T-岡田の出身高校

T-岡田 プロ野球選手

T-岡田卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1988年2月9日生まれ

T-岡田(ティーおかだ、1988年2月9日 - )は、オリックス・バファローズに所属するプロ野球選手(外野手、内野手)。本名は岡田 貴弘(おかだ たかひろ)。

大阪府吹田市出身。箕面市立第四中学校卒業。中学時代はボーイズリーグの箕面スカイラークに所属。練習試合で若竹竜士から放った場外本塁打は飛距離140mともいわれている。3年になると、同学年の平田良介とともに進路が注目された。

高校は自宅から通えるという理由で履正社高等学校に進学。1年夏から4番を打ち、打線の中軸として活躍する。1年時の秋季大阪大会では、近大附高校の鶴直人からバックスクリーン弾を放った。2年夏の大阪大会では、2試合にまたがり5打席連続敬遠されるなど警戒されながら5試合で5本塁打を放った。その後、秋季近畿大会で8強入りしたが第77回選抜高等学校野球大会には選出されなかった。3年夏は平田良介、辻内崇伸、中田翔らを擁する大阪桐蔭高校と大阪大会準決勝で対戦し、中田翔から9回表にバックスクリーンへの3ラン本塁打を放ったものの敗れた。

甲子園出場こそなかったもの、高校通算55本塁打を記録し、55という数字やヘッドスピードが約150km/hに達するという豪快なスイング、恵まれた体格から、松井秀喜の愛称であるゴジラにちなんだ「浪速のゴジラ」とマスコミから呼ばれるようになった。また、前述の平田、辻内、鶴と併せて「浪速の四天王」とも呼ばれた。なお、この4人は全員1巡目指名で高卒プロ入りしている。

2005年の高校生ドラフト会議で、辻内崇伸の交渉権を抽選で逃したオリックス・バファローズから外れ1巡目指名を受け入団。背番号は、本人の要望もあって55番をそれまで着けていたユウキから譲り受けた(ユウキは22番に変更)。

2006年はシーズン後半に一軍昇格し、プロ初安打を記録。ウエスタン・リーグで外野手登録ながら主に一塁手としてリーグ戦全88試合中喜田剛と並ぶリーグ2位の82試合にほとんどスタメンで出場し、フレッシュオールスターゲームでは本塁打を放った。二軍でのシーズン成績は打率.245、5本塁打、チーム3位の27打点、共にリーグ2位の73安打と4三塁打を記録するなど高卒新人野手としては比較的優秀な成績を残したが、一方でリーグワーストの75三振、一塁手としては2位の倍を超えるリーグ最多の11失策を記録するなど粗さも目立った。

2007年は清水隆行を参考にした一本足打法から確実性アップのためすり足打法にフォーム改造した。オープン戦では本塁打を放つなど好成績を収めるも開幕は二軍スタート。シーズン序盤は極度の不振に陥り、一時はスタメンを外れることもあったが夏場以降復調し、北京プレオリンピック野球日本代表に招集され、主軸として日本の優勝に貢献した。帰国後も好調を維持し、シーズン終盤での一軍昇格も期待されたが二軍最終戦の試合後、練習中にボールを踏んでしまい左足首を故障、そのままシーズンを終えた。最終的には二軍で68試合に出場して8二塁打、3三塁打、4本塁打を記録し、打率も前年よりわずかに上がったが末永真史と並んで2年連続リーグワーストの69三振を記録した。守備面では外野手として1失策、一塁手としては無失策と成長が見られた。シーズン後のフェニックスリーグでは、故障が完治していない状態にもかかわらずチームトップ、リーグでも2位タイとなる4本塁打を記録。その後の秋季キャンプでもSKワイバーンズとの練習試合で本塁打を放つなど、シーズン終盤の好調をそのまま持ち込みアピールを続けた。

2008年1月にイチローと合同自主トレを行った際、それまで面識はなかったもののイチローはすぐに岡田が将来の4番候補であることを見抜き、ロベルト・ペタジーニのようであると評した。同年は二軍でチーム最多、リーグ2位の83試合に出場しリーグ最多の19二塁打(新井良太と同数)を記録し、同3位の32四球を選んだ一方で、3年連続となるリーグワーストの71三振を記録し、打率も.216にとどまった。守備でも一塁手としてリーグ最多の5失策、外野手としても36試合で森山周(外野手としての出場は5試合)に次いで低い守備率を記録してしまった。また、ボールの見えづらさからオフシーズンにレーシック手術を受け、視力回復をしている。

