ラッシャー木村の出身高校

ラッシャー木村 スポーツ選手

ラッシャー木村卒業高校
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生年月日
1941年6月30日生まれ

ラッシャー木村(ラッシャーきむら、1941年6月30日 - 2010年5月24日)は日本の元プロレスラー、元大相撲力士である。本名は木村 政雄(きむら まさお)。北海道中川郡中川町出身。

後期のエースを務めた国際プロレスでは「金網デスマッチの鬼」の異名を持つブルファイターとして活躍し、全日本プロレスおよびプロレスリング・ノア在籍時はユーモアあふれるマイク・パフォーマンスで親しまれた。2003年よりプロレスリング・ノア終身名誉選手会長。

佐久中学校を経て北海道天塩高等学校に進学、ポール牧とは同級生であった。夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して大相撲の宮城野部屋に入門。1958年3月場所初土俵、四股名は木ノ村(きのむら)。幕下20枚目まで昇進したが「十両に上がったら辞められなくなる」という理由で1964年9月場所限りで、親方(元横綱・吉葉山)の慰留を振り切り脱走して廃業した。尚、入門のきっかけは相撲好きだった兄と宮城野部屋へ稽古の見物に行った際にちゃんこをご馳走になり、親方が「いい体をしている。うちの部屋に入らないか?」と誘われたからだという。この時のことを木村本人は、1996年10月11日放送のテレビ番組『世界超偉人伝説』へ出演した際、「ちゃんこをご馳走になった手前、断れなかったんですよ(笑)」と語っている。

大相撲廃業後、1964年10月に日本プロレスに入団し、翌1965年4月2日のリキ・スポーツパレスにおける高崎山猿吉戦でデビュー。豊登の付き人をしていた関係から1966年に東京プロレスの旗揚げに参加し、1967年の東京プロレス崩壊後は吉原功に口説かれて国際プロレスに移籍。1969年1月1日にリングネームをラッシャー木村に改名。同年4月20日、サンダー杉山と組んでスタン・スタージャック&タンク・モーガンを破り、TWWA世界タッグ王座を獲得、初戴冠を果たす。以降、ドリー・ディクソン&タンク・モーガン、ジャン・ウィルキンス&チーフ・ダニー・リトルベア、スタン・ザ・ムース&ニキタ・マルコビッチなどのチームと防衛戦を行った後、8月に王座を返上して渡米。

アメリカでは中西部のカンザスおよびミズーリを拠点とするNWAセントラル・ステーツ地区を主戦場に、後に日本で流血の抗争を展開することになるキラー・トーア・カマタとタッグを組み、ロニー・エチソン、モンゴリアン・ストンパー、アーニー・ラッド、KO・コックス、ボブ・ガイゲルなどと対戦。1970年2月21日には当時のNWA世界ヘビー級王者ドリー・ファンク・ジュニアにも挑戦した。覆面を被り、シャチ横内とジ・インベーダーズ(The Invaders)なるタッグチームを結成していたこともある。

1970年8月に凱旋帰国し、10月8日には大阪府立体育館にてドクター・デスを相手に、日本初の金網デスマッチを行う。第2戦となる12月12日のオックス・ベーカー戦で左足を複雑骨折する重傷を負うも、第3戦となる1971年3月2日のザ・クエッション戦はギプスを装着して強行出場した。以降もバスター・マシューズ、ダニー・リンチ、カーティス・イヤウケア、バロン・シクルナ、バディ・オースチン、ラーズ・アンダーソン、スカンドル・アクバ、リック・フレアー、オレイ・アンダーソン、ザ・ブルート、レネ・グレイ、セーラー・ホワイト、バロン・フォン・ラシク、レイ・スティーブンス、マッドドッグ・バション、キラー・トーア・カマタ、ブッチャー・ブラニガン、ジプシー・ジョーらに連勝。金網デスマッチでは不敗を誇り、「金網の鬼」の異名が定着した。1974年6月5日には米沢にて、ホワイトと日本初の金網チェーン・デスマッチを行っている。

タッグでは1971年9月、TWWA世界タッグ王座戴冠時のパートナーだったサンダー杉山と組み、グレート草津の海外遠征による返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座をレッド・バスチェン&ビル・ハワードと争う。9月7日の新王者チーム決定戦では敗退するも、9月23日に再び杉山と組み、新王者チームのバスチェン&ハワードを破ってIWA世界タッグ王座を初奪取。以降、1972年の木村のアメリカ遠征に伴う王座返上まで、ダニー・リンチ&バロン・フォン・ラシク、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ、ダン・ミラー&カーティス・イヤウケア、モンスター・ロシモフ&イワン・バイテンなどを相手に7回防衛した。

