島田直也の出身高校

島田直也 プロ野球選手

島田直也卒業高校
常総学院高校 偏差値 茨城県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
716位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1970年3月17日生まれ

島田 直也(しまだ なおや、1970年3月17日 - )は、千葉県柏市出身の元プロ野球選手(投手)。

常総学院高校時代は1987年の甲子園に春・夏連続出場し、春は常総学院初の甲子園出場も1回戦敗退するも、夏は準優勝投手となる。

1988年にドラフト外で日本ハムファイターズに入団し、同期の芝草宇宙と共にSSコンビとして売り出される。1989年10月8日の対近鉄バファローズ戦で初登板。1991年にはイースタンリーグで0勝10敗という成績に終わり、シーズン終了後に石川賢とのトレードで横浜大洋ホエールズに移籍した。

1992年8月23日の対中日ドラゴンズ戦で初勝利を記録。1993年にはプロ初完封を記録。1994年、この年に中継ぎ投手として飛躍し、シーズンでは50試合に登板して9勝をあげチーム最多勝タイとなり、翌1995年は二年連続チーム最多勝10勝をあげ初の2桁勝利を記録した。尚、リリーフ投手で同じ選手が二年続けてチーム最多勝になるのは稀である(94年の先発投手最多勝は斎藤隆の9勝12敗、95年の先発投手最多は斎藤隆が8勝9敗、三浦大輔が8勝8敗)。 1996年、チーム全体で風疹が流行ってしまい先発投手が足らず、久々に先発起用されたがシーズンでは不振に苦しんだ。1997年、前年のセットアッパー五十嵐英樹が怪我で開幕に間に合わず、代わりにセットアッパーとして起用され自身初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を受賞。1998年の横浜の38年ぶりの優勝には、中継ぎ投手のエース格として日本一に貢献し、翌1999年にはオールスター初出場を果たした(シーズンは不調だったが97年、98年のチームを支えた事を評価してたこの年のオールスター監督の権藤博が監督推薦で島田を指名した)。2年連続不振に終わった2000年のシーズン終了後に自由契約となり、ヤクルトスワローズに移籍した。

2001年のヤクルトの優勝には、中継ぎの1人として日本一に貢献するも、翌2002年シーズン終了後に自由契約となり、大阪近鉄バファローズに移籍した。近鉄では3試合の登板に終わり、2003年シーズン限りで現役を引退。引退後の2004年より日本ハムの打撃投手に就任した。

2006年オフに北信越BCリーグ・信濃グランセローズの投手コーチに就任し2010年まで務めた。

2011年に四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスの投手コーチに就任。シーズン終了後の12月に、退任した斉藤浩行の後任として2012年のシーズンより監督に就任することが発表された。

2年目の2013年に後期優勝し、年間優勝を決めるリーグチャンピオンシップにも勝利してチームを2年ぶりの年間総合優勝に導いた。前任の斉藤に続いて、NPBの指導者歴を持たずにリーグで年間総合優勝を達成した監督となる。

3年目の2014年はリーグ2チーム目の前後期優勝を達成、前年後期からは3期連続となった。愛媛マンダリンパイレーツとのリーグチャンピオンシップにも勝利し2年連続の年間総合優勝、リーグ2チーム目となる前後期と合わせた完全優勝を達成、さらにBCリーグ優勝チーム群馬ダイヤモンドペガサスとのグランドチャンピオンシップにも勝利して、年に4度の胴上げを受けることとなった。リーグの監督でこれを達成したのは、香川オリーブガイナーズ監督の西田真二(2回)に次いで二人目である。

シーズン終了後の10月31日、2015年から横浜DeNAベイスターズの二軍投手コーチに就任することが発表された。

現役時代はスライダーが武器。登板過多の中で肩の消耗を避けるためにわずか数球で肩を作る技術を習得。長年中継ぎとして活躍し横浜・ヤクルトで日本シリーズ制覇を経験した。

打撃投手では珍しいタイトルホルダー(1997年最優秀中継ぎ投手)であった。同様の例として岡部憲章(1981年最優秀防御率)、渡辺秀一(1994年新人王)などがいる。

妻は常総学院高校の1学年下で、当時野球部のマネージャーだった。息子・隼斗は2008年夏の甲子園に父と同じ常総学院のエースとして出場した。

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