矢野燿大の出身高校

矢野燿大 コメンテーター

矢野燿大卒業高校
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性別
男性

矢野 燿大(やの あきひろ、本名:矢野 輝弘/読み同じ、1968年12月6日 - )は、大阪市東住吉区(現・平野区)出身の元プロ野球選手(捕手、外野手)。

2010年に阪神タイガースで現役を引退してからは、朝日放送・サンテレビの野球解説者やスポーツニッポン大阪本社の野球評論家として活動。その一方で、2013年11月からは、野球日本代表のバッテリーコーチを務めた。2016年からは、阪神の一軍作戦兼バッテリーコーチに就任する。

小学2年生から地元の少年野球チームで野球を始め、当初は遊撃手だったが、チームの捕手がケガをして以降は捕手を務めた。大阪市立瓜破中学校では当時野球部がなく、バスケットボール部に所属していた。

大阪市立桜宮高等学校へ進学してからは、同級生の河本栄得・高山知浩、および土井善和とともに硬式野球部へ入部。矢野は、少年野球時代の活躍を知る当時の監督・伊藤義博によって、1年生からレギュラーに抜擢された。伊藤が1年後に東北福祉大学の硬式野球部監督へ転じてからは、投手以外の全ポジションを経験しつつ、土井とバッテリー・高山とクリーンナップを組むまでに成長(後述)。4番打者だった3年生の時には、主将も務めた。高校通算で3本塁打を記録したものの、在学中はPL学園高等学校の全盛期と重なったこともあって、春・夏とも甲子園出場を果たせなかった。

桜宮高校を卒業後に、伊藤のいる東北福祉大学へ進学。高校時代と同じく捕手以外のポジションもこなしていた関係で、1989年には三塁手として大学日本代表に選出された。第18回日米大学野球選手権のメンバーにも入っている。後に阪神でも同僚となる同年齢の金本知憲は、1年浪人の後に矢野の下級生として同大学に入学している。

1990年のドラフト会議で、読売ジャイアンツと中日ドラゴンズが2位指名で競合し抽選の結果中日が交渉権を獲得し、同級生で4位指名を受けた吉田太とともに入団。この会議では、同大学から矢野・吉田以外にも、内野手の宮川一彦が横浜大洋ホエールズ、投手の小坂勝仁がヤクルトスワローズからそれぞれ指名され、同一大学・学年から4人のプロ野球選手が誕生している。もっとも、矢野は当時、レギュラー捕手が高齢で捕手の層も薄かった地元・阪神タイガースや読売ジャイアンツへの入団を希望。それだけに、2歳年上の中村武志がレギュラー捕手として全盛期を迎えていた中日から指名されたことには不安を感じていた。後に中日時代の思い出を振り返り「(中村の)存在が大き過ぎて、勝てるとは思えなかった」と、ラジオ番組『スポーツにぴたっと。』で語っている。

1年目の1991年から1軍出場し、この年は22試合に出場し、プロ初本塁打も放った。

1992年は72試合に出場し、打率.259と一定の成績を残した。

1993年は出番が減り、24試合の出場に終わってしまったが、39打席に立ち、10安打を放つなど打撃ではいいところを見せた。

1994年も35試合の出場に留まってしまい、打撃面でも成績を残せなかった。

1995年は57試合に出場した。

1996年8月11日の対巨人戦では、野口茂樹とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成した。また、捕手として一軍に帯同しながら、打撃力の高さを買われて公式戦に外野手として出場することもあった。また、巨人が逆転優勝を決めたナゴヤ球場での最終戦には、1番・中堅手で出場。中日の選手としては同球場の公式戦で最後となる本塁打を放った。同年は56試合の出場で、もちろん規定打席不足ではあったものの、打率.346、7本塁打をマークしたが、本塁打数の割りに打点が19と少なかった。

1997年は中日では最多の83試合に出場したが、前年のような打棒を発揮することはできなかった。オフに大豊泰昭と共に、関川浩一・久慈照嘉との交換トレードで阪神へ移籍。当時の監督であった吉田義男にリード面を評価され、山田勝彦に代わってすぐに正捕手の座を勝ち取る。

