澤村拓一の出身高校

澤村拓一 プロ野球選手

澤村拓一卒業高校
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性別
男性

澤村 拓一(さわむら ひろかず、本名さわむら たくいち1988年4月3日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(投手)。

メディアによっては沢村 拓一の表記も見られる。

愛称は「筋肉」。

栃木県栃木市出身。小学2年時に野球を始め、6年から投手を務める。この頃から自己主張が強かったという。栃木市立東陽中学校でも野球部に所属して県大会に出場。佐野日大高校時代は3番手投手として夏を迎え、登板機会がないまま県大会決勝で敗退。高校の先輩で中央大学OBでもある会田有志の勧めもあって中央大学硬式野球部を受験する。東海大学も受験して両校に合格したが、先に合格通知が届いた中央大学(商学部)への進学を決めた。

大学進学後、2年秋には東都大学1部リーグ初先発・初勝利を完封で飾りエースへ成長。2009年の第37回日米大学野球選手権大会日本代表・第25回アジア野球選手権大会日本代表に選出された。3年秋のリーグ戦の青山学院大学戦の初回に、神宮での大学生歴代最速となる最速156km/hをマークした。11月22日のU-26 NPB選抜 対 大学日本代表に出場し、3回裏に1イニングを投げ、坂本勇人(巨人)を直球で見逃し三振に仕留めるなど無失点に抑えた。4年春には東洋大学戦で大学生歴代トップを更新する最速157km/hをマークするなどの活躍で最優秀投手賞を受賞した。リーグ戦終了後には世界大学野球選手権大会の日本代表に選出されたが、故障のため出場は辞退した。東都大学1部リーグ通算41試合に登板し19勝14敗、防御率1.31、266奪三振。2部リーグで7勝2敗。2011年大学卒業。

中大でも直球にこだわり2年秋には球速が150kmを超えるようになっていたが、野球部監督の高橋善正は「お前はピッチャーじゃない。単なる『投げ屋』だ!」と否定し、コントロールと変化球を磨くよう繰り返し指導した。3年秋頃から成長の兆しが見られたといい、完封した4年秋の亜細亜大戦は高橋も「ピッチングと呼べる投球」と評価した。澤村も同年春から変化球を磨き、ピッチングの幅が広がっていることを実感している。

2010年10月のドラフト会議では、同じ中大出身の阿部慎之助・亀井義行の活躍を見て入団を希望し、相思相愛とも言われた読売ジャイアンツから単独1位指名を受け、記者会見では喜びの涙を流した。指名直後の会見で背番号18を希望したが、10月30日に挨拶に訪れた球団代表の清武英利から「沢村さんを1つ超えるという意味で、15を背負ってほしい。18は力で勝ち取ってもらいたい」と話したが、結果的に2011年にFA権を行使して移籍した杉内俊哉に18が与えられた(沢村栄治の背番号14は巨人の永久欠番である)。なお、ドラフト直前にはスポーツ報知やスポーツニッポンなどが中日ドラゴンズとの競合を予想していた。日刊ゲンダイによれば中日は入団拒否のリスクを考えて当日のスカウト会議で澤村指名を見送り大野雄大の単独指名に切り替えたという。

ドラフトに際しては複数のメジャー球団からメジャー契約でのオファーもあり、巨人以外から指名された場合はアメリカでのプロ入りを選択していた可能性もあったと話していた。

開幕を一軍で迎えた2011年4月15日の広島東洋カープ戦(マツダスタジアム)でプロ初登板・初先発し、7回途中まで2失点(自責点0)の投球。ここでは初勝利はならなかったものの、同月21日の阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)を、7回1失点でプロ初勝利をあげた。5月31日の埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)ではプロ初の完投勝利を挙げると、6月19日の西武戦(東京ドーム)では7回無失点に抑えて本拠地初勝利を達成(しかし、初勝利のウイニングボールはこの日最後に登板したジョナサン・アルバラデホが客席に投げ入れてしまったため、澤村自身の手元には2011年12月現在まで渡っていない)。序盤から中盤にかけては安定した投球をしても援護に恵まれず負けが先行したが、9月以降は5勝1敗、防御率1.10、WHIP0.64と好投を続け、最終戦で防御率1点台は逃したものの、セ・リーグの新人では江夏豊以来となる200イニング到達を果たした。最終的に5完投を含む11勝11敗、防御率2.03、174奪三振、WHIP0.97と好成績を収め、新人王に選ばれた。澤村の受賞により巨人からは2008年の山口鉄也以来4年連続で新人王を輩出したこととなった。同一球団から4年連続新人王受賞はプロ野球史上初。

