山本太郎の出身高校

山本太郎 議員

山本太郎卒業高校
箕面自由学園高校 偏差値 大阪府高校偏差値ランキング
議員ランキング
676位 / 885人中 議員別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1974年11月24日生まれ
血液型
A型

山本 太郎(やまもと たろう、1974年11月24日 - )は、日本の政治家、元タレント、元俳優。生活の党と山本太郎となかまたち所属の参議院議員(1期)、生活の党と山本太郎となかまたち共同代表兼政策審議会長、新党ひとりひとり党首。兵庫県宝塚市出身。

箕面自由学園高等学校在学中(1990年)に『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の「ダンス甲子園」出場がきっかけとなり芸能界入り。

出演時のグループ名は「アジャコング&戸塚ヨットスクールズ」。ちなみにこのグループ名にも入っている戸塚ヨットスクールズの由来は本人が小さいころに、いたずらをすると必ず母に「戸塚ヨットスクールに入れるぞ!!」と言われていて、「なんとなくつけた」と本人が語っている。オイルを塗った逞しい身体に、その時々の「Q(メロリンQやダブリQなど)」を油性ペンで胸に書き、際どい競泳パンツ、黄色の競泳帽姿にステッキというアイテムで、ボディビルの様なポーズでヘヴィメタルバンドジューダス・プリーストの代表曲『ペインキラー』をバックに迫り来るような奇妙なダンスを踊り、締めに「Q!」と叫ぶ。強烈なパフォーマンスや、当時再ブレイクし始めていたポール牧の指パッチン等で注目を浴びる。一方、山本自身は遊び感覚で出演していたが、「あんな裸踊りをさせるような学校には通わせられない」と保護者から学校に苦情が寄せられたことで親や学校との関係が悪くなりながらも出演するなど、苦労も多くいじめの被害者になった事もあったという。本人も当時ネタにしている通り、高校を留年し(のち中退)、そこから「ダブリQ!」を編み出した。

当初はデビューの経緯もあり、バラエティ番組向けのタレントであったが、トーク下手であったなどから一発屋で終わるかと思われた。しかし1991年、映画代打教師 秋葉、真剣です!の準主役で役者デビュー。それ以来、田舎の気のいいあんちゃんなど肉体派でありながら、どこか素朴さを持つ優しく真面目な面と、ヤクザの若頭などの強面も出来る面が定着。ドラマなどで俳優としての起用が増える。以来50本以上の映画、ドラマ等にて俳優として多方面にて出演。演じる役のほとんどが関西出身の設定であるため(本人も関西出身である)、関西弁で演じている。所属事務所はネスト (1991年 - 1998年)。フリーランスの俳優となってから主演した映画『EDEN』では、新宿二丁目のショーパブの店長であるミロという役で初めてのゲイ役に臨んだ。反原発の行動を起こして以来、久々の本業復帰となったが、プロデューサーの李鳳宇から打診があったときには「この時期にボクの主演映画ですか…。李さんは勇気ありますね」と答えたという。

テレビドラマ出演デビューは1992年の『しあわせの決断』で、1996年にはNHK連続テレビ小説『ふたりっ子』にヒロインの相手役である海東壮平役で出演。2000年の映画『バトル・ロワイアル』では重要な役柄を演じた。特に『難波金融伝 ミナミの帝王』シリーズの出演回数は20本を超えている。2004年にはNHKの大河ドラマ『新選組!』に登場するなど時代劇役者としても活躍している。また、NHK教育のトーク番組『トップランナー』では2005年から2008年まで司会を務めたり、世界ウルルン滞在記での体当たりのレポートでも人気を博す。

また2003年12月に開催された「サントリー1万人の第九」第21回公演に、一般の合唱参加者に混じって、テノール・パートにて合唱出演。当時「第九」はおろかクラシック音楽を歌うこと自体初めてだったという自身の公演本番に至る奮闘ぶりは、後日に放映された「1万人の第九」ドキュメンタリー『1万人の第九 山本太郎「第九」を歌う』にて紹介された。

