山本左近の出身高校

山本左近 スポーツ選手

山本左近卒業高校
豊橋南高校 偏差値 愛知県高校偏差値ランキング
スポーツ選手ランキング
753位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
性別
女性
生年月日
1999年に全日生まれ
血液型
A型

山本 左近(やまもと さこん 1982年7月9日 - )は、レーシングドライバーで元F1ドライバー。愛知県豊橋市出身。血液型:A型。フジテレビF1中継でのニックネームは「不屈の三河武士」。2015年現在は、医療法人さわらび会副理事長・統括本部長という、病院経営者としての顔も持つ。

愛知県豊橋市で生まれる。愛知県豊橋市立青陵中学校、愛知県立豊橋南高等学校卒業。その後南山大学総合政策学部に進学したが中退した。

レーシングカート時代は、1999年に全日本カート選手権のFAクラスチャンピオンを獲得した。翌年の2000年に鈴鹿サーキットレーシングスクール (SRS-F) へ入校。

2001年にトムスより全日本F3選手権へ参戦しシリーズ4位。2002年はドイツF3選手権、2003年はユーロF3へ参戦。2004年はトムスより再び全日本F3へ参戦し、初優勝を記録(シリーズ7位)。

2005年は国内最高峰のフォーミュラ・ニッポンに昇格し、近藤真彦率いるKONDO Racingから参戦。SUPER GTでは片岡龍也とコンビを組み、GT500クラスにトムス・スープラで参戦。SUPER GT第4戦SUGOで初優勝を遂げた。フォーミュラ・ニッポン第8戦(ツインリンクもてぎ)では、チャンピオンを決めた本山哲を最後まで追い詰めての2位で初表彰台を獲得した。

2006年シーズン当初は、フォーミュラ・ニッポンは引き続きKONDO Racingより参戦。SUPER GTに関してはNISMOに移籍。ミハエル・クルムとともに参戦したものの、F1参戦に伴いチームを離れることとなった。

2005年10月のF1日本GPで、ジョーダンのサードドライバーとして参戦し1日目午前のフリー走行1回目を走行し、レギュラードライバーよりも速いタイムをマークした。

2006年6月のイギリスGPより急遽スーパーアグリF1チームのサードドライバーとして参戦し、ドイツGPからはフランク・モンタニーに代わってセカンドドライバーとして参戦した。

ドイツGP・ハンガリーGP・イタリアGPではリタイアに終わるもラスト3戦(中国GP、日本GP、ブラジルGP)では完走を果たす。なお、F1参戦に伴い、KONDO RacingとNISMOとの契約は解除された。

2007年はBCN CompeticionからGP2にフル参戦すると共に、スーパーアグリに残留しテストドライバーも務めた。ただ、ジェームズ・ロシターが同チームのテストドライバーとして参加してからはテストでも走行機会がなく、GP2への参戦とスーパーアグリの広報活動に専念していた。

しかし、スパイカーF1チームのレギュラードライバーであったクリスチャン・アルバースが同チームを解雇された後、その後釜として白羽の矢が立ち、第11戦より最終戦までのレギュラードライバー契約を結んだ。そのため、スーパーアグリはテストドライバー契約の解除に応じた。

なお、スパイカーのシート獲得に関しては、ナレイン・カーティケヤンやクリスチャン・クリエンなどの経験豊富なライバルを蹴落としての契約であった。

2008年2月、ルノーF1とテストドライバー契約を結んだことが発表された。ルノーのテスト開発プログラムを担当するとともに、レースチームに全戦帯同している。ルノーはすでにルーカス・ディ・グラッシおよびロマン・グロージャンとテストドライバー契約を結んでおり、山本とのテストドライバー契約は3人目となる。なお、この契約の中には世界各地で行われる「ルノー・ロードショー」と呼ばれるデモランイベントでのドライブも含まれていた。

2008年7月16日、GP2シリーズへの復帰が発表され、ARTグランプリより第6戦ドイツ・ホッケンハイムから出走した。第7戦ハンガリー・ハンガロリンクのレース2で4位に入りGP2シリーズ初入賞。シリーズランキングは23位。