同年10月17日には、日本テレビアナウンサーの森麻季とシーズン終了後に結婚することを発表し、12月17日、挙式・披露宴を行った。

2012年も二桁勝利を達成。巨人で新人から2年連続で二桁勝利を記録したのは1966年 - 1967年の堀内恒夫(16勝、12勝)以来45年ぶりである。このシーズンは「相手を制圧するピッチング」を目指し、前シーズンのオフから肉体改造に取り組んだ。シーズン当初は防御率1点台と安定していたものの交流戦を境に調子を崩し、以降は不安定な投球が目立つようになった。最終登板の横浜DeNAベイスターズ戦で5回1失点で勝利投手となりなんとか10勝に到達するも、巨人では1979年 - 1980年の江川卓(10敗、12敗)以来32年ぶりの新人から2年連続での二桁敗戦を記録、投球内容も前年より数字を落とした。

2012年のセントラル・リーグクライマックスシリーズではチームが3連敗し、後がなくなった4戦目に先発登板し自責点0(失点1)と好投し、勝利投手となる。この後チームがこの試合を含めて3連勝して進出した日本シリーズでは第2戦に先発登板し、8回無失点の好投で日本シリーズ初登板初先発初勝利をあげた。この試合では、初回にピンチを背負い、牽制のサインを見逃したため捕手の阿部にマウンド上で頭を叩かれるシーンもあった後に立ち直ったということも話題となった。この日本シリーズでは第6戦にも登板するが、6回表に中田翔に3ラン本塁打を打たれ同点とされ、その裏に代打を送られて降板した。

チームが上記の日本シリーズを制し、その後の11月6日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表が発表され代表入りした。また、12月4日に、第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され候補入りした。

2013年2月20日に、第3回WBC日本代表選手28人が発表され代表入りした。本戦では4試合に中継ぎ登板、3回1/3を1失点という成績だった。

同年3月末に森麻季と離婚。結婚から1年5ヶ月であった。

この年は打線の援護に恵まれない中(この年の援護率は規定投球回到達者の中ではリーグワーストであった)で前半戦は4勝6敗・防御率2.46と一定の成績を残す。オールスターゲームでは監督推薦で出場選手に選出され、第1戦で3イニングを投げてMVPを受賞。巨人の投手では1984年の江川卓以来、29年ぶりの受賞となった。しかし、後半戦では前半戦に引き続き勝てない試合が続く中でピッチング内容も徐々に悪化するようになる。9月12日の横浜DeNA戦(東京ドーム)よりリリーフとして起用された。リリーフでは12試合に登板し1勝1敗6ホールド・防御率0.63と好投したが、シーズンを通しては5勝しかできず、3年連続の二桁敗戦を記録するなど前年以上の不調に苦しんだ。広島とのクライマックスシリーズでは1戦目に中継ぎ登板し無失点と好投。楽天との日本シリーズでは4試合に中継ぎ登板した。

2014年のキャンプ序盤の2月3日に発症した右肩の違和感で開幕は二軍スタートとなる。7月に一軍昇格したものの同30日に登録抹消され、8月に再昇格し5勝3敗でレギュラーシーズンを終えた。10月16日に行われた阪神とのクライマックスシリーズファイナルステージでは第2戦に登板したものの、上本博紀の頭部に死球を与え危険球退場となった。結果的にこの危険球で阪神打線に火が付きチームは敗れた。その後4連敗でクライマックスシリーズ敗退となった。11月9日、原辰徳監督は不安定だった救援陣を強化するため澤村を中継ぎに配置転換すると明かした。

