美輪明宏の出身高校

美輪明宏 タレント

美輪明宏卒業高校
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タレントランキング
1115位 / 2233人中 タレント別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1935年5月15日生まれ

美輪 明宏(みわ あきひろ、1935年5月15日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。本名:丸山 明宏、幼名 臣吾(しんご)。海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。愛称はマルさん、美輪さん。自らの個人事務所である、オフィスミワに所属して活動を行っている。

1971年までは本名の丸山 明宏名義で活動していた。兄と姉と弟のいる五人兄弟の次男。

美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼ばれた遊郭街で、『世界』という名前のカフェを経営していた。1941年12月、イギリスやアメリカとの戦争体制に入った中で、美輪の父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、カフェを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業。10歳だった美輪は長崎への原爆投下時、長崎市本石灰町(爆心地から約4キロ)の自宅におり無事だったが、その後、近くの防空壕で待機した後に、6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする。

1945年8月9日、雲一つない快晴の日、10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の万寿姫の絵を描いていた。できあがりを確かめるため、2、3歩後ろに下がった時、原爆がさく裂した。何千ものマグネシウムを焚いたような白い光だった。美輪は雷光かと思い、天気の良い日なのにと不思議に思う。が、直後には世界が息を止めたような静寂に包まれる。その直後に激しい爆発音が聞こえ、家がぐらぐら揺れて傾いた。お手伝いに促され2人で布団をかぶると空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こし3人で防空壕に向かうが、景色が一変していることを知る。隣接する劇場は天井が崩れ落ち、勤労奉仕の女子挺身隊の宿舎は形を残していなかった。

原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返金を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。その前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。

終戦後、自身が鑑賞した映画に出演していた加賀美一郎のボーイソプラノに衝撃を受け、程無くして、声楽とピアノのレッスンを受け始める。海星中学では、同期に西岡武夫がいた。エンリコ・カルーソーやベニャミーノ・ジーリの様なオペラ歌手、コンサート歌手を夢見て、1951年の春に国立音楽高等学校(現・国立音楽大学付属高等学校)進学の為、15歳で上京する。

上京し、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学付属高等学校)へ進学。家業の倒産をきっかけに高等学校を中退、翌1952年、当時17歳の美輪は、新宿駅で寝泊りしていたが、銀座のシャンソン喫茶『銀巴里』の美少年募集の張り紙をきっかけに、銀巴里との専属契約を交わし、歌手デビュー。国籍・年齢・性別不詳として売り出す。

次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼等、文化人の支持を得る。

1957年、 フランスのシャンソン『メケ・メケ』を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。元禄時代の小姓衣装を洋装に取り入れ、レース地のワイシャツ等を身に纏いユニセックスファッションと、三島由紀夫が「天上界の美」と絶賛した美貌で、マスコミから「神武以来の美少年」、「シスターボーイ」と評され一世を風靡する(自伝『紫の履歴書』)。同じ、1957年製作の映画『暖流』(増村保造監督。大映)に歌手として出演しており、カラー映像で、当時の美輪の流麗な風貌を見る事ができる。[独自研究?]

「メケメケ」以来のブームは、1年程で沈静化。その間に、週刊誌にて、自身が同性愛者である事を公表したことや、旧来のシャンソンのイメージ(美輪曰く「蝶よ花よ、星よ月よに終始する“おシャンソン”」)に無い、自ら和訳した生々しい内容のシャンソンを歌唱した事に対する反発もあり、人気は急落する。そんな逆風の中、作詞作曲活動を開始。今もって美輪の主要なレパートリーとなっている「うす紫」、「金色の星」、「ふるさとの空の下」などの作品は、この頃、既に作詞作曲していた。しかし、その活動は当時の聴衆からも歌謡界からも理解を得られず、レコード化すらできなかった。美輪曰く「人様の情けに生かされた」不遇の時代が続くと共に、吐血など原爆症に悩まされ始める。

しかし、1963年には、中村八大らの助力により日本初となる全作品、自らの作品によるリサイタルを開催。翌、1964年には、「ヨイトマケの唄」を初めて、ステージで披露する。1966年、前年の内にレコード化された「ヨイトマケの唄」(「ふるさとの空の下で」とのカップリング)が注目され人気が再燃。

1967年に、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪の為に、書き綴った『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演。

1968年、自伝『紫の履歴書』を発表。(初版は大光社より)

江戸川乱歩原作、三島由紀夫脚本の舞台『黒蜥蜴』以降も『椿姫』、『マタ・ハリ』、ジャン・コクトー原作『双頭の鷲』といった舞台や『黒薔薇の館』、『雪之丞変化』等の映画・テレビドラマでの主演を続ける。また、1970年からは、TBSラジオ「ラジオ身の上相談」を担当し、芸能人が担当する人生相談としては、異例の25年という長期に渡り続いた。

1971年、読経中に『美輪』の字が浮かび、神様が与えて下さった名前だと思い、姓名判断を調べると、完全無欠な画数だった為、丸山明宏から美輪明宏に改名。「女優引退宣言」(女性役を演じなくなるので、当時こう表現された)を行い、歌手活動に専念する。銀巴里や渋谷ジァン・ジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』(1975年)等のアルバムも多数発表した。また、男性役では、映画(1977年 井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。

1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、この頃より、慢性気管支炎になり、年々悪化。俳優、歌手活動に支障を来たし始め、トークショー等のテレビ出演を控える様になる。しかし、その後も演劇では、1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』を初演したり、1980年のTVアニメ「メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行」では夜の女王役を演じている。

1983年には、舞台『毛皮のマリー』や『青森県のせむし男』を再演。更に1984年には、『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で、1985年の『大典礼』(原作・演出 フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで再び舞台から降りる事となった。