1998年5月26日の中日戦で川尻哲郎をリードして2度目のノーヒットノーランを記録。この年、7月7日の横浜戦でこの日まで無敗で連続セーブ記録を続けていた、当時全盛期(この年のシーズンMVP)の“大魔神”こと佐々木主浩(東北福祉大の1年先輩)から、佐々木のその年唯一の敗戦となる逆転サヨナラヒットを放つ勝負強さを見せている。同年はプロ入り初の100試合出場を果たし、最終的に打率.211と低調だったが110試合にした。

1999年、プロ入り9年目にして初の打率3割を記録した。阪神の捕手で規定打席に達した上での打率3割を記録したのは1979年の若菜嘉晴(打率.301)以来20年ぶりのことであった。

2000年、打率こそ前年を下回ったが完全に正捕手に定着、こちらも若菜以来20年ぶりに2年連続捕手として規定打席に到達した。

2001年、オフ、このシーズン限りで監督を辞任した野村克也の後任として、かつて自らをトレードで放出した星野仙一が阪神監督に就任したことで、「また星野監督に捨てられてしまう」と失望したと後に語っている。

2002年、4月13日横浜戦での本塁上のクロスプレイで相川亮二のタックルを受けて左肩脱臼。その後も骨折で戦線離脱するなど怪我が多く、好調だったチームも矢野の離脱と共に失速した。

2003年、前年オフに日本ハムファイターズの正捕手だった野口寿浩がトレードで入団。自身のポジションを危ぶまれたが、大学時代のチームメイトで広島東洋カープから移籍してきた金本知憲の影響を受け、強い体作りに着手。結果シーズンを通してほぼマスクを被り、8番の藤本敦士とともに「恐怖の下位打線」と呼ばれた。MVPは4点差で井川慶に譲ったものの、チーム防御率はセントラル・リーグトップの3.53、打撃でも打率.328を記録し、初のベストナインとゴールデングラブ賞を獲得。ゴールデングラブ賞は捕手として史上最年長での初受賞であった。同年6月17日の対横浜戦では矢野の打撃直後、一塁走者のジョージ・アリアスが若干遅れてスタートしたため、アリアスの生還よりも早く矢野が三塁に到達し、珍しいサヨナラ三塁打を記録した。

2004年には36歳にして自身初となる全試合出場を達成。しかし、シーズン終盤には捕逸などミスも目立った。また、辻恭彦以来球団史上2人目となる全試合マスクを目指したが、代打出場のみだった試合が1試合あり達成できなかった。

2005年には三振を減らすべく宮本慎也を参考にした打撃フォームに改造。自己最多の19本塁打を放ち、盗塁阻止率も自己最高記録を残す。自身2度目のベストナインとゴールデングラブ賞、日本シリーズ敢闘賞を獲得。同年、自身2回目となるFA権を取得し、オフに行使して残留。

2006年には17本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。チーム2位の78打点も評価され、2年連続3度目のベストナインにも選出された。

2007年は週に1試合ほど野口寿浩や狩野恵輔にスタメンマスクを譲ることが多く、セ・パ交流戦時に右のふくらはぎを痛めたこともあり、一時登録を抹消。打率.236, 6本塁打と打撃不振に終わった。同年オフには北京五輪の野球日本代表に招集され、アジア予選で試合の終盤を任される「抑え捕手」として活躍した。

2008年は野口が岩田稔や上園啓史ら若手とバッテリーを組み、矢野は主に安藤優也や下柳剛、福原忍らと組む併用でスタート。スタメン出場しなかった試合では終盤に代打で出場し、その後抑えの藤川球児とバッテリーを組むような起用が多く、2年ぶりに規定打席に到達。夏場には藤川、新井貴浩と共に北京五輪代表に招集された。

2009年は前年オフに手術した右ひじの回復が遅れたため開幕から二軍での調整が続き、7月に一軍昇格した後もスタメン出場は安藤・下柳が先発する試合に限られた。8月16日には41歳の下柳と組んでプロ野球史上初の40代バッテリーでの勝利を達成したが、シーズン終盤に右足首を骨折して再び戦線離脱し30試合の出場に終わった。打撃では100打席未満ながら打率3割、得点圏打率4割超を記録。オフに心機一転の意味を込め、登録名を本名の矢野輝弘から矢野燿大へ変更した。