2015年2月16日に、「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」の日本代表に選出された事が発表され、小久保裕紀が日本代表監督に就任してから初めて日本代表に選出される事となった。ただ、登板する事は無かった。

シーズンでは、3月27日の横浜DeNAベイスターズとの開幕戦で、9回に登板し関根大気に本塁打を被弾するも自身初のセーブを記録した。その後もセーブを重ねて、7月10日の阪神戦でセーブを挙げ、前半戦での20セーブに到達した。7月16日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出された事が発表された。9月10日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出された事が発表された。後半戦も守護神の地位を確立し、最終的に36セーブを記録した。その一方、走者を出しながら抑える登板が多く、BB/9が2.77、WHIPが1.16(共に30セーブ以上挙げた投手では両リーグで最も高い数値)と安定感に欠く内容であった。

同年10月9日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表最終ロースター28名に選出された事が発表された。

沢村は1日、契約更改に臨み、年俸1億円で更改した。。

オーバースローから平均球速約145km/h、最速157km/h(プロ入り後の最速は155km/h)のストレート、縦横のスライダー、カーブ、フォークを投げ分け、クイックも1.0秒台と速い。フォークはSFFのように落差が小さく最速147km/hのスピードが出ることに加えてスライダー回転するため、縦のスライダーと混同されることもあった。また、2012年の日本シリーズからツーシームを加える。

2013年にリリーフとして起用された際には平均球速約148km/hを記録し、先発としてもリーグ屈指の球速を誇るが、本人はスピードにはこだわっておらず、高めのストレートと低めの変化球が生命線だと語っている一方でピッチングに『若さ』を出したいとも語っている。また右打者の内角をつくストレートに自信を持っている。一方で、ストレートで相手を「制圧」することに固執せず、打者の狙いやタイミングを外す投球を覚えることを課題として自覚している。

奪三振率は2013年までの通算7.84と特に高いわけではなく、「三振をいくつ取れた」や「三振を取れるストレート」よりも打者を打ち取ることを最重要視しているという。

2012年に巨人が日本一に輝いた際に出演したテレビ番組で「日本一になったらなにをするか」と問われ、同僚の阿部慎之助、内海哲也が「家族サービス」と答える中、「トレーニング」というほどの練習好き。特に大学時代から取り組み始めたウェイトトレーニングに熱心で、2011年時点ではスクワットで240kgの重量を10回持ち上げた[49]。しかし2014年の自主トレの段階では「3年やったけど、結果を残せなかった。今年、真価が問われる年だと言われているのに、同じことを繰り返しているようではバカでしょう」と言う理由で高重量のバーベルを使った練習は行わなくなり、体を上手く使う技術を追求することを模索し始めた。[50]

憧れの選手は斉藤和巳。 座右の銘は「猪突猛進」。趣味は家電で「語ると何時間も話せる」と豪語するほど[51]。

2012年よりアンダーアーマーとアドバイザリー契約を結び、同社のグラブやスパイク、ウェアを使用している[52]。

中学から大学時代までの監督は揃って「研究熱心な選手」と評し、本人も小さい頃からピッチングフォームについて考えることが好きだったという。高校時代と比べて大学では周囲の影響を受けて練習に取り組む意識が変わり、1部リーグに上がったことがターニングポイントとなり、人に見てもらえる状況になって自分に良いプレッシャーをかけられたと語っている。

中央大野球部監督の高橋善正からは「自分のために野球をする」意識を叩き込まれた。これは自分が良いプレーをすればチームの勝ちにつながり双方にとってプラスになるというもので、味方が打てないなら自分が抑えればいいという考えにつながっている。澤村は、高橋との出会いが自分を変えたと語っている。また大学時代に球速が上がった理由として下半身を鍛えたことを挙げ、言われるままするのではなく、自分で考えながら練習することで他人と差をつけられると語っている。

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