笹井芳樹の出身高校

笹井芳樹 学者

笹井芳樹卒業高校
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333位 / 1027人中 学者別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1962年(昭和37年)3月5日生まれ

笹井 芳樹(ささい よしき、1962年(昭和37年)3月5日 - 2014年(平成26年)8月5日)は、日本の発生学者、医学者。京都大学博士(医学))。京都大学再生医科学研究所教授、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)グループディレクター、同 副センター長を歴任した。

神経系の初期発生過程における遺伝子・細胞レベルの研究者として知られ、世界で初めてES細胞による網膜の分化誘導や立体的な網膜の生成に成功。更にES細胞から視床下部前駆細胞の分化誘導、脳下垂体の立体的な形成にも成功し、井上学術賞、山崎貞一賞、武田医学賞、上原賞等を受賞している。

論文執筆の天才とも呼ばれ、センター全体の資金調達や神戸医療産業都市関連の事業でも活躍。文部科学省や科学技術振興機構の再生医療プロジェクトや委員会でも手腕を見せた。2014年に発表・撤回されたSTAP論文により様々な責任が追及される中、2014年8月5日に縊死(首吊りによる自殺)。その死は国内外に衝撃を与えた。

1962年兵庫県に生まれ、愛知県立旭丘高等学校を卒業した。親族の多くは医学方面に進んでおり、1980年には笹井も京都大学医学部へ進学した。大学では理学部教授であった岡田節人の講義を聞き、発生学にも興味を持った。

1982年から1986年にかけて、京都大学医化学第一講座で実験や研究の基礎を学ぶ。医化学第一講座と第二講座の交流の良さを指摘し、生化学や分子生物学の第一線を感じ取れたこと、「基礎医学の研究は自分の個性をそれぞれ生かしてやってゆくことができるんだ」と思っていたことを述懐している。早石修の最終講義では、笹井が在校生代表として謝辞を述べた。

1986年3月に京都大学医学部を卒業し、「一度医療を通して人間・生命の本質を感じる中で研究を選びたい」ということから同年6月より2年間の研修を受ける。「これからの医学に必要なことを肌で感じたい」という気持ちがあり、研修先は大学病院ではなく神戸市立中央市民病院を選ぶ。研修中には、運動機能に障害を持つ筋萎縮性側索硬化症や脊髄小脳変性症などの患者も担当している。

笹井は研修を通して神経の難病に治療法や特効薬がないことを認識し、脳や神経系に興味を持つ。臨床医としての研究に限界を感じたこともあり、基礎研究を志して1988年に京都大学大学院医学研究科へ入学。中西重忠の元で研究に取り組み、複雑でありながら極めて精密に構築されている脳の不思議に魅了される。1993年に、京都大学博士(医学)を取得する。

1993年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医学部客員研究員の機会を得る。渡米時にはパスポートを盗難される苦難に遭遇するが、無事に再発行を受けることができ、エドワード・デロバティスの元で1996年まで研究を行う。笹井はハンス・シュペーマンが発見した形成体(オーガナイザー、シュペーマン形成体とも言う)から分泌される「神経誘導因子」の分子実体とその作用機構の研究に取り組む。

笹井はわずか一月程でコーディン遺伝子を作るクローンを発見し、更にこのコーディンがシュペーマン形成体から分泌される発生シグナル物質であること、神経以外の他の細胞へ分化するのを抑制するシグナルを出すことを発見した。シュペーマン形成体は1924年に発見されて以降、その作用の仕組みが明らかになっていなかったが、笹井によって解決された。このコーディンの発見は、神経発生学の入門書でも取り上げられている。

ショウジョウバエやマウスにおいて、形を決定する遺伝子の働きに類似したものが見られる。笹井とデロバティスはこの類似が進化的保存であると考え、昆虫と脊椎動物で共通の祖先を持つとする「ウルバイラテリア仮説」を1996年に提唱、この分野に大きな影響を与えた。帰国後の1996年には京都大学医学部助教授(生体情報科学講座)に就任し、神経分化を決定するスイッチ因子のカスケードの研究に従事。1998年には京都大学再生医科学研究所教授に36歳の若さで就任、ES細胞から選択的に神経細胞を分化させる系を確立した。

また、理化学研究所時代にはアフリカツメガエルの初期胚を使って指令因子と相似形について研究を実施。2013年には、シズルドの濃度でコーディンが阻害され、コーディンの濃度勾配が調整されること、胚の大きさとシズルドの濃度が比例することによって相似形(生物の大きさが変わっても形状が同じこと)が維持されることを発表している。

1998年頃から、自己組織化研究を本格化させ、10年程かけて自己組織化の実験系の確立に取り組む。なお、この間、2000年理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター(CDB:Center for Developmental Biology)において、グループディレクターを兼任し、2003年には専任となった。この過程で、2005年には高橋政代とES細胞による網膜の分化誘導に成功し、2006年にはES細胞から視床下部前駆細胞を分化誘導させることに成功。マウスES細胞から外胚葉へ分化誘導する遺伝子XFDL156を発見し、2008年のセル誌に発表した。

また、2007年にはES細胞の大量培養法の開発や、神経系細胞の効率的な作成を発表。ES細胞の培養方法においてバラバラにしたヒトES細胞の死が問題になるが、笹井のチームはRhoキナーゼ(ROCK)というリン酸化酵素の活性化が原因であることを発見。Rhoキナーゼ阻害剤(ROCK-Inhibitor)を培養液に添加することにより、ES細胞を大量培養することに成功している(従来1%の生存確率が27%に向上)。