2008年-2009年のGP2アジアシリーズにメインシリーズで所属したARTグランプリよりフル参戦することが発表された。前年のチャンピオンチームから出走となり、エースカーであるカーナンバー1をドライブしていた。シリーズランキングは9位。なおこの年はF1チームとの契約及び参戦はなかった。

2010年はHRT F1とテストドライバー兼リザーブレースドライバー契約を結ぶ。イギリスGPでは、レギュラードライバーであるブルーノ・セナに代わり山本が出走。戦闘力が低い上に慣れないマシンために予選は24位と低迷したものの、2007年以来の決勝出走を果たし、20位で完走した。続くドイツGPからは、カルン・チャンドックの代わりに正ドライバーとして参戦することになった。

イタリアGPのピットイン時には、ロリポップが上がり、残りのピットクルーがマシンから離れた後も作業を行っていたメカニックが、山本がピットレーンから発進した際にリアウイングと接触し負傷するというアクシデントに見舞われた。なおこのレースでは、23位からスタートし19位で完走した。第14戦シンガポールGPでは食中毒で欠場を余儀なくされ、山本の代役にクリスチャン・クリエンが務めることとなった(実際は別の要因であったといわれている)。

10月10日に行われた日本GPには2戦ぶりに出場、予選24位からスタートで完走扱いを除く完走者(ニコ・ロズベルグがタイヤ離脱でリタイヤも完走扱いで17位)の中では最後尾の16位ながら中盤にはティモ・グロックを十数周に渡ってブロックし続けるなど見所を作り、地元ファンを湧かせた。

第18戦ブラジルGPと、続く最終戦アブダビGPはクリエンと交代した。クリエンは第14戦シンガポールGPに代役出場した際、左近のスポンサーの1つがなかった為、クリエンの方がチームにとって大きな資金をもたらしたため言われており、終盤2戦の交代劇もこの影響があるものと考えられている[7]。

なお、山本がヒスパニア・レーシングのシートを獲得した背景には500万ドル(約4億3500万円[8])ものスポンサーマネーが動いたと言われており[9]、豊富なスポンサー資金でシートを得たとする見方もある。フジテレビの地上波放送では2010年シーズン参戦初戦のイギリスGPと、下位ながら見せ場を作った日本GPを除けば、小林可夢偉の陰に隠れほとんど取り上げられることはなかったが、ヒスパニア・レーシングの2011年シーズンにおける有力ドライバー候補に残るなどをしており、チームからは山本の金銭面以外の部分にも良い評価を勝ち得ていた[10]。

2011年はHRTからのフル参戦の可能性もあったが、結局HRTはドライバーをナレイン・カーティケヤンとヴィタントニオ・リウッツィに変更し、山本はHRTから放出される。その後リザーブドライバーとしてヴァージン・レーシングと契約した[11]。当初は3戦限定での契約であったが、その後のレースもリザーブドライバーとしてチームに帯同。また、F1イタリアGP中にミラノで開催されたF1ロックスにDJとして出演した。

2012年以降はほとんどレーシングドライバーとしての活動を行っておらず、ドライバーとしては半ば引退状態となっていたが、本人は2015年3月にブログで「引退宣言はしてませんので」と語り[12]、同月にフォーミュラEのテストに参加している[13]。

その後、2015年6月に開催されるフォーミュラEの第9戦と第10戦に、F1時代の古巣のスーパーアグリのオーナーでもあった鈴木亜久里が共同オーナーとして参画しているアムリン・アグリ・フォーミュラEチームから参戦した。  

2012年は1月に開幕予定だった新カテゴリー『i1スーパーカー・シリーズ』に参戦予定だったものの、2013年に開幕が延期となったためレーススケジュールが白紙となった[14]。5月8日には、地元である愛知県の豊橋市民球場で行われたプロ野球セ・リーグ公式戦「中日-ヤクルト戦」で始球式を務めた。また2015年4月からは『SUPER GT+』(テレビ東京系)にレポーターとしてレギュラー出演している。

一方で父親が創設者・理事長[15]を務める「さわらびグループ」(医療法人さわらび会・社会福祉法人さわらび会)の経営にも参画しており、2012年に同グループの統括本部長に就任[16]。全日本病院学会のような医療系の学会で座長を務めることもあるなど[17]、2015年現在は病院・福祉施設経営者としての活動も多くなっている。

*予選順位はペナルティなどを反映した決勝グリッド

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