八木亮祐の出身高校

八木亮祐 プロ野球選手

八木亮祐卒業高校
名古屋市立北高校 偏差値 愛知県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
2239位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1990年9月29日生まれ

八木 亮祐(やぎ りょうすけ、1990年9月29日 - )は、東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(投手)。

小学校4年の時に友達から誘われて地元の少年軟式野球チーム「津島北クラブ」で投手として野球を始める。小学校3年まではサッカー選手を目指していた。投手を始めたのは小5の時だが、基本的には1塁手だった。

「愛知西リトルシニア」に所属し、ジャイアンツカップで優秀選手に選ばれた。その際に八木の噂を聞きつけた享栄高等学校の野球部監督の目に留まり、同校の野球部に進学する事となった。この監督は当時の八木の印象を「天性の肩の柔らかさ、肘のしなりは中学生離れしていて、将来はプロを狙える素材だと思いました。」と語っている。

享栄高等学校時代は、3年時6月の練習試合で岐阜城北高校の伊藤準規(現・中日)と投げ合って17奪三振を奪ったことで注目を集めた。夏の西愛知大会2回戦の春日井西高校戦では5回参考記録ながら無安打無失点を達成し、同3回戦の小牧南高校戦では16奪三振を記録した。

準々決勝で中京大中京に敗れ甲子園出場はならなかったが、最速141km/hの直球を武器に「東海のドクターK」、「工藤二世」と評される活躍を見せ、阪神、広島、中日などが評価していた。2008年度ドラフト会議で東京ヤクルトスワローズに2巡目で指名され、契約金6000万円、年俸600万円(金額は推定)で入団した。享栄高校からの東京ヤクルト及びその前身球団への入団は、金田正一(中退)以来となり、背番号も金田にあやかった34とされた。

1軍での登板は無し。 左肩痛の影響で2010年は2軍登板すらなく、背番号も34番から70番に変更となった。

2012年は2軍でローテを守り続けた。8月4日の対中日ドラゴンズ戦でプロ初登板初先発するも、3回0/3を3失点で降板した。10月1日の読売ジャイアンツ戦で7回無失点の好投でプロ入り初勝利を挙げた。

オーランド・ロマンの不調により、開幕3戦目である3月31日の阪神タイガース戦に代役先発。プロ入り初先発の藤浪晋太郎相手に7回無失点と投げ勝ち、シーズン初勝利を挙げた。 その後は先発ローテに定着し安定した投球を見せるも、打線の援護が少なかったこともあり、5月終了時点で防御率2点台ながら1勝と中々勝ち星が伸びなかった。他の先発陣が軒並み不調な中で小川泰弘と共に最後までローテを守りきり、最終的に規定投球回をクリアした。防御率と敗戦数は規定到達者の中でワーストだったが、初完封を記録するなど飛躍のシーズンとなった。

チーム事情からオープン戦より中継ぎに転向し、勝利の方程式の一員として期待された。しかし6試合で防御率5.87と振るわなかったことから、同じく結果を出せていなかったルーキーの秋吉亮と入れ替わりで、開幕早々先発に回る。8月5日の対阪神戦では2/3イニングで負傷降板したが、この時2アウトから野手のエラーで出塁していたランナーが、八木の降板後に決勝点のホームを踏んだため、被安打、自責点共に0で敗戦投手になった。翌日左大腿部の肉離れと診断されたため登録抹消され、一軍への復帰はシーズン最終盤の10月であった。

オーバースローから平均球速約139km/h、最速149km/hのキレのいいストレートに、スライダー・フォーク・チェンジアップを織り交ぜ、100km/h台のスローカーブも駆使する。

プロ入り後のニックネームは「ヤギヤン」。これは上述の金田正一が「カネヤン」と呼ばれていた事に由来するが、本人は活躍して金田に認められた後、そのように呼ばれることを希望している。

同期入団の赤川克紀に「AK」と言うニックネームをつけるなど仲が良く、同じ高卒の左腕ということで「僕と赤川君の未来の左エース対決では絶対に負けません」と抱負を語っておりライバル心も抱いている。

知り合いが貰ってきてくれた川上憲伸のサインを宝物にしている。

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