古舘伊知郎の出身高校

古舘伊知郎 アナウンサー

古舘伊知郎卒業高校
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219位 / 1802人中 アナウンサー別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1954年12月7日生まれ
血液型
AB型

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古舘 伊知郎(ふるたち いちろう、1954年12月7日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ニュースキャスター。古舘プロジェクト所属。元テレビ朝日アナウンサー。東京都北区出身。北区立滝野川第二小学校、千代田区立今川中学校(現:千代田区立神田一橋中学校)、立教高等学校(現:立教新座高等学校)、立教大学経済学部経営学科卒業。

1977年全国朝日放送(現:テレビ朝日、採用試験時は日本教育テレビ(NETテレビ))にアナウンサーとして入社。面接にて広辞苑の丸暗記という特技を披露し、採用される。同年7月には『ワールドプロレスリング』担当に配属され、越谷市体育館での長州力VSエル・ゴリアス戦で実況デビュー。入社1年目のアナウンサーが実況デビューするのは極めて異例だが、この理由は3年後に控えたモスクワオリンピックをNETテレビが独占中継することになり、プロレス中継の担当アナウンサーが手薄になったためである。

1980年からは『ワールドプロレスリング』で山本小鉄とコンビを組む。「おーーーーーっと!」「燃える闘魂」「掟破りの逆サソリ」「名勝負数え唄」「人間山脈」「風車の理論」「エリート・雑草逆転劇」などの独特な表現は「過激実況」と呼ばれ、アントニオ猪木全盛期、新日本プロレスの黄金期を支えてきた。また、大発行部数を誇る週刊少年マガジンで連載される「異能戦士」にフルタチのキャラで頻繁に登場し、プロレスファン以外にも知られる存在となった。なお、フリーになるかならないかの頃に、フジテレビ『オレたちひょうきん族』の1コーナーである「ひょうきんプロレス」に覆面アナウンサー「宮田テル・アビブ」(宮田輝のもじり)として出演したこともある(「奮い立ち伊知郎」と名乗ったこともある)。しかし、NGを出してひょうきん懺悔室に送り込まれ、水を被り、正体を明かした。

1984年6月にテレビ朝日を退社後、大学時代の友人と芸能事務所「古舘プロジェクト」を設立。フリーになってからは、10年以上に渡ったワールドプロレスリングの実況を1987年3月に勇退、その後の1989年から1994年までのフジテレビのF1放送や、競輪における特別競輪(現:GI)決勝戦の実況中継、さらには、自らの一人芝居型講演会「トーキングブルース」(1988年開始)を始め、数々のテレビ番組に出演。そして、NHKと民放キー局5社で全てレギュラー番組を持った。1988年には映画『スウィートホーム』、1991年にはNHK連続テレビ小説『君の名は』に出演し、俳優業にも挑戦した。また、テレビ朝日『ニュースフロンティア』(1991年4月 - 1994年3月)という『ニュースステーション』のオンエアが無い土曜日の23時から放送されていた報道番組も一時期担当した。1994年 - 1996年まで、NHK『NHK紅白歌合戦』の白組司会を務めた。ちなみに、史上初の民放のアナウンサー出身の紅白司会者となった。

プロレスファン以外の視聴者にも古舘の名が一躍認知されるようになった端緒は、1985年のフジテレビ『夜のヒットスタジオ』の司会抜擢であった。当時民放各局に乱立していた音楽番組の中でも抜きん出た格上の番組であり、そこにフリー転身から1年しか経たない古舘が抜擢されたことについて、当時の視聴者から危惧の声が上がっていたようだが、その当初の視聴者の反応も、当時の『夜のヒットスタジオ』の看板司会者であった芳村真理の強い後盾もあったためか聞かれなくなり、司会者としてのキャリアを上げる大きな契機となった。1988年に芳村は番組を勇退し、古舘自身も独立早々の苦境の時に最初に使って貰ったという恩義から、『夜のヒットスタジオ』、そして芳村に対しての強い敬意の念を抱いているようである(『SmaSTATION!!』に出演した際にこの点については述べている)。古舘の結婚式の仲人は芳村夫妻が務めており、芳村とは家族ぐるみの親交を続けている。

