伊野波雅彦の出身高校

伊野波雅彦 プロサッカー選手

伊野波雅彦卒業高校
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性別
男性
生年月日
1985年8月28日生まれ

伊野波 雅彦(いのは まさひこ、1985年8月28日 - )は、宮崎県出身のプロサッカー選手。ポジションはディフェンダー(CB、SB)、ミッドフィールダー(ボランチ)。元日本代表。

実家は豆腐屋。幼少時は水泳や器械体操を習っていたが 9歳の時に全てを辞め、サッカーを始める。生目台中学では同期の上田常幸と共に宮崎県選抜に選ばれていた。この頃、同郷の増田誓志を伴いブラジル・リオデジャネイロに2度の短期留学を経験。また、当時から鹿島アントラーズのファンで、鹿島ユース入りを図って直談判を申し出たが、遠方のクラブに入る負担などを理由に断られた。スカウト担当の平野勝哉は当時の伊野波について「まだ小柄でどんなタイプの選手かも分からなかった」と述懐している、鹿島がキャンプで伊野波の地元である宮崎を訪れた際には練習を見学に行き、小笠原満男と一緒に写真を撮っている。

2001年、鹿児島実業高等学校に進学。高校卒業後のJリーグ入りを目指して数チームに練習参加するが叶わず、2004年に阪南大学に進学。1年生の時にユニバーシアード候補に選出されて名を上げると、負傷した吉弘充志の代役として大熊清率いるU-20日本代表に抜擢され、2005年のワールドユースにも参加。しかし、本大会では出場機会を得られず、この悔しさと、元々大学で4年間を過ごすつもりも無かったことから大学を休学してのプロ入りを決断。

J1の6クラブからオファーを受け、特に鹿島では既にプロ入りしていた増田からも誘いを受けていたが、増田との対戦を希望し、2006年1月にFC東京への加入が発表された。ガーロ監督は開幕戦から新人の伊野波をスタメンに抜擢しボランチで起用。相手キーマンへのマンマークを担った。その後も故障者の多かった守備陣の穴を埋める形で、SBやボランチ、CBと複数のポジションで出番を与えられた。第19節アビスパ福岡戦ではヘディングでプロ初得点を決めた。

2007年はポジションをSBに絞って臨むことを宣言していたが、4月に出場機会を失うと ボランチへの転向を志願。しかし、シーズン中盤以降今野泰幸がボランチに復帰 してからは再び控えに戻った。

2008年、鹿島アントラーズに完全移籍。同年開催の北京オリンピック代表メンバー入りに向け、シーズン通してレギュラーでプレーすることを目標としていたが、序盤はバックアッパーに甘んじ、オリンピック出場を逃した。シーズン終盤にかけてCBの定位置を奪取。リーグ優勝に貢献し、プロ入り後初のタイトルを獲得した。

2010年序盤はDF李正秀の加入により出場機会が激減するも、同年7月に李が退団して以降はレギュラーに復帰した。

2011年はリーグ戦とACLが併行していた序盤こそ先発出場を続けていたが、ACL敗退後は中田浩二がCBに配されたことで 出場機会を減らし、「日本代表で結果を残すため」シーズン途中で退団した。

2011年7月、クロアチア1部プルヴァHNLのハイドゥク・スプリトへ完全移籍。クロアチアを足掛かりに上位リーグへの移籍を目指していたが、給与未払いを理由に2012年1月に退団した。

2012年2月、ヴィッセル神戸へ完全移籍。序盤は主にボランチで起用され、自身もこのポジションでのプレーを切望していたが、シーズン途中に就任した西野朗監督は、伊野波の守備力こそ評価したものの、前線の選手への配球力に欠けており ボランチとしての適性には疑問があると判断し ポジションをCBへ移した。

神戸を常勝クラブに変えたいと意気込んでいたもののJ2降格を喫し、残留を望まない選手は引き留めないというクラブ方針もあって、1年限りで退団。

2013年、ジュビロ磐田へ完全移籍。開幕から3バックの一角を務めた が、チームのサッカーに順応できず、代表活動の負担も重なりチームはJ1第31節サガン鳥栖戦の敗北より降格。神戸在籍時に続く2年連続のJ2降格となってしまった。2014年はディフェンスリーダーとして奮戦するも、調子の波が大きく安定を欠き J1復帰を逃した。

2015年シーズンは途中ケガがあったものの、ジュビロの守備の要として32試合に出場。J1昇格が懸かったJ2最終節大分トリニータ戦(11月23日)では、シーズン初ゴールとなる先制ゴールを決めて、11月12日に亡くなった名波浩監督の父を思いユニホームの袖下から喪章を外し、スタンドへ掲げた。そのゴールもあり、ジュビロのJ1復帰に貢献したが、条件面が折り合わず2015年シーズンで磐田を退団。11月27日には、自身のフェイスブックで「このたびジュビロ磐田より、契約満了の通知を受け退団することとなりました(中略)やっと馴染んできたサックスブルーのユニフォームを着て、来季はプレーすることはできませんが、これからは陰ながら皆さんと一緒に、ジュビロ磐田を応援していきたいと思っております」とコメントを発表した。

2006年8月31日、イビチャ・オシム監督の選考するAFCアジアカップ2007予選大会の日本代表メンバーに選出された(試合出場なし)。2007年のアジアカップにも直前で播戸竜二が負傷離脱したため A代表に緊急招集された。また、U-22代表では北京五輪アジア二次予選までキャプテンを務め、3バックの中央でDFラインを統率した。

2010年、アルベルト・ザッケローニ監督の初采配となるアルゼンチンとのキリンチャレンジカップおよび韓国との国際親善試合の日本代表メンバーに選出。 2011年のアジアカップでサウジアラビア戦に後半から内田篤人と交代で日本代表初出場を果たし、直後に前田遼一へのアシストを決めた。内田の出場停止により初の先発出場となった準々決勝のカタール戦ではオフサイドをかけ損なって失点につなげるなど 終始低調なパフォーマンスだったが終盤に値千金の決勝点を決めた。

2014年5月12日、2014 FIFAワールドカップの日本代表メンバーに選出された。所属するジュビロ磐田は2013年にJ2に降格しているため、J2クラブ所属でワールドカップ日本代表に選出された史上3人目の選手となった。しかし、本大会での出場機会はなくチームもグループリーグで敗退した。

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