沢田正二郎の出身高校

沢田正二郎 タレント

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性別
男性

澤田 正二郞(さわだ しょうじろう、新字体:沢田 正二郎、1892年(明治25年)5月27日 - 1929年(昭和4年)3月4日)は、大正から昭和初期に活躍した大衆演劇の人気役者。劇団新国劇を創設して座長をつとめ、澤正(さわしょう)と呼ばれて広く親しまれた。

澤田正弘・寿々子の第3子として、滋賀県大津市の三井寺の近くに生まれる。収税吏の父が2歳のときに没して一家は上京し、明治31年、車坂(現、東京都台東区上野七丁目)にあった下谷小学校(1990年、台東区立上野小学校へ統合)へ入学した。

明治36年、開成中学へ進み、翌年の陸軍中央幼年学校の受験は、近視のゆえに失敗した。

1908年(明治41年)(16歳)、一高を受けて落ちた。自由劇場の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を見て新劇俳優を目指し、翌年早稲田大学文科予科へ入り、1911年、坪内逍遙の文芸協会附属演劇研究所の2期生となって、年末、端役で帝国劇場の舞台を踏んだ。

1913年(大正2年)(21歳)、同研究所を了え、島村抱月、松井須磨子らの芸術座に参加したが、1914年、脱退し、脱退仲間の秋田雨雀らと新時代劇協会(第二次)を作った。1915年、早稲田大学を卒業し、上山草人・伊庭孝らの近代劇協会に加わった。

同年、女優の『渡瀬淳子』と結婚し、翌大正3年に離婚するまでに、桃代と正太郎の二子を得た。芸術座に復帰。

大正6年、芸術座を再び脱退、倉橋仙太郎・田中介二・金井謹之助・渡瀨淳子らと、11人の劇団『新国劇』を結成した。座名は坪内逍遙の選によった。歌舞伎・新派と新劇との間の、大衆演劇を目指し、座長を勤め、演出を受け持った。しかし、4月の新富座での旗揚げ公演も、6月の京都南座の興行も不入りで、漸く7月の大阪角座で機敏な運びが注目され、松竹社長白井松次郎の提案により、弁天座を本拠に松竹の給料を貰うようになった。そして8月の『深川音頭』で当てた。

大正7年、白井が座付作者に起用した行友李風の、『金山颪』・『月形半平太』・『国定忠治』などの剣劇ものが熱狂的に受けた。乱闘劇は創団の本旨でなかったが、120人に膨れた座員を養う都合もあった。

大正9年の『伊井大老の死』の成功は、客に喜ばれながら芸術的に向上して行くという『演劇半歩主義』の、半歩だった。そして大阪での人気を背に上京し、『大菩薩峠』で東京の劇壇を席捲した。

大正10年、現代劇『懐かしき力』が、松竹蒲田で佐々木杢郎監督によって映画化。主演する。

大正11年、30歳で松竹から常盤興行へ移り、浅草の公園劇場を本拠とした。また、翌年の関東大震災まで、『新国劇附属演劇研究所』を開いて俳優を育てた。また、『勧進帖』を演じた際に、勧進帳』の3字目を変えたのは、市川團十郎家への遠慮である。

翌大正12年も、『大菩薩峠』全三篇の連続上演などで盛況を続けたが、8月興行中に、正二郎以下の男優多数が賭博の容疑で検挙された。自伝『苦闘の跡』には冤罪とある。そして拘留中に関東大震災が発生。

劇場はほとんど倒壊・焼失した。半月余り後の9月17 - 19日、正二郎の企画に文芸協会が主催を引き受け新聞各社が後援し、日比谷公園野外音楽堂で、『勧進帳』などを無料で上演した。廃墟から数万人が集まった。そして地方巡業へ出て戻って、公園劇場の焼跡に張った『天幕劇場』で公演するなど、機敏に動いた。

大正13年、出演中の演技座が燃えた時は、直ちに両国国技館に、同じ外題を並べた。この年、『苦闘の跡』を出版した。

大正14年には、邦楽座、帝国劇場、新橋演舞場に進出して、大入り満員を続け、1926年の白野弁十郎では新機軸を見せた。同年のシェイクスピアの『コリオレイナス』は、炎上したシェイクスピア記念劇場への義捐金集めの興行だった。

同年、新国劇の出し物の『国定忠治』、『恩讐の彼方に』が、東亜キネマで牧野省三監督によって映画化される。さらに『月形半平太』が聯合映画芸術家協会のもと、衣笠貞之助監督によって映画化。これらすべてに主演。『月形半平太』は、のちに各社で連作されるが、これが第一回映画化作品である。

昭和2年には、『新国劇十周年記念』の公演を続けた。

昭和4年1月、新橋演舞場に出演中に急性中耳炎を病んで手術し、座長なしの公演を病院から励ました。症状の悪化を新聞が報じた。座員、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、大谷竹二郎、菊池寛らが正二郎の病床に駆けつけた。大勢のファンが病院を囲み、正二郎は3月4日に没した。死因は急性化膿性脳膜炎だった。

「新国劇」として、舞台に激しい「チャンバラ」を持ち込んだのは正二郎である。正二郎は大正14年に『国定忠治』、『恩讐の彼方に』、『月形半平太』と三本の剣戟映画に出演しているが、これらの映画は、劇団の関西公演の合間に撮ったものだった。

『国定忠治』、『恩讐の彼方に』の二本を監督したマキノ省三は沢正のファンだった。マキノ雅弘によると、当時の活動大写真にチャンバラ、大殺陣の要素が大きく加わったのは、新国劇の正二郎の影響だった。マキノ省三にとって、正二郎のリアルで激しい立ち回りは一つの夢だったという。

正二郎の劇団には、名殺陣師と謳われた段平がおり、稲垣浩によると、映画で「殺陣師」というものが表面に出てきたのは、この正二郎主演の映画あたりからだという。

正二郎の葬儀は谷中斎場で営まれ、日比谷公園新音楽堂で催された告別追悼会では、菊池寛が司会し、山田耕筰が追悼の曲を指揮し、その盛大な葬儀では、時の首相・田中義一、坪内逍遙、頭山満、高田早苗早稲田大学総長らが弔辞を贈っている。墓所は谷中霊園の甲3号1側にある。

各項末尾の( )内の数字は、上演の西暦年次と月、また、/ 印の後は二の替わりの演目である。

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