ヴィクトル・スタルヒンの出身高校

ヴィクトル・スタルヒン プロ野球選手

ヴィクトル・スタルヒン卒業高校
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プロ野球選手ランキング
998位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1916年5月1日生まれ

ヴィクトル・スタルヒン(ロシア語: Виктор Старухин、1916年5月1日 - 1957年1月12日)は、ロシア帝国生まれ、北海道育ちのプロ野球選手(投手)。

本名はヴィクトル・コンスタンチノヴィッチ・フョードロヴィッチ・スタルヒン(ロシア語: Виктор Константинович Фëдорович Старухин, Viktor Konstantinovič Fëdorovič Staruchin)。戦時中は「須田 博(すた ひろし)」に改名。

沢村栄治、野口二郎、藤本英雄と並ぶプロ野球黎明期の大投手で、NPB史上初の通算300勝を達成した。また、日本プロ野球界初の外国生まれの選手であった。

1916年、帝政時代のロシアのニジニ・タギルに、ロマノフ王朝の将校・父コンスタンチンと母エレキドアの一人息子として誕生。

ロシア革命の際、一族の中に王党派がいたため、革命政府(共産主義政府)から迫害される。一家は革命軍に追われながらウラル山脈から広大なシベリアを横断し、国境を越えて日本の支配下にあった満州のハルビンまで逃げ延びた。1925年、日本に亡命。日本への入国に必要な大金をなんとか支払い、北海道の旭川へ。日本では無国籍の「白系ロシア人」となる。

小学校へ入学し、虐められながらも成績優秀、運動神経も抜群で、徒競走では20m後ろからスタートさせられても一等になるほどだった。大正から昭和にかけて全国的にも少年野球は盛んであり、スタルヒンも学校のチームで活躍した。

旧制旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)に入学し、剛速球投手として鳴らした。ただ、全国中等学校優勝野球大会の北海道大会では2年連続(1933年、1934年)で決勝に進むも、味方のエラー等により惜敗しており、夏の甲子園にはあと一歩届かなかった。

旧制中学1年時に、父親が自ら経営していた喫茶店「バイカル」の従業員に対する殺人事件を起こし、懲役8年の有罪判決で服役中に獄死。「殺人者の息子」となってしまったスタルヒンではあったものの、既に旭川中学校の投手として有名だったスタルヒン本人には同情が集まった。しかしながらこの事件の為に経済的に追い込まれ、旧制中学の授業料や生活費すら、同級生らによるカンパに頼るほど生活に困窮するようになっており、日本国籍を取得できない遠因の一つになっていた。当初は、当時の日本野球の最高峰であり最も人気のあるチームの1つであった早稲田大学に進学することを希望していたものの、この事件の影響で、事実上大学進学はかなり難しい状況になっていた。

旧制中学3年生の1934年11月25日、当時日米野球のため来日していたアメリカ・大リーグ選抜チームと対戦する全日本チームに半ば強引に引き抜かれそうになる。前年の日米野球で17戦全敗を喫し、その年も開始から5連敗を喫していた全日本監督の市岡忠男にとって、先ず1勝を挙げるという至上命令のための「怪投手」引き抜きというアイデアであった。

プロ野球が誕生しておらず、野球人気は六大学のアマチュアが支えていた当時、文部省は「学生野球の選手をプロ球団と戦わせてはならない」と通達したため、全日本チームを母体として主催の読売新聞は職業野球団「大日本東京野球倶楽部」を結成。京都商業の沢村栄治を中退させたのと同様の手口でスタルヒンを退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗した。

旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、先述の経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされたという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退。後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京した。クラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったという。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達の叫びに聞こえた、と後年妻に語っている。

中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一は著書の中で断言している。

日米野球の17戦に初登板し、3番手として1イニングを無安打無失点に抑える。しかし試合はすでに趨勢が決まっていて、スタルヒンの制球の悪さに、米国チームが逃げ腰であった結果だった。

1934年11月29日、埼玉県営大宮公園野球場で開催された同第17戦の8回から敗戦処理で2イニングを投げ、これがプロ野球選手としてのデビューとなった。1935年2月からのアメリカ遠征に参加するが、無国籍だったためビザが下りずにアメリカに入国できず、フランク・オドールらが奔走してようやくアメリカ入国が可能となった。また、物心ついた時から日本で育った田舎者の少年であったスタルヒンは、水原茂と同部屋になった際、「先輩、アメリカって外国人ばかりですね」「外国人って全然、日本語喋らないんですね」と感想を漏らし、水原を呆れさせたという。

