宮地克彦の出身高校

宮地克彦 プロ野球選手

宮地克彦卒業高校
尽誠学園高校 偏差値 香川県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
2615位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1971年8月28日生まれ

宮地 克彦(みやじ かつひこ、1971年8月28日 - )は、大阪府大東市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。現在は埼玉西武ライオンズで一軍打撃コーチを務めている。

愛称は姓の読みが同じ城南電機・宮路年雄社長にちなんだ「社長」。

尽誠学園高校3年生だった1989年に主将・エースとして春・夏ともに甲子園に出場(1学年下に谷佳知がいた)。夏の甲子園準決勝、仙台育英高校・大越基との延長10回に及ぶ投手戦は有名。同年のドラフト4位で西武ライオンズに入団。

入団当初は投手。高卒ルーキーで開幕一軍に抜擢された。オープン戦で勝ち星を挙げるなど期待されていたが、当時の変則フォームがボークと取られて以降は調子を崩し、その後1993年に持ち前の打撃センスと投手出身ならではの強肩を生かして外野手に転向。

1995年8月30日の対ロッテ戦でプロ初本塁打を放ったが、外野手には大友進、小関竜也、垣内哲也などがいたため、出番に恵まれなかった。

1996年は1軍出場なしに終わった。

1997年は6試合の出場にとどまった。

1998年にはイースタン・リーグで首位打者を獲得したが、1軍出場は7試合に限られた。

1999年は再び1軍出場なしでシーズンを終えた。

2000年の初の一軍登録となった9月2日の近鉄25回戦では「1番・ライト」でスタメン出場し、両リーグ史上6人目でパ・リーグ史上2人目となる先頭打者ランニングホームランを記録。最終的に21試合の出場に終わったが、打率.267の成績を残した。

2001年は成績を残せず15試合の出場に終わり、打率も1割台だった。

2002年には伊原春樹のいわゆる日替わり3番打者として100試合に出場、リーグ優勝に貢献。

2003年はひざの故障が原因で出場機会が激減。25試合の出場に終わってしまい、オフには若返りを図るチームの構想から外れ、戦力外通告を受ける。現役続行を目指して、横浜ベイスターズ・大阪近鉄バファローズ・千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けるも不合格。12球団合同トライアウトにも参加したが、獲得球団はなかった。台湾行きの意思を固めていたが、主力外野手・村松有人をFA移籍で失った福岡ダイエーホークスが獲得に名乗りを上げ、ダイエーにテスト入団。

2004年シーズン途中からライトのレギュラーに定着。規定打席未到達ながら打率.310の好成績を残し、プレーオフでも先発出場を果たした。

2005年は球団名が福岡ソフトバンクホークスに変わった。同年は開幕スタメンの座を勝ち取り、レギュラーに定着。プロ16年目にして初めてオールスターゲームに出場。同年は初の規定打席に到達。16年目での初の規定打席到達は元ヤクルトの八重樫幸雄を抜いて、ドラフト制度が確立した1965年以降では最も遅い記録。ベストナイン外野手部門にも選出された。その活躍から「リストラの星」とも呼ばれた。

2006年、開幕直後のオリックス戦(スカイマークスタジアム)でのライト守備で中村紀洋のライナーを捕球した際に右手首を捻り、この故障により出場機会が激減。代打での出場が多かったが、打撃不振で10月15日に自身二度目の戦力外通告を受ける。合同トライアウトにも参加したが、獲得球団はなかった。

2007年はNPBでの現役復帰を目指して、北信越BCリーグ・富山サンダーバーズの選手兼任コーチに就任。71試合に出場し、打率.332、4本塁打、47打点。入団した際の年齢は30代も半ばで、コーチも兼任するという状況であったが流石とも言える打撃技術をもってNPB入りを目指すチームメイトに強い影響を与えた。11月7日に12球団合同トライアウトに参加したが獲得球団はなく、古巣ソフトバンクからコーチ就任の要請を受け現役を引退。

2008年からはフロント入りした湯上谷竑志に代わり、ソフトバンク二軍育成担当コーチに就任し2010年まで務めた。2011年シーズンからは埼玉西武ライオンズの二軍外野守備走塁コーチを務めることになり、8年ぶりに古巣に復帰した。2014年からは一軍打撃コーチを務める。

赤太字はBCリーグにおける歴代最高。

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