丸藤正道の出身高校

丸藤正道 スポーツ選手

丸藤正道卒業高校
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スポーツ選手ランキング
420位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1979年9月26日生まれ
血液型
O型

丸藤 正道(まるふじ なおみち、1979年9月26日 - )は、日本の男性プロレスラー。埼玉県北足立郡吹上町(現・鴻巣市)出身。血液型O型。プロレスリング・ノア所属。取締役副社長。

ジュニアヘビー級らしい軽い身のこなしが特徴で、トップロープやコーナーポスト、エプロンサイドなどリング全体を活かした技を得意としている。ただし、アマチュア時代はレスリングの経験に加えスーパータイガージムに所属していたこともあり、関節技やグラウンドの技術についても高いものを持っている。

プロレスラーとしての技術に対する評価は高く、他団体の多くのレスラーや関係者から賞賛されることが多い。「ジュニアヘビー級だけでなく、日本のプロレス界を牽引する一人」「百年に一人の天才」「馬場、三沢のDNAを持つ男」とも呼ばれる。現在、ノアが管理するベルトの全てを獲得しているのは他団体を含めて丸藤のみである。また、過去に高山善廣がPRIDEへ参戦する際には、高山からの要請によりスパーリングパートナーを務めている。2015年の時点で、メジャー3団体(新日本・全日本・ノア)のジュニアヘビー級の王座を全て獲得した唯一のレスラーである。

埼玉栄高校に入学し、レスリング部で活躍、インターハイ出場経験もある(一学年上には柔道部所属の土方隆司がいた)。ちなみに、この埼玉栄時代の卒業前には、ロンドンブーツ1号2号の番組に「全日本プロレス入団内定」という触れ込みで、名前を明かさなかった上、少しではあるが出演を果たしている。また、高校時代には大宮のスーパータイガージム(当時は朝日昇、エンセン井上が在籍)に通っていたことを自ら明かしている。高校2年生時、キングダムの入門テストに合格しているが、キングダム崩壊により、入団は果たされなかった。 卒業後、全日本プロレスに入門。1998年8月28日、愛知県・岡崎市体育館の金丸義信戦でプロレスラーとしてデビューを果たした。丸藤はジャイアント馬場存命中最後のデビューとなったため、当時は「馬場の最後の弟子」とも呼ばれ、テレビで特集を組まれたこともあった。馬場の肩の上からミサイルキックを繰り出したこともある。

三沢光晴の付き人を務め、見習い扱いでアンタッチャブルに所属する。

2000年7月、三沢を中心とした新設されたばかりのプロレスリング・ノアに移籍する。師匠・三沢がリーダーを務めるユニット「WAVE」の一員として参加した。

2001年12月19日の有明コロシアム大会で、当時ZERO-ONE所属の高岩竜一を破り22歳で他団体に流出していたGHCジュニアヘビー級王座を奪還した。

2002年1月20日、視察のために新日本の獣神サンダー・ライガーと田中稔がやって来ていたが、丸藤が自身の試合後にマイクを取り「ノアのジュニアは最強です」と挑発したことでライガーがブチ切れ、新日本との対抗戦に発展する。しかし、3月に左膝靭帯を損傷し、まともに歩けない状態でありながら4月7日に橋誠との2度目の防衛戦に臨んだことから更に膝の状態が悪化、レフェリーストップで敗れることとなった。

復帰直後の2003年1月に三沢とのシングルを経験するも、結果は丸藤の敗北に終わった。これを期に丸藤はWAVEを脱退し、三沢の付き人も同時に卒業する。その直後から「下克上」を旗印に、同じく若手のWILD II(森嶋猛&力皇猛)やKENTAと共闘を始め「ジュニアの体のままヘビーに挑戦」と目標を定める。この一環で2003年4月5日には秋山準&齋藤彰俊組が保持するGHCタッグ王座にも森嶋と共に挑戦を果たした。

同年7月には、KENTAとのタッグで初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座決定トーナメントに参加する。順調に勝ち進み7月16日に行われた決勝戦で、因縁の相手であるライガー&村浜武洋組を破り初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座に君臨した。その後、KENTAとのタッグは連戦連勝を重ね、ノアのジュニア戦線はヘビー級を上回る人気を獲得するようになる。

2004年9月10日、パンクラスの鈴木みのると対戦した。試合には敗れたが、鈴木は丸藤を大きく評価し、その後意気投合しタッグを結成した。そして、2004年10月16日には、秋山が創設した白GHCことグローバル・ハードコア・クラウンのタイトルにも挑戦する。王者・秋山とは体格差のハンデがあったものの、リングアウト勝ちを収め、第2代王者となった。