さらに2011年4月7日付の英科学誌『ネイチャー』にマウスのES細胞から網膜全体を作ることに成功したことを発表。ES細胞から網膜を立体的に作ったのは世界初の試みであり、「この分野を一変させた」と高く評価されている。また、2012年には様々なホルモンを分泌する脳下垂体についても、立体的な形成に成功する。これら一連の研究により、2009年から2012年にかけて文部科学大臣表彰、大阪科学賞、井上学術賞、塚原仲晃記念賞、山崎貞一賞、武田医学賞、などを立て続けに受賞した。

2012年のインタビューでは、今後10年は生物の形や大きさを決める原理について研究していきたいと述べるとともに、再生医療や創薬への応用を目指す人達に対する技術移転やサポートについても抱負を語っていた。また、2013年のインタビューでは、ゲノム編集技術による将来展望や、細胞の分化誘導から組織を創り出すことを考える時代へ入っているとの認識を語っていた。

笹井は文部科学省再生医療の実現化プロジェクトにおいて、「ヒト多能性幹細胞の分化誘導・移植の技術開発と技術支援のための総合拠点」の代表者を務めると共に、科学技術振興機構(JST)の戦略的創造研究推進事業 再生医療実現拠点ネットワークプログラムにおいても「疾患特異的iPS細胞を活用した難病研究」「疾患・組織別実用化研究拠点」といった大型プロジェクトの代表を務めており、高橋政代によるiPS臨床研究にも貢献していた。

笹井は理研CDB設立当初からのメンバーであり、「若手が実力を発揮できる研究所を作りたかった」「日本の大学では嫉妬されたり雑用が多かったり、若い研究者が自分の研究室を持ちにくい。CDBは、若手が思いっきり活躍できる研究所にしたい」と語り、CDBの予算獲得や新施設「融合連携イノベーション推進棟」の実現にも尽力した。笹井の貢献に対し、CDBセンター長の竹市雅俊は「笹井さんなしでは今のセンターはなかった」と述べており、ポートアイランドの関連企業からも「神戸全体の発展や産学連携を見据えるまれな存在だった」と評価されていた。

文部科学省の科学技術・学術審議会「ライフサイエンス委員会」でも委員を務め、iPS細胞偏重の政策を疑問視する発言も行っていた。マネージャー業務に加えて、学会の打ち上げでチェロを演奏したり、CDBで開催される国際会議ではバーテンダー役を務めたりする等、マルチタレント振りを発揮していた。2013年3月には副センター長に就任。後進の育成にも熱心で、次期センター長との呼び声もあった。

2012年12月に小保方晴子のCDB研究ユニットリーダー採用面接に立ち会い、竹市雅俊センター長からSTAP論文(STAP、STAP細胞、STAP幹細胞、FI幹細胞)の指導を依頼される。その後も指導を続けるうちに共著者や共同発明者に加わっていき、副センター長となってからも同研究をバックアップした。2014年1月には文部科学省や内閣官房に対しSTAP研究予算の陳情を行っており[49][50]、10年で50億円の予算を文科省に認めさせていたとも言われている[51]。

2014年1月28日のSTAP研究発表の記者会見には笹井も同席し、ネイチャーに載った25年間の論文の中で最もインパクトがある、その成果を強調していたが、この論文に疑義が生じ始める。当初は論文の結論に影響がないと見られており、笹井も2月下旬の懇親会では目を輝かせながらCDBの同僚にSTAP研究への参加を呼び掛けていた[49][52]。しかし続出する致命的な疑義を受け、3月10日には共同著者の若山照彦が論文撤回を呼び掛ることになり[53]、事態は混迷を深めていく(詳細は「刺激惹起性多能性獲得細胞」を参照)。

3月11日には「なぜ、こんな負の連鎖になるのか、悲しくなってくる」と新聞記者に吐露し[54][55]、竹市雅俊センター長には副センター長の職を辞したい旨を伝えていたが、調査中のため辞職は認められなかった[56][57][58]。精神的ストレスのため心療内科を受診し、持病の「急性増悪の併発」も重なり[59]、同月から1ヶ月ほど休職(傷病休職)して入院していた。退院後の4月16日には記者会見を開き、謝罪を行った[60]。会見前には「できるだけ率直にお話ししたいが、理研の立場の範囲だと思う」と述べ[61]、会見には普段あまり付けない理研のバッジを胸にして臨んだ[62]。

会見では「STAPは最も合理性のある仮説」として科学的説明を行い、ハーバードとの関係や研究の変遷について事実関係を明らかにしたが、責任逃れと批判されることにもなった[63]。笹井の管理責任は厳しく指摘され、6月12日には理研改革委員会から「笹井氏の責任は重大」と指摘され、幹部退任を提言されるなど笹井への批判は強まっていた[64][65][66][67]。研究予算の使途など疑惑は深まり、6月30日には科学的な疑義を対象とする新たな調査が始まることになる[68]。

このような状況のなか、笹井は6月頃には研究室の研究員に「研究室を閉めるから行き先を探すように」と語っていた[69]、体調が悪化しながらも[70]、研究員の就職先探しや論文指導に熱心に取り組むとともに、各種プロジェクトの代表交代準備も進めていた[69]。また、7月2日のネイチャー論文撤回にあたり、笹井は「不正を防ぐ指導を徹底しきれなかった」「整合性を疑念なく語ることは困難」とのコメントを出し、その主張を後退させていた。

同年7月25日には研究の議論も成立しない状態に陥り、研究員から報告を受けたセンター長の竹市雅俊は健康管理室に相談、笹井を医師に受診させることを勧められていた[58]。丹羽仁史や小保方晴子の検証実験が注目される中、7月27日にはSTAP事件の特集がテレビ放映され、笹井についても大きく取り上げられ、8月4日の理研の声明でも新たな調査結果に伴って、共著者の処分が大きく変わることが言及されていた[73]。

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