尚、歌手としては、1984年にパリで、1987年には、パリ、マドリード、シュトゥットガルトでリサイタルを開催し、『ル・モンド』、『リベラシオン』を始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また、1986年からは、現在も続くPARCO劇場でのロングリサイタルが開始され、それ以外にも、全国各地でのリサイタル公演を開催し、舞台に立てなくなった後も切れ目なく活動を続けた。

1990年、東京芸術劇場のこけら落し公演『マリー・ローランサン』を演出。この時、既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、体調面から断念している。また、この年、40年近く唄い続けて来た銀座のシャンソン喫茶店・銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した『いとしの銀巴里』を涙ながらに歌い上げた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌1991年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、美輪が曰く、この頃から、「メケメケ、ヨイトマケ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増えた。

1993年、1985年の『大典礼』以来、舞台に立てない程に悪化していた持病が、前年に奇跡的に完治した事で、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演[7]。前売りのチケットは発売日当日に完売する等、世間から脚光を浴びた。また、この再演時には、自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当。以降、上演される舞台は、1994年、1996年の『毛皮のマリー』以外、全て美輪自身の演出となった。自身が、大道具、小道具、美術・衣装・選曲を務める事が多く、脚本・振り付けを担当した作品(美輪明宏版「椿姫」)や原作まで担当した作品(「愛の讃歌」)もある。

1994年には、海外から演出、照明、音楽等、当代一流のスタッフを招き、舞台『毛皮のマリー』を再演。この形式は、1996年の再演時にも継承されるが、美輪曰く「演出があんまりひどい時は、私が手直しした」との事で、結局、2001年の再演では、自ら演出する事となる。キャストも美少女を含め、全員男性で演じる本来の形式に戻された。

1996年、三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より、葵上・卒塔婆小町』を上演。三島を歓喜させた当初のプラン通り、葵上では、舞台デザインにサルバドール・ダリと尾形光琳を取り入れ、音楽は、武満徹の『ノヴェンバー・ステップス』を取り入れ、99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。

1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞。宮崎駿監督アニメーション映画『もののけ姫』では、山犬神、モロの君の役で声優を務め、東京スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞する。「黙れ小僧!」は特に印象的な台詞として多くの人に記憶された。

1998年には、『葵上・卒塔婆小町』を再演、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに再演する。この年2本の芝居を上演したのを最後に、翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した1993年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演がない年(1996、1997年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは1998年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になる。以来、美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着し、現在に至っている。

2000年、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていた渋谷ジァン・ジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。そして、エディット・ピアフの生涯を描いた舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を上演。また、この年、アルバム『白呪』が再発売される。桑田佳祐がフジテレビ系『桑田佳祐の音楽寅さん』内で『ヨイトマケの唄』を歌ったのもこの年である[8]。

2002年に芸能生活50周年を迎える。この年には、三島由紀夫の三十三回忌に際して、『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演している。(相手役は宅麻伸)

2004年にジブリアニメ映画のハウルの動く城で「荒れ地の魔女」の声を演じる。

2005年には、テレビ番組『オーラの泉』が始まり、「愛の伝道師」として出演している。

2006年、美輪明宏原作、演出、美術、衣装、主演、舞台『エディットピアフ物語愛の讃歌』を再演。

2007年、美輪明宏携帯サイト「美輪明宏 麗人だより」を開設。

2009年、劇場版ポケットモンスター ダイヤモンド&パール アルセウス 超克の時空へ(劇場版ポケモン第12弾)でアルセウスを演じる。

2010年、三島由紀夫原作の舞台『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』を再演。(相手役は木村彰吾、岩田知幸)

2012年、 『第63回NHK紅白歌合戦』に出場し、「ヨイトマケの唄」を歌った。77歳での『NHK紅白歌合戦』初出場は史上最年長で、デビュー60年での初出場も史上最長記録である。歴代出場者全体の年齢から見ても、第40回(1989年)に満78歳で出場した藤山一郎に次ぐ歴代2位[9]。

2013年1月24日発売の「週刊文春」で、約8年前に自身の個人事務所「オフィス・ミワ」社長と養子縁組している事が報じられた[10]。美輪の17歳年下で、ちょうど文学座の研究生だった17歳の頃、ちょうど美輪の付き人が辞めることとなり、知人の紹介で付き人となって以来、身の回りの世話をするようになった。その後は『青年座』や『青俳』などに在籍、NHK大河ドラマ『黄金の日日』にも出演経験があり、声優としても活動していた(芸名:藤堂貴也)。「オフィス・ミワ」前社長が高齢の為退任した後、社長に就任し、名実ともに美輪を支えてきた。『第64回NHK紅白歌合戦』に出場、藤山の持つ最年長出場に並んだ。

同じく2013年、フランス人の映画監督による美輪明宏のドキュメンタリー映画が作られ、DVDにもなった。ナレーションはフランスの産業大臣の夫人が担当した。

2014年4月から、美輪明宏主演の舞台『愛の賛歌〜エディット・ピアフ物語』がリバイバルで全国公演される。前回の公演ではこの舞台を見た瀬戸内寂聴が感激して楽屋を訪れ、「私は今まで映画や舞台をたくさん見てきたが、この芝居が一番感動した」と言って号泣したという。同じく、この舞台を見た東山紀之も感激して美輪の楽屋を訪れ、「僕、今まで自分がこんなに泣けるとは思わなかったですよ」と言い号泣したという。同年『第65回NHK紅白歌合戦』に出場し、史上最年長出場記録を打ち立てた[11]。

2015年、『第66回NHK紅白歌合戦』に出場、自身の持つ史上最年長を更新すると同時に史上初の80代での出場となる。

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