これと同時に進行していたKENTAとのタッグでは、防衛回数を積み重ね「ジュニア版絶対王者」とまで称された。計9回の防衛に成功し、2005年5月7日・8日に行われたジュニアの祭典第二回ディファカップでも決勝の日高郁人&藤田ミノル組を破って優勝。しかし6月5日、過去2度KENTAとのタッグで敗れている金丸&杉浦組に三敗目を喫し、同王座から陥落した。

しかし王座陥落直後の6月18日、イギリス・モアカムにおいてスコーピオ&ダグ・ウイリアムス組に鈴木とのタッグで勝利し、第10代GHCタッグ王者となった。

2006年1月22日、KENTAが持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。敗れたものの高評価を得た。この試合でジュニア戦線に一区切りをつけた丸藤は、ヘビー級を超えるべくヘビー級戦線に参入した。

3月5日の日本武道館大会では5大シングル戦の一戦として、当時前GHCヘビー級王者であった田上明とシングルで対決。最後は隙を突いて完璧首固めで四天王の一角から金星を奪った。

3月10日、リアルジャパンプロレスにてジュニア界の伝説・初代タイガーマスクと初対決。丸め込まれ敗れはしたものの、佐山(タイガー)を「日本のプロレスにはまだ凄いのがいる。」と驚かせた。

4月23日、日本武道館で小橋建太とシングルマッチを行うも敗北。

9月9日、先の田上戦、小橋戦で対ヘビー級の自信を掴んだ丸藤はGHCヘビー級王者・秋山に挑み完璧首固めで勝利。第10代GHCヘビー級王者となるのと同時に、ノア創立以来史上初のGHC全王座獲得(ヘビー・ジュニア・タッグ・ジュニアタッグ・ハードコア)を達成した。

10月29日には1月にGHCジュニア選手権で敗れたKENTAを次期挑戦者に指名。初公開のポールシフトで初防衛に成功した。この試合は同年のベストバウトに選ばれた。

しかし12月10日、三沢との防衛戦で雪崩式エメラルド・フロウジョンで敗れ、王座から陥落した。

2006年12月24日、第四回力道山杯を受賞。

2007年4月1日にDDTプロレスリングに初参戦、男色ディーノとのタッグでKUDO&マッスル坂井と対戦し、試合中ディーノの求愛行動に手こずりながらもディーノの勝利をアシストした。

4月30日にはKAIENTAI-DOJOにも初参戦し、円華とのタッグで真霜拳號&房総ボーイ雷斗と対戦し、雷斗の卑怯な攻撃に翻弄されるもしっかりと勝利をアシストした。

6月8日にビッグマウス・ラウドの村上和成と初対戦し、注目を集めたこの試合で大流血し敗北を喫した。

GHCヘビー級選手権次期挑戦者決定リーグ戦にエントリーし齋藤に敗れる波乱がありつつも優勝決定戦に進出する。優勝決定戦では森嶋と対戦し丸藤が勝利した。優勝したことにより第11代GHCヘビー級選手権者・三沢への挑戦権を手に入れた。2007年9月29日大阪府立体育会館でGHCヘビー級王座を奪われた三沢に挑戦するも変型エメラルド・フロウジョンで敗北した。

10月27日、日本武道館大会にてディーロ・ブラウン、ブキャナンの持つGHCタッグ王座に杉浦貴と組んで挑戦、見事勝利し第16代GHCタッグ王者となった。獲得後、2度防衛をしたが、2008年5月23日新潟市体育館で齋藤、バイソン・スミス組に破れ王座から陥落した。

2008年9月28日、古巣の全日本プロレスで高校時代の先輩である土方をポールシフトで破り、世界ジュニアヘビー級王座を獲得した。

10月27日、日本武道館大会で丸藤の持つ世界ジュニアヘビー級王座とKENTAの持つGHCジュニアヘビー級王座のダブルタイトル戦が行われたが60分時間切れ引き分けに終わり、両者防衛成功となった。この興行はノアの主催であったが、試合は世界ジュニアヘビー公式PWFルールで行われ、場外カウント10という方法がとられ、レフェリーは和田京平が裁いている。