帰国後の1973年4月30日には、グレート草津を新パートナーにマッドドッグ・バション&イワン・コロフが保持するIWA世界タッグ王座に挑戦。この初戦では敗退したものの、5月14日の再戦で勝利し同王座を再び奪取。草津とのコンビでは、1975年4月にタイトルを返上するまで、テキサス・アウトローズ(ダスティ・ローデス&ディック・マードック)、ミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)、ハリウッド・ブロンズ(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)、ザ・キウイズ(ニック・カーター&スウィート・ウィリアムス)、スーパースター・ビリー・グラハム&バロン・フォン・ラシク、ワフー・マクダニエル&レッド・バスチェン、AWA世界タッグ王者チームのニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスなど、当時のアメリカでもトップクラスの強豪チームを相手に11回の防衛に成功した。このうち、1974年3月31日に釧路市厚生年金体育館で行われたジム・ブランゼル&ザ・ブルートとの防衛戦は、木村初の金網タッグ・デスマッチとなった。

1973年6月19日、茨城県笠間大会にて、当時の国際プロレスのエースだったストロング小林がダスティ・ローデスを下しIWA世界ヘビー級王座を防衛した直後、小林に挑戦状を突きつけ、同年7月9日の大阪府立体育会館で小林VS木村の同門対決となるIWA世界ヘビー級王座戦が実現、1954年12月22日の力道山VS木村政彦戦以来となる大物日本人選手同士のタイトルマッチとなった(小林が勝利し王座防衛)。同年10月には『IWAワールド・シリーズ』第5回大会の決勝戦でブラックジャック・マリガンを破り、シリーズ初優勝を果たしている。

1974年の小林離脱後は、一度はマイティ井上に先を越されるも、1975年4月19日にマッドドッグ・バションを金網デスマッチで破りIWA世界ヘビー級王座を獲得(これに伴い、IWA世界タッグ王座を返上)、以後、国際プロレスが消滅する1981年夏まで、6年間に渡ってエースとして活躍した。1975年6月6日にはアントニオ猪木に挑戦状を突きつけ、同年12月20日にはジャイアント馬場にも挑戦を表明。全日本プロレスとの交流戦では馬場やジャンボ鶴田と対戦、1976年3月28日の蔵前国技館における鶴田戦は、東京スポーツ新聞社のプロレス大賞において年間最高試合に選定されている。1977年3月には、4年ぶりに開催された『IWAワールド・シリーズ』第6回大会の決勝戦でマッドドッグ・バションに勝利、シリーズ連覇を果たした。1978年11月には、鶴田、草津、井上、アニマル浜口、キム・ドク、ミスター・サクラダ、ミスター・ヒト、ディーン・ホーらが参加した『日本リーグ争覇戦』において、決勝戦でプロフェッサー・タナカを破り優勝。1979年8月26日の『プロレス夢のオールスター戦』では、セミファイナルで因縁のストロング小林と対戦、リングアウト勝ちを収めた。

IWA世界ヘビー級王者としても、前王者のマッドドッグ・バションをはじめ、キラー・トーア・カマタ、ジプシー・ジョー、ワイルド・アンガス、アレックス・スミルノフ、モンゴリアン・ストンパー、キラー・ブルックス、リップ・タイラー、オックス・ベーカー、ジョー・ルダック、上田馬之助などのラフファイターを挑戦者に流血戦を繰り広げる一方、ビッグ・ジョン・クインやマイク・ジョージと正統派のパワーレスリングを展開した。1979年10月5日には後楽園ホールにてAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルとのIWAとAWAのダブル・タイトルマッチを行い、反則勝ちを収めている(反則勝ちのためAWA王座は移動せず)。同年は7月にアンドレ・ザ・ジャイアント、11月にバーン・ガニアとのIWA王座戦もそれぞれ行われた。1980年12月13日には新日本プロレスのリングで、7年前とは逆にストロング小林を挑戦者に迎えての防衛戦が実現、小林から初のフォール勝ちを収めた。

このほか、WWWF世界ヘビー級王座陥落後、久々に国際プロレスに参戦したスーパースター・ビリー・グラハムや、東京プロレス以来の対戦となるジョニー・パワーズ、得意技ブルドッギング・ヘッドロックの開発者であるカウボーイ・ボブ・エリス、後にNWAの主要テリトリーで活躍するロン・バス、他団体から移籍してきたキラー・カール・クラップやレイ・キャンディ、当時の米マット界における成長株だったランディ・タイラーやスティーブ・オルソノスキーらの挑戦も退けた。途中、上田馬之助、アレックス・スミルノフ、バーン・ガニアに王座を奪われるも、いずれも短期間で奪還。1976年から1979年にかけては、元王者ストロング小林の25回を上回る、26回の連続防衛に成功している。1981年8月6日、室蘭で行われたジ・エンフォーサー戦が最後の防衛戦であり、最後の金網デスマッチでもあった。

1981年10月、国際プロレスの解散に伴い残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。当初は新日本対国際の団体対抗戦が行われるはずだったが、新日本の手法に反感を持っていたマイティ井上らが全日本プロレスへの移籍を選択、最終的に新日本に登場した選手は木村、浜口、寺西の3人だけとなったものの、人気絶頂のアントニオ猪木に対する悪役ユニット「国際軍団」のリーダーとしてヒールを演じた。

