具志堅用高の出身高校

具志堅用高 コメンテーター

具志堅用高卒業高校
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106位 / 140人中 コメンテーター別偏差値ランキング
性別
女性
血液型
A型

具志堅 用高(ぐしけん ようこう、男性、1955年6月26日 - )は、日本の元プロボクサー、タレント。沖縄県石垣市出身。元WBA世界ライトフライ級王者。太田プロダクション所属。

2015年に国際ボクシング名誉の殿堂オールドタイマー部門に選出された。

ニックネームは「カンムリワシ」。生来のサウスポー(ただし、書き手は右手)。ボクシングスタイルはファイタータイプ。血液型A型。トレードマークは独特のアフロヘアー(天然ではない)と口髭。入場テーマ曲はメイナード・ファーガソンの「Conquistador」(征服者)。

協栄ジム初代会長の金平正紀が具志堅の世界初挑戦の時に「100年に一人の天才」というキャッチフレーズで売り出した(具志堅引退後に同じライトフライ級でデビューした大橋秀行【ヨネクラ】は“150年に一人の天才”)。

沖縄県石垣市(石垣島)生まれ。旧琉球王国の士族の家系である具志堅親雲上用易を元祖とする允氏具志堅家の系譜であり、名乗り頭に「用」の字を用いている。地元の中学卒業後、沖縄本島に渡り興南高等学校に入学。興南高校とは別の高校も受験したが、試験用紙に名前を書き忘れてしまい落とされた。高校時代ボクシング部に入る前は野球部を志望していたが、身長が足りないことで入部を断られた。上原康恒の実父上原勝次や金城真吉、仲井真重次の特訓で天性の素質が開花。3年次でインターハイ・モスキート級優勝。同校卒業後に上京する。拓殖大学商学部の体育推薦入試に合格していたが、協栄ジムの金平正紀会長の命を受けた高橋勝郎マネージャーに拉致され協栄ジムに入門[7]。上京後は、後援者から沖縄県との習慣の違いなどの生活面を気遣われ、紹介された剣道家卯木照邦の元で下宿していた。生活は楽ではなく、5回目の世界王座防衛戦までとんかつ屋でバイトしていたという[8]。アマチュア時代の戦績は62勝(50KO、RSC)3敗。アマチュアでのクラスはモスキート級(45kg以下)であったが、当時のプロはフライ級(112ポンド=50.802kg以下)が最軽量級であり、具志堅もフライ級でデビューすることとなった。

1974年5月28日、牧公一(田辺)との4回戦でプロデビューしたが、後にフライ級の全日本新人王、日本王者になる実力者の牧に、体格面で劣る具志堅は苦戦し、僅差の判定勝ちに終わった。同年9月10日に行われた牧との再戦でも、前回より差がついたもののやはり4回判定勝ちだったが、この直後にフライ級の下に新しくジュニアフライ級(現ライトフライ級)が新設されることになり、フライ級では体格面でハンデを感じていた具志堅も同クラスに転向、その後はようやく実力を発揮し始めるようになった。日本上位クラスに4連勝(3KO)し、世界10位にランクされた具志堅は、1976年1月23日、神奈川県川崎市体育館で世界同級3位、セサール・ゴメス・キー(アメリカ)との「世界王座挑戦者決定戦」に臨んだ。相手のキーは14戦全勝(12KO)無敗の強打者だったが、具志堅は2回にダウンを奪った後も終始圧倒して7回KO勝ちし、世界王座挑戦のチャンスを得た。

1976年10月10日、山梨県甲府市の山梨学院大学体育館にて"リトル・フォアマン"の異名を持つWBA世界ライトフライ級王者ファン・ホセ・グスマン(ドミニカ共和国)に9戦目で挑戦。戦績21勝(15KO)1敗、うち初回KO勝ちが11度という強打の王者に対して、挑戦者・具志堅は開始当初から軽快に動き回り、一発を狙う王者を回転の速い連打で圧倒し、2回、4回にダウンを奪った。また、3回には手負いのグスマンの左フックを浴び、ロープに後退したが、グスマンの後続パンチを全てウィービングで外してピンチを切り抜けるなど、防御面でも天才的な動きを見せた。そして、7回開始早々、グスマンをロープに追い詰め、コンビネーションブローで3度目のダウンを奪ったところでKO勝ちとなり、沖縄県出身者初の世界王者となった。試合後「ワンヤ、カンムリワシニナイン(自分はカンムリワシになりたい)」と話したことから「カンムリワシ」の異名がついた。なお、9戦目での世界王座奪取は当時の国内最短記録となった(後に辰吉丈一郎に更新され、現在は田中恒成の5戦目)。

