木村登勇の出身高校

木村登勇 スポーツ選手

木村登勇卒業高校
光星学院高校 偏差値 青森県高校偏差値ランキング
スポーツ選手ランキング
2394位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
生年月日
1978年3月15日生まれ

木村 登勇(きむら のりお、1978年3月15日 - )は、日本の元プロボクサー。青森県三沢市出身。第48代日本ライト級王者。 第31代日本スーパーライト級王者。日本スーパーライト級王座は13度防衛し、同級の最多連続防衛記録。仙台ボクシングジム(現・新日本仙台ボクシングジム)所属選手としてプロデビュー後、八戸帝拳ボクシングジムを経て、2000年より横浜光ボクシングジム所属。光星学院高等学校卒業。

独楽の動きにヒントを得たという独特のトリッキーかつ攻撃的なファイトスタイルは、木村自身の命名によって「木村術」と呼ばれた。

キックボクサーの小比類巻太信とは三沢市の同郷で、小学校から高校まで同じ学校に通い、登下校、トレーニングなどをともにした古くからの親友である。

中学2年生から八戸帝拳ボクシングジムに通う。光星学院時代、1、2年時は顧問が掛け持ちを禁止していたため部活に所属できず、3年で顧問が代わり出場できたインターハイではライトウェルター級8位の実績を残した。

1996年5月20日、宮城の仙台ボクシングジムからプロデビュー、4R判定勝利を収めた。

1997年、アマチュア時代に所属した八戸帝拳へ移籍。同年12月20日、松本猛を6R判定で下し、全日本ライト級新人王を獲得した。1998年11月16日、リック吉村の持つ日本ライト級王座に挑戦し、判定負けを喫した。

2000年、横浜光ボクシングジムへ移籍。これ以降は担当トレーナーである金昌龍の指導を受けた。2001年2月17日、1999年に1度敗れている湯場忠志の持つ日本ライト級王座への挑戦は5R負傷引分となり、戴冠はならなかった。

2001年12月8日、湯場が返上して空位となった日本ライト級王座を小野淳一と決定戦で争い、判定勝利を収めて王座を獲得した。ジムの先輩で同郷の畑山隆則がWBA世界同級王座から陥落し、引退を表明してから5か月後であった。

2002年3月9日、日本武道館で行われた世界戦のアンダーで嶋田雄大に0-3の判定負けを喫し、初防衛に失敗して王座を失った。同年11月25日、階級をスーパーライト級に上げ、久保田和樹に3RKO勝利を収めた。

2004年4月3日、江口慎吾に3-0の判定勝利を収め、日本スーパーライト級王座を獲得。日本王座の2階級制覇となった。4戦連続KO防衛後の2006年11月18日、飯田幸司を迎えての8度目の防衛戦では2度のダウンを奪い3-0の判定勝利を収めた。

2008年1月19日、松本憲亮に7RTKO勝利を収め、11度目の防衛に成功した。桑田弘と並んでいた同級の最多連続防衛記録10を超えて新記録達成となった。同年5月3日には山本大五郎に5RTKO勝利を収めて再び4戦連続KO防衛に成功し、記録を12に延ばした。

2008年9月13日、ウクライナのリヴィウでアンドレアス・コテルニクが持つWBA世界同級王座に挑戦したが、0-3の判定で敗れ、王座獲得はならなかった。この挑戦は日本王座を保持したまま行われ、テレビ東京・BSジャパンにより、9月15日開催のトリプル世界戦とともに、日本ボクシング中継史上最大となる3時間放送の中で伝えられた。

2008年12月20日、日本スーパーライト級王座の13度目の防衛戦を西尾彰人と行い、4RTKO勝利により自らの持つ同級の最多連続防衛記録を更新。世界再挑戦、OPBF東洋太平洋王座を視野に入れていくと明言した。

2009年4月4日、14度目の防衛戦で小野寺洋介山に判定負けを喫し、5年間にわたり10KOを含む13勝で守った王座を失った。試合直前には東洋挑戦、世界再挑戦の他にウェルター級への転向など新たな挑戦への意向も示していたが、4月15日、自身の公式応援掲示板で引退を表明。7月4日、後楽園ホールで引退式が行われた。

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