「トーキングブルース」は後述の事情により2003年を最後に開催していなかったが、2014年に復活することとなり、この模様は2014年12月にテレビ朝日、BS朝日、並びにスカパー!・ケーブルテレビのテレ朝ch2で放送されることになり、テレ朝ch2では同作品とは別に、過去の講演を抜粋した「トーキングブルースレジェンド」の放送も決まった。

1989年、アントニオ猪木がスポーツ平和党から参議院選挙に立候補した時には、「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」というキャッチコピーで応援した。

世界水泳では2001年の日本・福岡大会と2003年のスペイン・バルセロナ大会を2大会連続で特別実況し、世界陸上では1999年のセビリア大会から2003年パリ大会にかけて、女子マラソンの実況を担当した。

2004年4月5日から、テレビ朝日にて『ニュースステーション』の後継番組に相当する『報道ステーション』のメインキャスター(アンカーマン)を務めている[7]。そのため、他局のレギュラー番組やコマーシャル出演を相次いで降板した。以後、仕事は基本的に『報道ステーション』に絞っている(ただし稀にではあるが、ゲスト出演を行ったり、テレビ朝日の特別番組に出演することもある)。週刊誌のインタビューについても『報道ステーション』開始後は応じていなかったが、2014年には『AERA』(七月十四日号)の取材に応じている。『報道ステーション』担当後も日本テレビ『おしゃれカンケイ』のみ2005年3月まで出演を継続した(こちらについても『報道ステーション』専念のために降板を示唆し、番組は打ち切りとなった)。

いずれも立教大学の先輩である徳光和夫(元日本テレビアナウンサー)やみのもんた(元文化放送アナウンサー)に憧れてアナウンサーになった。アナウンサー希望で就職活動を始めた頃にNHKの就職試験を受けたことがある。 1984年2月11日、前年の引退からの復帰を宣言していた初代タイガーマスクが興したタイガージムのジム開きパーティに、「年来の友情」から、アナウンサーの立場を離れた「個人の資格」で参加し、司会を務めた。ザ・タイガーへの改名や、山崎一夫の新日本プロレス離脱&インストラクター就任などがその場で発表されたのだが、古舘の出席はテレビ朝日でも新日本も問題視しなかった。これは、テレビ朝日退社が既に公然の事実だったのと、「古舘は新日本および猪木に対して不利益なことはしないだろう」という信頼感による部分が大きかった。

1991年、古舘の実姉が癌で他界する不幸に見舞われた。この時、逸見政孝(元フジテレビアナウンサー)は、フリーアナウンサー同士で身内を癌で亡くしたという同じ経験を持つことから古舘にお悔やみの手紙を送った。ここから2人の間に交流が生まれ、逸見が癌で闘病中、古舘が日本テレビ『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の司会を代行している。

2012年5月28日、自身の母親が死去した。実姉と同じく癌によるものだった。古舘は母親の入院先について、実姉の入院時と同じ病院を選んだ。『報道ステーション』で多忙を極める中、実姉の時以上に、献身的に看病したという。同日夜、『報道ステーション』開始の数時間前に母親は息を引き取り、古舘は番組の打ち合わせ中にこれを局内で聞いたという。このため、実姉の時と同様、仕事で母の最期を看取ることはできなかった。その直後、母親が亡くなってから数時間後に始まった『報道ステーション』の生放送では、いつもと変わらぬ様子で、淡々とニュースを伝えた[8]。

THE ALFEEの高見沢俊彦とは親友で、高見沢は古舘のことを「いっちゃん」と呼んでいる。「古舘伊知郎のトーキングブルース」のステージで使用する楽曲の提供を毎年行っており、それらをまとめたCDアルバムが発売されている。また、テレビ朝日時代の同期の南美希子も古舘のことを「いっちゃん」と呼んでいる。

空気中での音速(およそ秒速340m、気温により変化)とフォーミュラカーの最高速度(およそ時速340km)の単位を混同していた古舘は、「音速の貴公子」という表現をF1中継で使用していた。(そんな厳密な定義(とその混同)を踏まえて使っていたというより、単に<速い>のかっこいい言い回しぐらいで名づけたのでは?)