2011年4月、反原発運動を開始。同年5月末にはシス・カンパニー (1998年 - 2011年5月27日)を退社し6月には退社前に決まっていたミュージカルに出演したが、その後フリーランスとなり「EDEN」など映画・舞台等小規模作品にコンスタントに出演している。

2012年12月1日、第46回衆議院議員総選挙への出馬と政治団体「新党 今はひとり」の立ち上げを表明し、同年12月5日に総務省へ届け出た。最終的には、東京8区から無所属(日本未来の党・社会民主党支持)で出馬。主に反原発、反TPP等を訴え、71,028票を獲得するも次点で落選した。山本は自民党が圧勝したことに憤慨し、報道陣の前で「このままでは極右化が進んでしまう。日本から脱出した方がいい」「はい、終わり。日本は終わりです。みなさん脱出したほうがいいんじゃないすか」と述べた。

2013年7月21日の第23回参議院議員通常選挙では東京都選挙区から無所属で出馬、666,684票を獲得し4位で初当選した。選挙に際しては、生活の党、社会民主党、緑の党、新社会党の各党の支援を受けた。また、政党ではないが新左翼系の中核派、旧第四インターナショナル各派、労働者共産党などからの支援も受けていたほか、市民の党代表の斎藤まさしが選挙参謀に就いていたとの報道もある。

2014年2月に行われた第19回東京都知事選挙では、脱原発を公約した中核派・都革新支持の鈴木達夫、共産党・社民党・新社会党・緑の党推薦の宇都宮健児、民主党・結いの党・生活の党支援の細川護熙いずれも表立っては支援せず、脱原発候補への投票を呼びかけるに留めた。

結果は自民党都連・公明党都本部推薦、新党改革支援の舛添要一に大敗し、山本は「効果的な動きが出来なかった自分自身の不甲斐なさを感じる」と述べた。また、細川について「細川さんはワイドショー選挙をできると思って、メディアを信じていたようだが、それは大きな間違いだ」と指摘しつつ、「反旗を翻したファイティングスピリットは感動した」と脱原発を公約したことを評価した。

同年12月14日投開票の第47回衆議院議員総選挙では、東京8区から立候補した民主党の円より子支援を表明した。鈴木達夫も同区から立候補したが結果は二人とも落選した(石原伸晃が当選)。生活の党はこの選挙で獲得議席を2に減らす惨敗を喫し、国会議員数4となって政党要件を失っていた。選挙後、山本は同党に入党し、政党要件を回復させるとともに、党名を「生活の党と山本太郎となかまたち」に改めさせた。また、山本は「無所属の会」を提案したが、小沢は「生活」の名を残すことは譲れなかったので、この名前になったともいう。

2012年(平成24年)12月5日に政治団体「新党 今はひとり」の設置を総務省へ届け出、2014年(平成26年)3月19日に「新党ひとりひとり」への名称変更を総務省へ届け出た。目標は脱原発勢力を結集させる国政政党を作ること。今後は各地の国政選挙、地方選挙に候補者を擁立していくことを目指すと言う。

その第一弾として、2014年4月に衆議院鹿児島2区で行われた補欠選挙に介護福祉士で脱原発活動家の有川美子を党として公認した。結果は6人中3位で落選。ただし有川は日本共産党の候補者を上回る票を得ることが出来た。

山本太郎の政治公約は以下の通りである。

2013年10月31日、園遊会において、今上天皇に書簡を直接手交した。宮内庁次長・山本信一郎は同年11月5日の定例記者会見で「園遊会の招待者には、陛下のお近くで写真撮影をしないなどの注意事項を示していた。園遊会は各界で活躍された方を招いて、ご苦労をねぎらう場所。常識的に判断されるべき問題。(山本太郎が天皇に渡した手紙は)こういう状況で渡されたものなので、事務方で預かり、陛下には上げていない」と述べ、この手紙を天皇に届けておらず、今後も届けることはないことを明かした。またもしも手紙を返却して欲しいという希望があれば、返却すると述べた。同年11月8日、参議院議長の山崎正昭から厳重注意と皇室行事への参加を任期中の間は認めない処分が言い渡された。

記者会見や取材などに対し、山本側が以下の説明を行ったことが報じられている。

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