2010年は城島健司の加入もあり、8試合の出場のみだった。6月に右肘の故障で一軍登録を抹消されていたが回復の目処が立たず、9月2日にこのシーズン限りの現役引退を球団に申し入れ、了承された。9月25日の中日との二軍最終戦が引退試合となり、同級生の下柳とバッテリーを組み、1イニングを無失点に抑えた。試合後に引退セレモニーが行われ、阪神と古巣・中日の双方の選手から胴上げされた。中日のコーチに就任していた中村武志からも労われ「中日時代はどうしても超えられなかった人なので嬉しい」と語り、「幸せな野球人生を送れた」と20年の現役生活を振り返った。9月30日には横浜戦終了後の甲子園球場(同年レギュラーシーズンの甲子園最終戦でもあった)でも引退セレモニーが行われた。なお、この試合では9回二死から出場する予定で出場選手登録もされていたが、二死になる前に抑え投手の藤川が村田修一に逆転3ランを浴びたため、勝利を優先した球団の判断により出場機会はなかった。

2010年11月、スポーツニッポン大阪本社専属野球評論家への就任を発表。2011年1月からは、朝日放送とサンテレビの野球解説者としても活動を始め、2月13日にABCテレビが関西ローカルで放送した阪神対ヤクルトの練習試合中継で、事実上の解説者デビューを果たした。朝日放送では、現役時代の2004年から、オフシーズンに同局のラジオ番組『矢野輝弘のどーんと来い!!』のパーソナリティを担当。解説者に転じてからも、『スポーツにぴたっと。』などのラジオ番組で、大阪弁による自由闊達な話術をたびたび展開している。他方、阪神関連の番組・中継に出演する場合には、「声を出せばプレーに良い影響を与える」との考えから選手が練習・試合中にベンチやグラウンドで声を出すことの必要性を述べることがある。

現役引退後も矢野燿大の名義を使用。『おはよう朝日です』『NEWSゆう+』『キャスト』(いずれもABCテレビ)で月曜日のスポーツキャスターを務めるかたわら、同局で制作する野球以外のスポーツ中継(ゴルフ・ラグビーなど)や『熱血!タイガース党』(サンテレビのプロ野球シーズンオフ番組)へ不定期で出演。ABCテレビの全国高等学校野球選手権大会中継でも、試合前後に放送される甲子園球場内特設スタジオからの中継に不定期で登場している。

2012年の日本プロ野球公式戦期間中に開催されたロンドンオリンピックでは、競技種目に野球が入っていないにもかかわらず、朝日放送を代表して岩本計介アナウンサーとともに現地取材を敢行。金本が現役引退を発表した同年9月12日には、ABCラジオの『ABCフレッシュアップベースボール』で甲子園のナイトゲーム・阪神対ヤクルト中継の解説を担当する一方で、試合前に開かれた金本の引退発表記者会見の取材にも携わった。

2011年3月には、ベースボール・マガジン社から自身初の著書『考える虎』が発売された。同書については、発売直前に東日本大震災が発生したことを受けて、同書の印税の全額を(大学時代を過ごした仙台市を含む)被災地域への義援金として寄付することを表明している。さらに、同年6月には、初の自叙伝として朝日新聞出版から『阪神の女房』を出した。2012年にも、3月に講談社から『捕手目線のリーダー論~六つの要~』を刊行している。

2013年には、阪神の捕手時代に「同級生バッテリー」を組んだ下柳との共著『気を込める 虎の成功プロセス』を、10月9日にベースボール・マガジン社から発売。2014年には、11月23日開催の第4回神戸マラソンで、自身初のフルマラソンに挑戦した。2004年アテネオリンピック女子マラソン7位入賞で、阪神タイガースの本拠地・兵庫県西宮市出身で熱烈な阪神ファンでもある坂本直子(天満屋所属元選手・現アドバイザー)からマラソン指導を受けた結果、3時間55分37秒で完走を果たした。