叔父は、ラジオ時代の大相撲中継のアナウンサーだった。その叔父に憧れてアナウンサーの道を進んだという[9]。

1994年・1995年の紅白において、両軍司会コンビを組んだ上沼恵美子とは、この共演が原因で確執が生じたとされる。1996年の紅白における両軍司会もこの2人を起用する方向で話が進み、古舘は続投したが、上沼は古舘との確執を理由に拒否したと伝えられている(紅組司会は松たか子に交代した)[10]。

2003年、『ニュースステーション』のメインキャスターを務めた久米宏は「後を受け継ぐ古舘さんに何かメッセージありますか?」と記者に尋ねられた際(久米の『ニュースステーション』降板表明会見より)、「いや、番組はなくなるって聞いていますから。存在しない番組に司会者が存在するわけないでしょ」と回答した。これに対し古舘は先述した『AERA』のインタビューで「(久米を)冷たい男だなと思いましたけど」「それから久米さん嫌いになったんですけど」と述べた。その後には「半分は大先輩だと思って尊敬している。半分は嫌いっていうところに落ち着くんだけど」と語った。

2012年3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生から1年の節目にあたることから放送された『報道ステーション』特別版のエンディングで、前年末の番組が、福島第一原発が津波で壊れたのではなく地震によってどこかが損壊していたのではないかと追及したことを紹介し、その上で「今回このスペシャル番組でその追及をすることはできませんでした」と語った。さらに、日本には原子力村という村が存在し、産業がない地域が積極的に原発を誘致したと指摘した後、「その根本を徹底的に議論しなくてはいけない。私は日々の『報道ステーション』の中でそれを追及していく。もし圧力がかかって番組を切られてもそれは本望です」などと語った[11]。

2012年9月、『週刊文春』で行われたメルマガ読者による「嫌いなキャスター」のアンケートで、2位のみのもんたに大差をつけて1位を獲得するなど、古舘に対する賛否両論は激しい[12]。

本人が1番好きなテレビ局は古巣で『報道ステーション』を受け持つテレビ朝日である。なお、テレビ朝日を退社した際、局内から一切引き止めがなく、寂しい思いをしたと語っている[13]。

2005年4月以降、古舘が『報道ステーション』以外の番組への出演をほとんど行わない理由について、テレビ局関係者は「報道キャスターというイメージを守らなければならないなど様々あります。売れっ子である古舘を1番組だけに絞られると、当然、事務所側としては収益が少なくなる。その見返りとしてなのか、事務所が丸々『報ステ』の制作を請け負っている。これは、事務所にとっては大きい。所属事務所の「古舘プロジェクト」は、構成作家など制作陣も抱えていますからね。1回の放送で3000万~4000万円、事務所に入っているのではないでしょうか。一説には、6000万円という声もあります。ロケからニュース原稿作りまでほとんど事務所所属スタッフを使っていますからね。だから、古舘は他の番組をやる必要がないわけですよ」と語っている[14]。

『報道ステーション』を受け持つようになってからの年収は、同番組以外からの物を含めて5億円程度とされる[15]。

『報道ステーション』のメインキャスター就任後、視聴者から毎日自身のもとへ100件以上の電話・メール(本人曰く「95%以上が誹謗中傷」)が寄せられるという。そして、それら全てに目を通していることを明かしている[16]。

産経新聞は、『報道ステーション』(古舘)の普天間基地移設問題への報道に対し、「両論併記」「報道しない自由」という語を用いて批判し[17]、パリのテロ事件とISへの報道に対し、週刊新潮「『イスラム国と話し合え』という綺麗事文化人」を引用し批判している[18]。また、産経新聞は、視聴者から「偏向報道」の指摘された『報道ステーション』(古舘)がアリバイ工作をしている、と報道している。

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