1936年、そのまま大日本東京野球倶楽部の後身である東京巨人軍に入団。7月3日の大東京戦に救援登板し、3イニングを無失点に押さえて巨人の公式戦初勝利に貢献した(現在のルールではセーブの対象)。

スタルヒンは試合では速球は良いものの、当初は制球が悪く、四球が多かった。そのため水原などベテラン勢や先輩たちは「トウシロウ!」「アホ」「どこ見て放ってんだ!」と代わる代わる怒鳴りつけた。繊細であったといわれるスタルヒンは傷ついたり落ち込んだりし、涙を流しながら「このままじゃ怖くて投げられません」と監督に訴え、目を腫らしながらマウンドに立ち続けたという。しかし当時、巨人の監督に就任した藤本定義によって励まされ、猛練習によって制球力を身につける。そして1937年より沢村栄治に代わって、エースに台頭した。

1937年7月3日にはノーヒットノーランを達成。1938年から1943年まで続く6連覇に大きく貢献した。1939年に日本記録となるシーズン42勝(戦後の一時期スコアブックの見直しにより40勝とされていた。後述)をあげ最多勝を獲得、MVPに輝いた。同年、プロ野球史上初の通算100勝を達成している。165試合目での到達は現在も破られていない史上最速記録である。191cmの長身から投げ下ろす豪速球を軸に、シュートとドロップで緩急をつけ、時にはシンカーで内野ゴロを稼ぐ投球を得意とした。たまに長い間合いからクイックで投げたり、サイドから投げたりもしていたという。

1939年には、日ソ間で大規模な軍事衝突(ノモンハン事件)が起こるなど、日本人のロシア人に対する感情が悪化したため、1940年に「須田 博(すた ひろし)」に改名を余儀なくさせられた。さらに、日本がイギリスやアメリカと対戦した太平洋戦争の戦況が激化した1944年には、日本はソビエト連邦と中立条約を結んでいる上に、スタルヒンは白系ロシア人であるにもかかわらず「敵性人種」として連行され、多くの交戦国や中立国の在留外交官等と同様に軽井沢へ軟禁された。だが、スタルヒンは無国籍者だったため徴兵されることはなかった。東京巨人軍は職業野球存続のために、スタルヒンを球界から追放した。

戦後の1946年、巨人軍の誘いを断って当時パシフィック監督の藤本定義と再会しパシフィックに復帰。同年10月に史上初の通算200勝を達成した。

1948年に藤本が金星スターズの監督に転身すると、スタルヒンもこれに従って金星に移籍した。1949年には27勝を挙げて9年ぶりに最多勝利のタイトルを獲得している。ただ戦前のような体のキレはなく、以前の速球派から変化球主体の老獪なピッチングに変わり、派手なゼスチャーの多いショーマンタイプの上手にかわすスタイルになっていったという。

1954年には高橋ユニオンズに移籍する。この時は慕っていた藤本と一緒ではなく、藤本に「高橋は契約金をくれる。もう長くはできないだろうからもらっておけ」と勧められたからだった。後に、このお金を元に、美容院と薬局を経営する。

1955年、慕っていた母親が亡くなった。同年9月4日の対大映戦(西京極)で史上初の通算300勝を達成したが、後になって1939年の記録を当初の公式記録通りに戻したため、同年7月30日に開かれた近鉄パールス戦(川崎球場)での勝利が300勝となる。試合後にインタビューに答え、「若林さん(忠志・元阪神・他)も42までやったし、僕もまだ続けたい」と意気込みを語っている音声が残っているが、同年に現役引退。引退後のスタルヒンはいつもどこか寂しげだったという。

1957年1月12日22時40分頃、都内で行われた中学校の同窓会に出席するため、自宅のある港区南青山から自動車を運転し、世田谷区三宿にある国道246号を走っていた。しかし、当時敷設されていた東急玉川線三宿駅付近で、前の車を追い越そうとして二子玉川園行き電車と衝突、即死した。