解説者時代の2013年には、26歳以下の選手で構成される「野球日本代表」と台湾代表の国際強化試合(同年11月8日から同月10日に台湾で開催)では、野球日本代表の新監督・小久保裕紀の下でバッテリーコーチを務めた。背番号は、自身の好きな数字(8)や妻の誕生日(8月8日)にちなんだ88[7]。矢野がコーチに就任するのは、プロ・アマを通じてこの時が初めてであった。さらに、2014年11月に日本で開催された日米野球2014でも、日本代表チームのバッテリーコーチを務めた[8]。

2015年には、11月開催の第1回WBSCプレミア12で日本代表バッテリーコーチを務めることが、7月16日に発表された[9]。しかし、阪神球団では10月27日に、矢野との間で一軍作戦兼バッテリーコーチの契約を結んだことを発表した。大学および阪神でのチームメイトだった金本の一軍監督就任(同月17日)を受けての本格的な現場復帰で、背番号は日本代表コーチと同じ88[7]。ただし、第1回プレミア12の開催期間中は、日本代表コーチとしての活動を優先していた[10]。

愛称は「テル」、「アキちゃん」、「矢野プー」など。

読書家で、愛読書は「夢をかなえるゾウ」(水野敬也)など。大のスイーツ(甘い菓子)好きでもある。

阪神の選手時代には、「優しい」と形容する解説者が多い一方で、「阪神で一番短気」と言われることもあった。事実、年に一度のペースで乱闘寸前になることがあり、投手を叱咤することもたまに見られた。また、審判の判定に不服を示す素振りもたまに見られ、1998年と2006年に審判に対する暴力行為で退場処分を受けている。

ドラフト会議では、司会者だった伊東一雄から名前を「てるひろ」と読み間違えられ、当時中日の監督であった星野仙一から「テル」と呼ばれるようになった。中日では星野から打撃力を評価されていたが、入団4年目(1994年)まで一軍で目立った実績を残せなかった。しかし、東北福祉大から一緒に入団した吉田太が、その年のシーズン終了後に戦力外通告を受けてひっそりと退団したことから一念発起。「自分が辞める時に後悔だけはしたくない」という危機感を抱きながら、正捕手の中村のリードを本格的に研究するなど、自ら率先して練習に励むようになった。さらに、外野手として公式戦に出場する機会を重ねるうちに、捕手というポジションへの思いを強めた。「ボールがいつ飛んでくるか分からない外野手では、一球ごとにサインを考えたり投手にボールを返したりする捕手に比べて、どこか試合に参加してないような気持ちになる」という吉田の退団をきっかけに日頃からの準備の重要性に気付いたことが、捕手としての転機になった。解説者に転じてからは、このような下積みの経験を基に、(捕手を含めた)若手野手のプレーや野球へ取り組む姿勢に苦言を呈することが多い。

阪神で現役を引退してからは、野球解説者・評論家として活動するかたわら、現役時代からの趣味であるゴルフ関連の番組にもたびたび出演。朝日放送が毎年11月に主催するマイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメントでは、ABCテレビの中継でラウンドリポーターを務めたり、アマチュアのゴルファーとして「マンデートーナメント」に参加したりしている(#関連情報に詳述)。しかし、他のゴルフトーナメントへの出場に向けた練習中に左肘を痛めたことから、2014年5月20日に患部を手術。手術の直後には、左腕を大きなギプスで固定しながら、同局のレギュラー番組への出演を続けている[11]。

阪神時代、打てそうで打てなかった(苦手にしていた)投手に、元中日の小笠原孝の名前を挙げていた。

桜宮高校の野球部では、高山が3番、矢野が4番を打っていた。高山の前に走者が出ると勝負強い矢野に打席が回るよう、ほぼ毎回高山にバントのサインが出されたと高山が語っている。阪神に在籍していた2005年のシーズンオフには、リーグ優勝記念旅行の模様を放送する特別番組で、高山と2人で漫才に挑んだ。ちなみに、高山からは「アキちゃん」と呼ばれている。

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