勧野甲輝の出身高校

勧野甲輝 プロ野球選手

勧野甲輝卒業高校
PL学園高校 偏差値 大阪府高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
3428位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1992年7月12日生まれ

勧野 甲輝(かんの こうき、1992年7月12日 - )は、大阪府富田林市出身のプロ野球選手(内野手)。

1992年7月12日に大阪府富田林市で生まれた。4歳から富田林リトルリーグで外野手として野球を始めた。PL学園小学校時も同チームで投手、遊撃手、外野手として出場。 富田林市立第二中学校に進学して富田林シニアに所属し、2年秋に関西大会で優勝。2007年、3年時にベネズエラで開催された第13回世界ユース選手権大会に出場し、世界3位に貢献した。なお同大会はベネズエラの不正や台湾チームへのビザ発給拒否問題によりIBAFの冠が外れ中止扱いとなった。

2008年、PL学園では1年夏からベンチ入りし、左翼手のレギュラー兼投手で4番打者を任されるなどした長距離砲だった。2009年、1年冬に1月19日に大阪府内の病院で診察の結果、腰椎分離症と診断されて入院した 。その影響もあり2年春はセンバツに出場するも1安打に終わった。夏の大会では不振でベンチ落ちするという苦渋を味わった。2010年、3年時は4番打者として吉川大幾らと強力打線を形成するが、大阪大会の2回戦で8回の走塁中に右足首を負傷し、大阪府富田林市内の病院で右足首捻挫と診断され、以降の試合でスタメン落ちした。大阪大会4回戦で山田哲人擁する履正社に敗れた。

10月28日に2010年度のプロ野球ドラフト会議にて、東北楽天ゴールデンイーグルスに5位指名された。

春季キャンプで故障し、シーズンが始まってからも怪我等で遠征に帯同させて貰えなかった。イースタン・リーグ公式戦には6月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦で指名打者として実戦復帰した。二軍の出場は11試合にとどまり、守備では一塁手、三塁手として出場した。

前年同様二軍で過ごした。イースタン・リーグ公式戦で62試合と出場機会は増えたものの打率.170、1本塁打10打点と打撃不振に陥った。三塁手で32試合、新たに二塁手に取り組み27試合、一塁手で3試合に出場した。

主に二軍で二塁手として出場したが、6月以降出場機会が激減し28試合の出場にとどまり、一軍に上がることは出来なかった。

10月4日に球団から戦力外通告を受けた。

12月12日、福岡ソフトバンクホークスとの育成選手契約締結が発表された。

三軍中心に63試合出場した。7月から二軍に定着し始め、ウエスタン・リーグ公式戦で38試合に出場し、打率.258、2本塁打だった。主に三塁手・一塁手で出場し、1試合のみ途中出場でレフトの守備についた。

10月31日、育成選手の規約に基づき自由契約公示されたが、11月27日再び育成選手契約を結んだ。

ウエスタン・リーグ公式戦で28試合に出場するものの、打率.215、1本塁打3打点の成績に終わり、10月26日に球団から戦力外通告を受けた。

中学2年生時に最速142km/hの速球を投げていた。リトルとシニア合わせて通算本塁打は104本 高校時代の遠投は110メートルで50メートル走のタイムは6秒5だった。故障に悩まされながらも高校通算27本塁打を打ち、楽天入団後は右の長距離砲として期待されていた。二軍では2014年シーズン終了時の4年間の通算でわずか4本塁打である。しかし、54安打に対して長打は18本と3分の1を占めている。二軍4年間の通算守備率は一塁.990、二塁.980、三塁.913である。

名前は「甲子園で輝くように」という思いを込められて命名されたという。

楽天に指名された直後は清原和博を目標に掲げていた。

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