友人の証言によれば、スタルヒンは同窓会の会場と逆方向へ車を走らせている上、乗っていた同窓生を車から降ろし、電車で行くように指示しているなどしており、いささか不可解な死として伝わる。その直前には友人が経営するボウリング場の開場式典に出席、飲酒しており、泥酔状態ではなかったが飲酒運転だったという。スタルヒンの遺体は秋田県横手市雄物川町に位置する、妻の実家である崇念寺に葬られた。亡命から最期まで無国籍だった。

1960年、スタルヒンの功績を称え、その前年に創設された野球殿堂の史上最初の競技者表彰に選出された。旭川市民にとってスタルヒンは伝説的な英雄で、1984年に改修工事が完成した旭川市営球場には愛称「スタルヒン球場」が命名された。球場正面にはスタルヒンの銅像が建立されている。

1935年のアメリカ遠征で米国に入国拒否され、その味わった屈辱感故に日本国籍を申請するも、役所は「どう見ても日本人じゃない」と取り合わなかった(当時の日本では国籍取得の明確な決まりがなかった)。スタルヒンはペラペラの日本語を喋り、義理人情も重んじて「日本人より日本人らしい」といわれていたが、「外人」や「亡命者」というレッテルで仲間も決して一線を越えてくれないことに悩んでいたという。そのため白系ロシア人の集まる御茶ノ水の「ニコライ堂」に通い詰めて友達を探し、花嫁まで見つけた。

長女のナターシャ・スタルヒンは日本航空の客室乗務員を経て、日本初の日焼けサロンを創業。現在は栄養士として、各地での講演会や、健康をテーマにしたテレビ番組の出演等の活動をしている。2008年7月15日に旭川市で16年ぶりに行われた中日対巨人戦では父と同じ背番号17のユニフォームに身を包み、始球式を務めた。

女優の田中真理は親戚にあたる。

1939年の勝利数は42勝であるが、戦後パ・リーグ記録部長の山内以九士らが戦前のスコアブックの見直しを行った際に、明らかにスタルヒンに勝利が付かないケースとなる2試合分について記録の変更を行い、40勝とされた。戦前は勝利投手の認定に曖昧な部分があり、記録員の主観で判断されていた側面があったためである。

しかし、スタルヒン没後の1961年、稲尾和久がシーズン最多勝利でこのスタルヒンの記録を破る42勝を記録したことから、戦前のスコアの修正について再び議論が起き、最終的には1962年3月30日にコミッショナー裁定が出され「あとから見ておかしなものであっても、当時の公式記録員の判断は尊重されるべき」という理由でもとの42勝に戻された。その結果、稲尾の記録はスタルヒンと並ぶタイ記録となった。

なお、42勝のうち4勝は自らのサヨナラ安打によるものである。このシーズン4サヨナラ安打は1969年に東映フライヤーズの大杉勝男が更新するまで30年にわたってプロ野球記録だった。11月9日、巨人が優勝を決めた試合もスタルヒンのサヨナラヒットでの勝利だった。

1946年に元巨人監督であった藤本定義に誘われてパシフィックへ入団したスタルヒンであったが、これが戦後初の王座を左右することになってしまった。

当時の規定では、終戦前に所属していた球団と異なる球団に復帰したい場合は、終戦前に所属していた球団の承諾を得る必要があった。しかし、スタルヒンは巨人の承諾を得ずにパシフィックへ入団してしまったため、同じく終戦前の所属球団の許可を得ずにパシフィックへ入団した白石勝巳(前巨人)・藤井勇(前阪神)と共に、日本野球連盟の調査が終了するまで公式戦への出場停止を言い渡された。

それにもかかわらず、藤本監督が業を煮やして白石・藤井両選手を出場させたことで、パシフィックは巨人と阪神から提訴を受け、5月20日のセネタース戦・5月23日のグレートリング戦・5月24日の阪急戦・5月26日のグレートリング戦(4試合とも阪急西宮球場)を0-9での敗戦(没収試合)とさせられた。この結果、パシフィックの勝ち試合だった5月26日のグレートリング戦の勝敗がひっくり返り、グレートリングに1勝加算されることになった。この年のペナントレースは最終的にはグレートリングと巨人の争いとなり、グレートリングが1勝差で戦後初優勝を勝ち取った。巨人は提訴したがために最大の敵・グレートリングに1勝をプレゼントし、その1勝の差で優勝を逃すという皮肉な結果となった。

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