2009年は内野手登録となった。二軍で打率.295、21本塁打、59打点の成績で、ウエスタン・リーグ本塁打王と打点王の2冠に輝き、最高長打率も獲得。三振はワースト2位の71個、失策は一塁手ワーストの7個だった。またアレックス・カブレラの怪我により交流戦で一軍に抜擢され、3年ぶりに一軍出場を果たすも結果を残せず降格となった。しかし、2度目の昇格となる8月14日のソフトバンク戦でのプロ入り初本塁打を切っ掛けに最終的に7本塁打を放ち、以降最終戦まで一軍に帯同。打率こそ2割を大きく下回ったが、ヒットの3分の1が本塁打、チームトップクラスの飛距離と大器の片鱗を見せた。

同年シーズン終了後、新監督に就任した岡田彰布が、自身と同姓であり「ややこしい」との理由から、岡田の登録名変更を発案。10月18日より、球団公式サイト・携帯サイトでファンからアンケートをとり、約7000通の応募の中から「T-岡田」に決定し、11月29日のファン感謝デーにて発表された。登録名の「T」は下の名前「TAKAHIRO」の頭文字や、ティラノサウルスの学名の略表記「T.rex」に由来する。

2010年は、キャンプでは「労働基準法違反」と語るほど昼夜問わず徹底的に振り込み、オープン戦では打率.324を記録し、6番・一塁手として開幕スタメンに名を連ねる。春先は、3月31日の日本ハム戦で9回に逆転3ラン本塁打を放つもなかなか打率が伸びず、5月中旬に打撃コーチの正田耕三のアドバイスで右足をステップしないノーステップ打法に変更した。5月12日のヤクルト戦で左足首を負傷し、翌日に登録抹消。だが、自身が離脱して数日後にカブレラも負傷したのを受け、5月23日の巨人戦で復帰し、プロ入り初の4番スタメン出場。すると、この試合で先制適時打に3ラン本塁打の計4打点を叩き出した。前述のフォーム変更が奏功し、6月に入って打率も急上昇し、ホームランを量産し始める。6月2日の中日戦では、11回裏に金剛弘樹からプロ入り初のサヨナラ3ランを放ち、7点ビハインドを逆転する劇的な結末を締めた。交流戦で打率.313、6本塁打、26打点をあげ初の交流戦MVPを受賞。同年のオールスターゲームにも初出場を果たし、第2戦目には1990年の清原和博(22歳11か月)を抜くパ・リーグ最年少4番(22歳5か月)として先発出場した。7月には打率.333、9本塁打21打点で初の月間MVPを受賞。8月3日、8月5日の西武戦では1試合2本塁打を2度達成し28号に到達するも、そこから一転不振に陥り本塁打も15試合出ずにいたが、8月22日のロッテ戦に復調となる1試合2本塁打を放ち、シーズン前の目標としていた30本塁打を達成。9月8日のロッテ戦では、渡辺俊介から二塁打を放ち二塁に駆け込む際に肉離れを発症して全治6週間と診断されたが、8日後の9月16日の西武戦にて同点で迎えた8回裏に2死満塁の場面で代打で出場し、アレックス・グラマンからプロ初となる満塁本塁打を記録。チームでの代打満塁本塁打は2001年の藤井康雄以来9年ぶりの記録であった。最終的には33本塁打(この年パ・リーグで30本塁打以上放ったのはT-岡田のみ)を放ち、王貞治以来48年ぶりとなる22歳での本塁打王を獲得。また、本塁打王となった年で代打満塁本塁打を記録したのは1955年の中西太(西鉄)以来史上2人目の記録であった。打点でも、22歳で90打点以上を記録したのは2004年の中島裕之(西武)以来6年ぶりとなった。本塁打より、チームの勝利に貢献する打点に重きを置いている。