1977年1月30日、日本武道館において、元WBA王者で世界2位(1位はWBC王者ルイス・エスタバ)の指名挑戦者、ハイメ・リオス(パナマ)と初防衛戦を行う。「ハエのようにうるさい」と言われる変幻自在の動きが特徴の挑戦者は、2回に右で具志堅からダウンを奪い、その後も右を再三ヒットして具志堅の両目を腫らすが、具志堅は落ち着いて中盤以降ボディ攻撃を敢行し終盤はリオスを圧倒。2-1のスプリットデジションとなったが(パナマの副審はリオスの勝ちと採点)判定勝ちで初防衛に成功した。翌1978年5月7日には、広島県立体育館での5度目の防衛戦でリオスと再戦、今回も王座奪還に執念を燃やすリオスの右を再三浴び、両目を腫らすが、ボディ中心の攻撃で中盤以降圧倒。7回にダウンを奪った後、13回終盤、右フックでリオスのマウスピースを飛ばした後、コーナーに後退したリオスを乱打したところでレフェリーが試合を止め、2分59秒、具志堅のKO勝ちとなった。

1979年1月7日には、神奈川県川崎市体育館にて2度目の防衛戦でも対戦(2-1の判定勝ち)したリゴベルト・マルカノ(ベネズエラ)を終始圧倒して7回KOに降し、7度目の防衛に成功。当時の日本人世界王者の最多防衛回数を更新(それまでの最多防衛記録は小林弘、輪島功一の6度)。

1979年4月8日、東京・蔵前国技館にて元WBA世界フライ級王者:アルフォンソ・ロペス(パナマ)を7回KOに降し、8度目の防衛に成功。1977年10月の3度目の防衛戦からこれで6連続KO防衛となった。「世界王座6連続KO防衛」は日本人世界王者では具志堅しか達成していない(2012年末現在)。

1980年6月1日、高知県民体育館にてマルチン・バルガス(チリ)を8回KOに降し、12度目の防衛に成功。ジュニアフライ級の世界王座防衛回数世界新記録(当時)を達成。その後、10月12日には石川県金沢市実践倫理会館に於いてペドロ・フローレス(メキシコ)を苦戦しながらも15回判定に降し、13度目の防衛にも成功(世界王座防衛13度は日本人男子世界王者の最多記録で、女子を含めると小関桃に次ぐ記録)。

1981年3月8日、地元沖縄県での凱旋試合として具志川市(現在のうるま市)の具志川市立総合体育館にて14度目の防衛戦を開催。前回の防衛戦で対戦したフローレスと再戦。回が進むにつれ、挑戦者のプレッシャーをかわし切れなくなっていく。8回に最初のダウンを奪われると、迎えた12回、挑戦者の右ストレートをまともに浴びて2度目のダウン。辛くも立ち上がり試合続行に応じたが挑戦者の追撃に襲われる。ここでセコンドからタオルが投入され世界王座陥落。この試合を最後に現役を引退した。本人が語った所によると、最初調子は悪くなかったが、序盤でパンチが目に入り、目がよく見えなくなり、そのあとは記憶が無く、ダウンしたことも翌日の報道で知ったと言う。その後、再戦の話が出るが、網膜剥離寸前と診断され一ヶ月通院。元のようには戦えないと思い、新婚の妻とも話し合ったすえに引退を決めた。[9]

引退後は解説者として活躍する一方、芸能界でのタレント活動にも参加。1994年には日本人初のボクシング世界王者でもある白井義男と共同で「白井・具志堅スポーツジム」を開設。現在は同ジムの会長として後進育成に力を入れ、元日本スーパーフライ級王者の名護明彦、元OPBF東洋太平洋ライトフライ級王者の嘉陽宗嗣らを育てている。

2010年4月、太田プロダクションと契約を結び、同年6月に『クイズ!ヘキサゴンII』に出演すると、そのマイペースなキャラクターと珍解答で注目されてそのまま準レギュラーとなった。『ヘキサゴンII』には常連出演者となる前にも数回出演経験がある。『ヘキサゴンII』が終了した現在も数々のバラエティ番組に出演し、「ちょっちゅね」など陽気なイメージの、独特のキャラクターで多大な人気を集めている。

2010年5月に日本における元世界チャンピオン達と、プロボクシング・世界チャンピオン会を設立した。

2015年に国際ボクシング名誉の殿堂オールドタイマー部門に選出された[10]。同年、イクメン・オブ・ザ・イヤー・イクジイスポーツ部門を受賞[11]。

生涯戦績 24戦23勝(15KO)1敗

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