1982年には久々にアメリカに遠征し、ミスター・トヨ(Mr. Toyo)のリングネームでロサンゼルス地区を短期間サーキット、国際プロレスの後輩であるミスター・ゴーこと剛竜馬をパートナーにNWAアメリカス・タッグ王座を獲得した。以降も浜口と寺西を従え、猪木1人を相手に3対1のハンディキャップ・マッチを2度に渡って行うなど話題を集めたが、IWGP構想の中で次第にメインストリームから外れていき、1983年下期からは浜口と寺西が長州力率いる維新軍に加わったため国際軍団は解散。その後はバッド・ニュース・アレンと共闘するなど、外国人サイドから単独での参戦を続けた。なお、1983年11月にはカナダ・カルガリーのスタンピード・レスリングに遠征、国際プロレス時代の怨敵ミスター・ヒトとのタッグやモンゴリアン・ストンパーとの久々の対戦も実現した。

1984年、新日本プロレスで勃発した内紛によって、新間寿に請われて前田日明らとUWFの旗揚げに創設メンバーとして参画。UWF草創期の重鎮的存在となったが、数か月で剛竜馬と共に離脱した。

UWF離脱直後に全日本プロレスへ移籍。1984年の世界最強タッグ決定リーグ戦でジャイアント馬場にタッグパートナーとして抜擢されたにもかかわらず、愛知県体育館での試合中に謀反した。これら一連の動きを木村は「(プロレス人生で)自分の意思で動いたのは、これが初めてだった」と述懐したが木村を「馬場の最良のパートナー」と評した専門誌もあった。

以後、国際プロレスの残党である剛竜馬と鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成。全日本軍と敵対するアングルが組まれ、試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが次第に注目を集めたが、ジャパンプロレス勢の参戦など日本人選手の過剰により剛、菅原、高杉は全日本プロレスを解雇され、以降は鶴見とのタッグで活動。ヒットマンのキャラクターで一匹狼となった阿修羅・原とも一時的に共闘した。

その後はフェイスターンし、馬場との「義兄弟コンビ」で1988年の世界最強タッグ決定リーグ戦に出場。体力の衰えからミッドカード戦線での活動を余儀なくされたものの、馬場のことを「アニキ!」と呼び、後に百田光雄を加えて「ファミリー軍団」を結成、悪役商会(永源遙、大熊元司、渕正信ら)を相手にユーモラスな前座試合を展開し、当時の全日本プロレスのコンセプト「明るく・楽しく・激しいプロレス」の「明るく・楽しく」を担った。だが、1989年11月29日、札幌中島体育センターで最強タッグリーグ戦として行われた馬場&木村vs天龍源一郎&スタン・ハンセン戦では、入場時の天龍の攻撃により馬場が昏倒したため、10分以上にわたって木村ひとりが天龍とハンセンの攻撃を流血しながらも真正面から受け続けるという、国際在籍時代や猪木との抗争時代を髣髴とさせる「激しい」試合を展開したこともある。

そのユニークなキャラクターが買われ、土曜深夜の『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS)にレギュラー審査員として出演、その際は一人だけピンマイクではなく手持ちのマイクで喋っていた。国際プロレス時代の寡黙なブルファイターのイメージとは180度異なるコミカルな存在となったが、彼のマイクパフォーマンスは桑野信義も『志村けんのだいじょうぶだぁ』で物まねをするなど、プロレス界の名物として定着した。

馬場の病没後、全日で再度顕在化した内紛を経てプロレスリング・ノアに立ち上げメンバーとして参加。

2001年に還暦を迎えて生涯現役を宣言。翌年には馬場を抜いて日本人最高齢のレスラーとなるが精彩を欠き(最晩年にはまったく攻撃をしないまま終わる試合も珍しくなかった)、2003年3月の日本武道館大会を最後に体調不良により長期欠場に入る。

2004年7月10日、体力の限界と「これ以上関係各者に迷惑をかけられない」との理由で東京ドーム大会にビデオレターを送って引退を表明し、以降、公の場から姿を消した。

同年12月にはノアの終身名誉選手会長への就任が発表され、その後は病状など一切公表されなかったが、毎年の「選手興行」のポスターには顔写真が掲載された。「プロレス格闘技DX」内のノア公式ウェブサイトにて、ファンからの「木村さんは今でもノア所属なのか」との質問には三沢光晴社長が「終身名誉選手会長であり、現在も所属である」と答えていた。実は還暦を迎えた際、全日移籍の前に年金未納期間があったことが判明し、未納分の払込が完了し受給資格を得られるまで引退後もノアの社員として雇用することにしたという。

2010年5月24日、腎不全による誤嚥性肺炎のため死去。68歳没。

関係者によると現役引退直後に脳梗塞で倒れ、車椅子生活であったという。木村が体調を崩して公の場から去った後、浜口や鶴見などかつての国際プロレスの仲間やプロレス評論家が見舞いを希望したが、木村本人は頑として誰にも会おうともしなかったことを浜口や門馬忠雄が語っている。

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