中沢新一の出身高校

中沢新一 学者

中沢新一卒業高校
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性別
男性
生年月日
1950年5月28日生まれ

中沢 新一(なかざわ しんいち、1950年5月28日 - )は、日本の哲学者、思想家、人類学者、宗教学者。明治大学特任教授/野生の科学研究所所長。多摩美術大学美術学部芸術学科客員教授。

構造主義のクロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ポスト構造主義のジル・ドゥルーズ、ジュリア・クリステヴァなどの思想家、また南方熊楠、折口信夫、柳田国男などの日本民俗学の研究者、そして、自身修行を体験したチベット仏教などから影響を受け、独自の思想を展開している人類学者、思想家である。もともと理系(東京大学理科二類に入学)であったこともあり、文理の境をこえ、宗教、文学、数学、科学、芸術、哲学とあらゆる領域を横断的に研究の対象とする点が特徴。 そのような自らの学問的態度について中沢は「この地球上に人類が出現し、現在のホモ・サピエンス・サピエンスになって以降の全歴史が、人類学者としての私の主題です。一人の人間の一生でできる仕事ではないのですが、それでも、全人類がこれまでに継承してきた膨大な知恵をおろそかにすることはできないと思うのです」と述べている。 また、2011年の東日本大震災以降は、エネルギー問題、現代における政治参加の問題についても思考しており、実践的な活動として2013年には「グリーンアクティブ」を設立した。

山梨県山梨市出身。 ラブレーやサド、メルロー=ポンティなどの外国文学を愛読する一方、共産党員でありながら在野の民俗学研究者でもあった父・厚に連れられ、しばしば山梨県内の遺跡や民俗信仰の痕跡に調査に出かけるアドレサンス期であったという。また近所には、後に作家となる林真理子の家があった。

1979年(昭和54年)チベット密教の修行のためにネパールへ赴く。カトマンズ盆地のボーダナートに暮らしていたラマ・ケツン・サンポ(後に彼と『虹の階梯』(1981年)を共著)をはじめ、ディルゴ・ケンツェー・リンポチェやドトプチェン・リンポチェに師事。以後、ネパール、インド、シッキム、ブータン等で、ゾクチェンと呼ばれるチベット思想や瞑想修行法を学ぶ。「仏教の出てくる根源」への関心から行ったこの修行の影響が、後の中沢の思想を大きく特徴づけるものとなる。

帰国後、山口昌男のもとで、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手をつとめる。

1983年『チベットのモーツァルト』(せりか書房)を発表。同書は、同じく現代思想的な内容を扱った浅田彰の『構造と力』とともに同年の話題書となり、二冊は人文書としては異例の売り上げを果たした。中沢・浅田のふたりは、前後にデビューした他の若手研究者とともに「ニュー・アカデミズム」とよばれ、人文系研究者のみならず、広い影響力をもった。 しかし、中沢自身は「自分が思想で目指しているものをはっきりと意識し始めたのは、『雪片曲線論』からです。収録されているものは八三、四年に書いた作品が多いのですが、当時ニュー・アカデミズムと呼ばれた一種の言語構築主義に対する反発がその作品の背景にあります。」と発言しているように、自分をニューアカデミズムの潮流とは離れた場所に位置づけている。

1992年(平成4年)、南方熊楠についての包括的な研究『森のバロック』(せりか書房)を発表。最新の社会学、カルチュラル・スタディーズなど現代思想の表舞台には背を向け、『東方的』(91年)、『森のバロック』、『はじまりのレーニン』(94年)など、反時代的な人物や思想を取り上げる反時代的な書物を書き上げることに熱中したという。

『三万年の死の教え―チベット『死者の書』の世界』を発表。NHKで放映された『NHKスペシャル チベット死者の書』の脚本も担当し評判を呼ぶ。

2013年(平成25年)より河合隼雄学芸賞選考委員を務める。

原子力発電技術について中沢は「生態圏を逸脱した「自然」のエネルギー現象」と「化学物理的な生態圏的自然のエネルギー変換装置」の間の「脆弱なインターフェイス」が問題であるとしており、これは「自己増殖ばかりではなく、解体と死の原理が含まれている」、「生態圏内部的な第一の自然」を記述できない二十世紀のモダン科学の構造の問題そのままであるとしている。そのような思考から「現代の科学は、自己変容をおこしていかなければいけない」と語っており、現代科学におけるそういった兆候の例として、非ファン=ノイマン型コンピュータの設計、トポスをめぐるアレクサンドル・グロタンディークの数学、生命を動かすアルゴリズムの研究などをあげている。

そもそも日本文化人類学会にも日本宗教学会にも所属したことが一度もなく、特定の学会におけるポジションや権威とは無縁ということもあって、アカデミズムの世界で中沢の研究について論じられる機会は極端に少なかった。松村一男はこれについて、「なぜ中沢の神話論・宗教論が宗教学の枠内で論じられることがないのかといえば、それは皆、それを論じることで自分の研究の範囲の狭さが明らかになることを恐れているからかと思われる。そうした試みを行った場合には、弁明が伴う」と述べ、「これはゲーテ、フンボルト、フロイト、ユング、そして日本での柳田、折口、吉本隆明などと同じく、名前を冠した「中沢学」という、世界を丸ごと理解しようとする試み」(29頁)として、『カイエ・ソバージュ』の総合性を評価している。 吉本隆明は、「日本の知識人の中でも一種の珍品」として一休とも比較しながら「人類の精神の考古学」という言葉を用いて高く評価している。

