先したためにポジション争いの序列からさらに後退してしまった。

同年8月、負傷したマルコスに代わる攻撃の核を求めていたベガルタ仙台から熱烈なオファーを受け、仙台へ完全移籍。しかし先発出場の機会は少なく、同年チームはJ2に降格した。

2003年夏、海外リーグで経験を積んでいた旧友の廣山から代理人を紹介され、2004年より仙台からリーガ・パラグアージャ(パラグアイ1部リーグ)のクラブ・グアラニーへ半年間の期限付き移籍。リーグ第2節のソル・デ・アメリカ (en) 戦で高い打点のヘディングから移籍後初ゴールを記録した。外国籍選手として結果を求められることによってプレーの迷いが消え、激しいボティコンタクトを厭わず、パラグアイ人選手に比べると優れたスピードも活きて得点を量産。コパ・リベルタドーレスでも活躍し、契約延長を勝ち取った。この時のチームメートであるアウレリアーノ・トーレスとは互いに成長を誓い合い、後にスペインでの対戦を果たしている。セロ・ポルテーニョのヘラルド・マルティーノ監督からの移籍オファーを固辞した際には、グアラニーサポーターから「お前を愛している」と横断幕を掲げられた。

2005年、プリメーラ・ディビシオン(メキシコ1部リーグ)のCFパチューカへ期限付き移籍。当初はリザーブチーム(2部リーグ)のパチューカ・ジュニアーズに登録されたが、標高2400mの高地にも順応し、出だしから好調なプレーでクラブからの信頼を得ると、コパ・リベルタドーレスではトップチームに入りハレド・ボルヘッティを押しのけて出場した。

シーズン途中にはメキシコ2部のイラプアトFCに引き抜かれ、同クラブでも二桁得点を記録。この頃、前述の幼少期の来歴がスポーツ誌で紹介されたこともあり、日本での注目が俄かに高まった。

2006年1月、セグンダ・ディビシオン(スペイン2部リーグ)のCDカステリョンへ期限付き移籍。パラグアイ及びメキシコでの実績、グアラニ在籍時の監督であるマリオ・ハケからの推薦、スペイン語が話せる点をペペ・モレ (en) 監督に評価されての移籍だった。しかし、シーズン途中加入だったためポジション争いから始まり、左サイドに配されたこともあって力を発揮できずに終わった。

スペイン2部・CDヌマンシアのゴイコエチェア監督はカステリョン戦において、福田の激しい形相でボールを追いゴールを狙う姿を目に留めており、2006年8月に福田を練習に呼び寄せた。福田は練習参加した数日間、持ち前の闘争心を発揮してアピールに成功。移籍期間末日の同月31日にヌマンシアへの期限付き移籍が決定した。序盤は1トップにFWボロが配されていたため福田はその控えとなっており、前シーズン不振だった「アジア人」アタッカーに対してメディアやサポーターからの批判が集中していたが、後にボロと福田の2トップへ変更。これによって福田は古巣カステリョン戦で移籍後初得点を挙げ、主力として定着。同年末、シーズン終了までの契約延長を掴んだ[51]。ホームゲームでの得点の多さでサポーターの心を掴み[52]、ボロと並ぶチーム得点王となって地元メディアから年間最優秀選手に選出された[53]。ヌマンシアは福田との翌シーズン以降の契約に動いたが、保有権は未だベガルタ仙台にあり[54][55]折衝は中々進まなかった[56]。

福田は仙台に対し、東京からの移籍後わずか半年での海外移籍を認めたことへの恩義を感じており[56][54]、仙台復帰を選択肢に入れていたが、メディカルチェックで足首負傷[54]の未完治が認められたことから即戦力にはならないと判断され[56]破談。2007年8月、スペイン2部のUDラス・パルマスへ完全移籍[57]。しかしラス・パルマスでは負傷が続き、負傷離脱中に就任した新監督から冷遇されたため[58]3得点に留まった。

2008-09シーズンは、ベータ・エスニキ(ギリシャ2部リーグ)のイオニコスFCへ移籍。開幕からの6試合で3得点を挙げ、靭帯損傷による3ヶ月の欠場がありながらも[59]24試合出場9得点と上々の成績を記録。翌シーズンもイオニコスでプレーする予定でいたが[60]、クラブの給与未払いにより1年限りで契約を解除した[61]。

イオニコスを離れた後、UAE1部のアル・アインFC[62]やフランス1部のUSブローニュにテスト生として練習に参加したものの契約に至らず無所属となっていた。

2009年9月[63]、予てから移籍を打診されていたという[64]故郷・愛媛県のJリーグクラブ愛媛FCと契約締結。10月に加入が発表され[65]、実に6年ぶりの日本復帰となった。なお、この時既にJリーグの選手登録期限を過ぎていたため[66]、同年の公式戦出場は不可。

2010年は前所属クラブであるイオニコスが移籍証明書の発行を拒否したために開幕戦への選手登録が叶わず[63]、已む無くFIFA承認の下での暫定登録という措置を取り[67]第2節以降の出場が可能となった。サッカー人生初となる主将を任され[68]、巧みなポストプレーや[69]相手DFを引き付ける潰れ役として貢献し[70]、チーム最多の7得点を記録した[71]。しかし2011年、2012年と徐々に出場機会を減らしていき、2012年限りで契約満了により退団[72]。

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