白崎泰夫の出身高校

白崎泰夫 プロ野球選手

白崎泰夫卒業高校
忠海高校 偏差値 広島県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
2760位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1933年7月24日生まれ

白崎 泰夫(しらさき やすお、1933年7月24日 - )は、広島県竹原市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。

少年時代は家族で旧満州に渡り、敗戦に伴い日本に引き揚げ、その後、忠海高校に入学し野球を始める。当時、中国一と謳われた豪速球で、1952年に夏の広島県高等学校野球大会にて優勝したが、全国高等学校野球選手権西中国大会で山口県立柳井商工高等学校に敗れ、惜しくも甲子園出場はならなかった。

しかし、広島県立広島商業高等学校や広陵など強豪を破り、当時全くの無名であった忠海が県大会で優勝したことから注目され、翌1953年に南海ホークスへ入団し、1959年の引退まで7年間在籍した。スライダーとドロップを武器にした。

無名校に近い忠海高校が、エースの白崎の活躍で県大会に優勝した直後、当時の南海ホークス監督である鶴岡一人の私設スカウトである上原清二(鶴岡と広島県立広島商業高等学校時代の同級生で親友)は呉線に乗り、竹原に向かった。たまたま車両で、他球団の二人のスカウトと一緒になり、呉越同舟、世間話をしながら竹原駅まで同行したが、改札を出たとたん競争となり、白崎の自宅(忠海町宮床)までタクシーを飛ばし、上原は裏口から家に飛び込んで、タッチの差で白崎の母と先に面談することができた。話を終え、家を出ると、道路には近所の人が人だかりになっており、人々は「人買いが来ておるということじゃ」と噂していたという。白崎は、すでに特待生として早稲田大学への進学が決まっていたが、鶴岡監督の熱心な説得で、南海ホークスへの入団を決心した。

1954年8月16日、平和台球場で行われた西鉄ライオンズ戦では、3回裏1アウトでマウンドに上がったが、最初の打者高倉照幸への初球を暴投した。これを見た鶴岡一人監督は投手を白崎から宅和本司に交代させ、試合は5対4で南海が勝利し、そのまま宅和は勝利投手となった。しかし、白崎は高倉との対戦を終了しておらず、野球規則上は宅和に交代することができないはずだったが、審判始め関係者が誰も気づかず、規則の例外記録になった。試合終了後にこの事実に気づいた関係者が対応を協議し、「白崎が急に腹痛を起こしたため」という理由が付けられた。白崎はこのあとのシーズン中に一度も登板することはなく、この年の公式記録は「登板=1」で「打者=0」という結果となった。1954年のパ・リーグは4連覇を目指す南海ホークスと、西鉄ライオンズとの激しい戦いとなった。8月中旬まで西鉄が首位であったが、下旬から9月にかけて南海ホークスがプロ野球新記録の18連勝で猛追し、一旦連勝がストップした後にさらに8連勝し西鉄から首位を奪取した(この1ヶ月半で南海は26勝1敗、勝率.963と驚異的な成績であった)。その後両チームのデッドヒートは最後まで続き西鉄ライオンズが10連勝で再度首位に返り咲き、南海ホークスも最後の10試合で9勝1敗と頑張ったが最終的には0.5ゲーム差で西鉄ライオンズが鼻差で振り切った 。このような背景から、この日の1勝は南海ホークスにとって貴重なもので、一つのゲームも落とすわけにはいかず、「病欠のため」ということにしたのである。

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