2009年2月6日、全日本の後楽園ホールにてカズ・ハヤシにパワープラントで敗れ王座から陥落した。

3月11日の有明大会で合体パイルドライバーをかけた際に、相手の体重が右ヒザにかかり負傷した。翌12日にMRI(磁気共鳴画像装置)検査を受け、右ヒザ前十字靱帯(じんたい)断裂で全治9か月と診断されており、様子を見ながら4月に手術を受けた。この負傷は年内絶望の重傷と言われた。

12月6日、「青木篤志“閃光十番勝負”第9戦」(元々は最終戦のはずだったが中嶋負傷欠場のため第9戦になった)で復帰し、タイガー・フロウジョンで勝利を収めた。

12月23日、ノアの自身プロデュースの試合のメインイベントに出場した後、新日本プロレス「SUPER J-CUP 5th STAGE」に出場。ノアの試合とJ-CUP決勝までの3連戦の計4試合を勝ち抜き、大会初の2連覇を達成した。

2010年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会にて、王者タイガーマスクを下しIWGPジュニアヘビー級王座を奪取。史上初のメジャー3団体(新日本・全日本・ノア)のジュニアヘビー級シングルベルトを全て獲得する快挙を成し遂げた。

しかし6月19日、大阪府立体育会館にてプリンス・デヴィットに雪崩式ブラディ・サンデーで3カウントを奪われ、IWGPジュニアヘビー級王座6度目の防衛に失敗、王座から陥落した。

7月25日、DDTプロレスの両国国技館大会で負傷し、変形性頸椎症性神経根症と診断された。この怪我が原因で翌月に出場予定だったG1クライマックスの欠場を余儀なくされ、IWGPジュニア王者のデヴィットが丸藤の代役として出場することとなった。

12月5日、日本武道館大会のKENTA戦で復帰を果たした。また、この試合では初心に帰るという意味も込めて普段のようにオーバーマスクを着用せずに入場した。

2011年4月17日、変形性頸椎症性神経根症再発の疑いにより再び欠場となった。

11月27日、有明コロシアム大会での杉浦戦で7か月ぶりの復帰を果たす。試合後、杉浦からタッグを組む事を提案され、これを受け入れた。

2012年1月4日、ANMUの潮崎豪とタッグを組み、東京ドーム大会「レッスルキングダム」に2年振りに出場。新日本プロレスの中邑真輔・矢野通組と対戦し、これに勝利する。

同月中旬、昨年11月での杉浦との対戦をきっかけに、杉浦と共に新ユニット「丸藤軍」を結成。時同じくして同ユニット加入を申し込んできたモハメド・ヨネを拒絶。代わりにANMUで居場所を失った石森太二を同月29日に正式加入させ、同軍団のメンバーが3人となった。

2月14日、NO MERCY(高山、金丸、平柳玄藩)を相手にしたタッグマッチ中、NMCに加入した谷口周平が乱入。これを見かねたヨネが自軍に加勢する形で乱入し、試合は8人タッグマッチへと発展(試合はヨネが谷口からフォールを奪い、丸藤軍の勝利)。試合後、同試合での奮闘振りを認め、ヨネを同軍団に加入させる。また同日、リッキー・マルビンも迎え入れ、軍団の規模を拡大させた。現在、ヘビー級を主戦場にしている。

8月には前年欠場したG1クライマックスに参戦し、リーグ戦でIWGPヘビー級王者の棚橋弘至に勝利する。これを受けて9月23日新日本プロレス神戸大会で棚橋の持つIWGPベルトに挑戦したが敗れた。

2014年7月5日、永田裕志を破り7年7ヶ月ぶりにGHCヘビー級王座を手にした。

2015年3月15日、7度目の防衛戦で1月の年内開幕戦での試合後に襲撃された鈴木みのるに敗れ、王座から陥落。 9月19日には対鈴木軍の最後の砦と言われた杉浦貴も鈴木に敗退。翌日に「グローバル・リーグ戦2015で鈴木または鈴木軍のメンバーが優勝した場合には団体を解散する」と副社長として声明を発表した。

運動神経が良いのは父親譲りだという。4人兄弟の末っ子で、年の離れた兄たちと一緒にプロレスごっこで遊びながら育った。兄達が買った「週刊プロレス」に載っていたロード・ウォリアーズを見て、プロレスファンになった。なお、2男の丸藤広貴はサテライト所属のアニメーターで、『マクロスF』や『アクエリオンEVOL』『ノブナガ・ザ・フール』などの作画監督やキャラクターデザインを務めており、丸藤プロデュース大会のTシャツをデザインしたこともある。

KENTAとのタッグチームは「イケメンタッグ」などと呼ばれることもあった。

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