箱田淳の出身高校

箱田淳 プロ野球選手

箱田淳卒業高校
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性別
男性

箱田 淳(はこだ じゅん、本名:箱田 弘志(はこだ ひろし)、1932年2月1日 - )は、広島県福山市出身の元プロ野球選手(内野手、投手)・野球解説者。

盈進商業(現・盈進高校)から速球投手として鳴らし、1951年に球団創立2年目の国鉄スワローズに入団。

3年間は投手として61試合に登板し、4勝10敗。選手不足から毎年内野手としても数試合出場した。1953年は投手として30試合に登板した以外に、内野手と代打でも36試合に出場し、打率.272(92打数25安打)。

4年目の1954年から自ら監督に申し出て打者に専念。小柄ながらリストの強い鋭いスイングと垢抜けたプレーで、二塁手または三塁手として主力打者となった。この1954年は打率.323 と打ちまくり、スワローズ球団創設初の打率3割(打撃ベストテン4位)。また、宇野光雄と共に、これも球団初のベストナインに選ばれた。1955年に登録名を箱田 淳に改名。

三塁打が多い俊足選手で、1956年リーグ最多三塁打(13本)。1958年にリーグ最多単打(114本)を記録。1956年 - 1958年に3年連続でオールスターゲーム出場。脆弱な国鉄打線の中ではあったが4番を打つ事もあり、また好守好打で野手のリーダー格となり球団創成期のスワローズを支えた。

1950年代のスワローズの投手部門のチーム1位は全部門で金田正一だったが、打撃部門(打率、本塁打、打点)のチームトップは、この箱田か佐藤孝夫か町田行彦か飯田徳治だった。1957年は打率.259ながら打撃ベストテン10位。7年間ほぼ全試合に出場した。しかし、1960年にチーム最下位の責任をとり宇野が監督を辞任。いわゆる“反・金田”だった宇野が辞任したため、宇野派だった箱田もA級10年選手制度の権利を行使し、翌1961年に大洋ホエールズに移籍した。巨人が獲得に動いたため、巨人に行かせないために大洋が獲ったといわれる。4年間大洋に在籍したが、若い近藤昭仁とのポジション争いに敗れ1964年に現役引退。

引退後は野球解説者となった。2002年に「スワローズOB会」を発足させ、高齢ながらスワローズOB会(つばめスポーツ振興協会)を通じて少年野球の指導を行っている。

安部譲二と仲がよく、安部の著書『プロ野球死んでもらいます』に箱田とのエピソードが書かれている。ハンサムで人気選手であったが、箱田自身がトヨタ自販の副社長の娘に猛アタックし結婚した。しかし、この岳父と折り合いが悪く離婚となり、大洋を辞める時には全財産を無くした。そのとき阪急から、当時の給料15万円で来ないかと誘われたが、関西に移ってまで野球をしたくない、また精神的にも疲れたとユニフォームを脱いだ。ちょうどその頃、安部が箱田と居た時、日刊スポーツから電話があって、金田の3種類のカーブをどうやって打つか、「金田の3種類のカーブ、こうして打て」という題で連載してくれという依頼があった。安部は「言え、言え、おれが書いてやるから」と散々説得したが箱田は固辞。日刊スポーツは「あの金田のカーブを、どうやって打つかを語れるのは、プロ野球で箱田淳しかいない」と粘り、提示された金額も100万円と、1965年頃のその金額は大変な額で、金のない当時の箱田としては喉から手が出る程欲しかったと思うが、「金に釣られて書いたら男がすたる」と結局断ったとされる。なお、箱田によると金田のカーブは3種類ではなく5種類あったとされる。 ゴルフが非常に上手である。

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