2011年は開幕4番を務めたが、この年は好不調差がやや激しく、後藤光尊・李承燁・フランシスコ・カラバイヨに4番を譲り、6番降格やスタメンから外れる試合もあった。ファン投票で2年連続のオールスターに出場し、第3戦目にオールスター初本塁打を放つなど3安打の猛打賞の活躍で敢闘賞を受賞したが、後半戦でも調子は安定せず、8月16日の対ソフトバンク戦で3度の好機でボール球に手を出して凡退した事が響き惜敗した事で、監督の岡田彰布の逆鱗に触れて二軍降格を味わった。最終的には134試合に出場してリーグ4位・チーム最多の85打点を記録したものの、本塁打数は前年の半分にも満たない16本塁打にとどまり、四番としては物足りない成績に終わった。シーズン最終戦後の岡田のインタビューにて成績が低調でありながら“お仕置きの4番”として最終戦に4番で起用していた事や「来年以降四番を打たすつもりはない」など痛烈批判を浴びた。

2012年は李大浩の加入もあり、開幕戦では6番で先発出場。オープン戦は不調に苦しんでいたものの、それまでの代名詞でもあったノーステップ打法をやめ、すり足打法にしたことで開幕から高打率を維持し、4月12日の対ロッテ戦では開幕11試合目にして12球団で最も遅いチーム第1号本塁打を放った。ところが、4月26日の対楽天戦で安打を放った際に左太腿裏の肉離れを発症し、登録抹消。万全でない状態ながらも交流戦から代打として合流するも、5月20日の対ヤクルト戦で代打で決勝点となる内野ゴロを放った際に、左太腿裏の肉離れを再発して再度登録抹消となり、本格的な戦線復帰は6月26日まで先送りとなった。復帰後も3割超の打率、8月には月間6本塁打を放つなど好調をキープしていたが、終盤は27打席連続無安打を記録する等やや成績を落とし、最終的に103試合の出場で規定打席に到達せず、10本塁打56打点に留まったが、打率は一昨年並の.280、得点圏打率は.381とまずまずの成績を残した。また、対右投手は.304の成績であったのに対し、対左投手は.237と左投手にやや苦戦した。オフの11月6日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表が発表され代表入りした。

2013年は更なる飛距離アップを求め従来のノーステップ打法から右足を上げる一本足打法に改造。開幕戦を7番で先発するも打率2割台前半と低調な成績が続き、5月3日には左太もも裏の故障で登録抹消される。6月28日に復帰するが、その後も復調すること無く、8月9日には成績不振による登録抹消となる。二軍調整中の8月にも右手中指の靭帯を負傷と度重なる故障に苦しんだ。シーズン終盤の10月に再昇格し、最終戦の10月13日の楽天戦ではホームランを放ったが最後まで不振に苦しみ、最終的に58試合出場、打率.222、4本塁打、18打点とレギュラー定着後以降では最低の成績に終わった。シーズンオフの契約更改では年俸25%の大幅ダウンとなる1800万円減の5500万円でサインした。

2014年は復活を期すシーズンとして、104キロあった体重を98キロに減量して臨んだが、開幕直前に腰痛を発症し開幕一軍を逃す。その後、開幕から2週間出遅れて4月12日に初出場すると以降は主に5番ファーストで定着する。昨年の不振と変わって打率は2割台後半をキープ、本塁打も順調に積み重ね、9月14日の日本ハム戦には4年ぶりとなる20本塁打を放った。10月12日のクライマックスシリーズファーストステージ第2戦では8回裏に逆転の3ランホームランを放ち、チームにポストシーズン初勝利をもたらした。

2015年3月24日に、モデルのますあやと結婚した事が報じられた。

打撃では最速156km/hを記録するスイングスピードと広角に豪快な打球を放つ技術を誇る。2010年5月ごろから一時期、ノーステップ打法を取り入れていた。これは目線や重心のブレを減らして確実性を上げる一方で、前足を踏み込む普通のフォームよりも体重移動の力を減少させてしまうため打球の飛距離は低下しやすい。しかし日本人選手としては体格に恵まれていることもあり、彼の場合は本塁打を放つのに十分な飛距離を出すことができる。本人いわく「体重を右足(前足)に乗せてボールに力を伝えるイメージ」を意識しているという。しかし2012年からは統一球への対策として長打力の落ちやすいノーステップ打法はやめており、標準的な「すり足打法」に変更している。

走塁面では体重100kgを越えていながらも積極的なランニングを見せ、左打者ということもあり一塁到達4.11秒を記録する。守備面は前述のように一塁守備で失策の多さが目立つものの、左翼守備では捕球から送球までの時間は水準以上を誇り、滑りこみながらの捕球を得意としている。2010年にはRFで守備イニング500以上の左翼手でトップの1.97を記録し、得点換算でも高い数値を残した。

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