学問的厳密性を欠いた独特の著述スタイルに対しては、見田宗介など多くの批判が継続的にある一方、蓮實重彦や浅田彰などその特殊性を評価する人物もいる。

リゼット・ゲーパルトは、政治的には「日和見主義」、「従来の専門的学問の否定と平行して、知に対するエッセイ風の姿勢があらわれる。この背後には、十九世紀末の耽美主義者やディレッタントやダンディのリバイバルがある」」(『現代日本のスピリチュリティ』岩波書店、2013年、68~69頁)と評している。

山脇直司は、中沢新一を、実名は伏せつつ、「タレント学者」と評している。また、ニュー・アカデミズムと称されていた中沢の思想が、日本だけでしか通用しない「ガラパゴス化の産物」だと思っていたとも述懐している。

宗教学の立場から新宗教についても論じ、1980年代の末に、自身のチベット仏教の研究からも影響をうけているオウム真理教に関心を示し、発言をしていた。しかし、1995年(平成7年)地下鉄サリン事件など一連の事件がオウム真理教による組織的犯行であることが発覚すると、中沢も批判の対象とされた。事件後の1993年7月に、青土社の雑誌「imago」の特集号として「オウム真理教の深層」を責任編集し、自身は、河合隼雄と元信者である高橋英利との鼎談、同じくオウム事件に関して批判を集めていた博物学者の荒俣宏、人類学者で信者だった坂元新之輔の両者との対談、当時沸き上がっていたジャーナリスティックな教団批判から身を引いて、宗教学的に教団の問題点を追求した論考「尊師のニヒリズム」を寄稿している。同誌に寄稿した人物には他に、哲学者の鵜飼哲や社会学者の吉見俊哉、ロシア文学研究者で翻訳家の亀山郁夫などがいる。1995年5月、雑誌上に「オウム信者への手紙」を発表。 以上のように、事件直後には教団に関して多くの発言を残したが、その後は積極的な発言はおこなっていない。その理由について本人は「マスコミの表面に出ている議論は、あの教団がもっているものに触れていない」「あの教団については、未だにわからない部分がある」と語っている。事件後、かつて共にニューアカデミズムブームの中心にいた浅田彰は、中沢と対談し「バカが本を誤読して暴走したからといって、本の著者に責任はない」と中沢を擁護した。

事件後は、同じく生涯の中で強い批判に曝されたショスタコーヴィッチやハイデッガーの伝記をよくよみ、深く傷つきながらも、作品の中にその傷をあらわさない彼らの姿勢に学んだ。

福岡の講演会で坂本弁護士一家失踪事件に関し「創価学会をはじめとする宗教団体への調査の結果、どの宗教もオウムの仕業じゃないといった。別の組織によって八丈島へ連れて行かれ、埋められた」と聴衆に向かって発言。講演後に新聞記者にそのことについて聞かれて「嘘に決まってるじゃない」と一言。「自分の立場を有利に進めていくためには、どんなことでも言ってしまうわけよ。あの人は学会の植木等だよ、あのくらい調子よけりゃ、許せる部分もあるけどね」と小林よしのりに評される。。(別冊宝島229でのテリー伊藤との対談「お笑いオウム真理教」にて。)

島田裕巳、苫米地英人、呉智英などが、オウム真理教に関連して中沢批判を発表している。

中華人民共和国におけるチベット問題についてもたびたび発言をしている。ロバート・サーマン『なぜダライ・ラマは重要なのか』(講談社,2008年)の紹介文では、「中国はダライ・ラマを受け入れるとき、はじめて真の発展をとげることができるが、拒絶すれば、中国人の魂は市場経済のなかに、沈んでいってしまうだろう」と述べている。

また、ペマ・ギャルポとの対談でも中国が市場経済にソフトランディングしていこうとしているが、独裁政権と市場経済は両立しないとしたうえで「これをどういう方向でソフトランディングしていくかは、中国人だけでは解決不能だと思います。拡大していく市場というのは国際的な問題ですから、世界中の人間が知恵を出し合わないとこれは不可能でしょう」「10億の民を包みこんでいる中国が崩壊したり解体したりすると、これは地球大的に悲惨なことが起こる。わたしたちはそれを求めないし、ダライラマ猊下もそんなことは求めない。ただそれを行うためには、いろんな形で私たちが智慧を出し合い、干渉をおこなっていかなければならないと思います」と述べている。

曾祖父の徳兵衛が甲府・日下部教会(日本メソジスト教会)を中心にキリスト教の布教を行いつつ民俗研究を行った山中共古とともに受洗し、自身も民俗研究も行った。祖父中沢毅一は徳兵衛とともに受洗した飯島信明の娘を妻とし、同様にキリスト教徒で一高教授を務め、昭和天皇に進講したこともある海洋生物学者(荒俣宏『大東亜科学綺譚』参照)。

父親の中沢厚は市議会議員(日本共産党所属)で民俗学者。叔父の中沢護人も日本共産党に所属した科学技術史家(製鉄に関する民俗学研究も行った)。妻は「タンタンの冒険旅行」など多くの作品を手がける翻訳家の川口恵子。義理の叔父(叔母の夫)は日本史学者網野善彦。遠縁に作家芹沢光治良がいる。

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