福士加代子の出身高校

福士加代子 スポーツ選手

福士加代子卒業高校
五所川原工業高校 偏差値 青森県高校偏差値ランキング
スポーツ選手ランキング
1789位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
性別
女性
生年月日
1982年3月25日生まれ

福士 加代子(ふくし かよこ、1982年3月25日 - )は、日本の女子陸上競技(主に長距離走・マラソン)の選手。2010年5月末の時点で、3000mと5000mの日本記録、ハーフマラソンおよび10km、15kmのアジア記録を有する。

オリンピックには2004年アテネ大会・2008年北京大会・2012年ロンドン大会と、過去3大会連続で長距離種目で日本代表に選出されている。また2006年・ドーハアジア競技大会女子10000mでは金メダル、さらに2013年・世界陸上モスクワ大会・女子マラソンでは、銅メダルを獲得した。

青森県北津軽郡板柳町出身(大相撲元小結の高見盛精彦降分親方が同郷の先輩でもある)。青森県立五所川原工業高等学校機械科を卒業後、2000年にワコールに入社。

高校時代まではこれといった実績も無く、インターハイや国体でも決勝に辛うじて残る位であった。当時は駅伝の古豪だったワコールに入社してからは、トラックレースや駅伝などでメキメキと頭角を現し始める。

2月の横浜国際女子駅伝で日本ナショナルチームに選出され、2区を10㎞30分で激走して区間新記録をマークする。その年は大会の20回記念大会だったため「記念の節目にみんなで優勝しよう」を合言葉に10区を激走した渋井陽子(三井住友海上所属)と共にチームに貢献し見事に優勝を果たす。

6月の日本選手権で、女子の5000mと10000mで共に初優勝を果たし、2種目制覇を成し遂げ、釜山アジア大会の代表に選ばれた。

10月に行われた釜山アジア大会では、女子5000mと10000mともに銀メダル(両種目とも金メダルは孫英傑)。しかし10,000mでは自己ベストを一気に50秒も縮める30分51秒81の記録でゴール、日本女子2人目となる31分突破(日本人初の31分突破は渋井陽子で30分48秒99)となる。また5000mでは自身が7月20日に出した日本記録を0秒02更新する、14分55秒19をマークした。

12月に行われた、全日本実業団対抗女子駅伝大会では3区10kmの区間で快走、沿道の観客に対して福士は時折笑顔を見せながら走っていた。しかし、次の中継所に間もなく到着する終盤で、すぐ後ろを走っていた羽鳥智子(元第一生命)と足が絡まって転倒し、左膝を強打する。その後足をひきずりながら走り続け、それでも区間賞を獲得したものの、膝の靱帯を切る大けがを負ってしまった。

2月、福士の故郷で行われた青森冬季アジア大会で、膝のけがをおして最終聖火ランナーを務める。約半年近くはけがの治療に専念していたが、6月の日本選手権女子10000mでは、終盤スパートして独走、復活の優勝を果たした。その後、世界陸上選手権の長距離走代表として初出場を決める。

8月、世界陸上パリ大会では、5000mと10000mに出場したが、5000mは予選敗退、10000mは11位に終わった。

1月11日に京都市で行われた第22回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、ふるさとの青森県代表として最終の9区10kmを走り、30分52秒の区間最高記録をマークして、1997年に熊本県代表の川上優子(元沖電気宮崎)がマークした31分01秒の区間記録を7年ぶりに塗り替えた。

6月4日の日本選手権、女子10000mではレース前半で福士が飛び出してから、その後独走となる。しかし終盤に入るとややペースが落ちてゆき、ゴール直前で2位の田中めぐみ(現姓:大島。元しまむら)や3位の弘山晴美(元資生堂)らに猛迫を受けるも辛うじて逃げ切り、31分32秒09のゴールタイムで優勝、初のオリンピック代表内定となった。その2日後、6月6日の女子5000mでも15分05秒07の記録で優勝を果たす。

8月27日、五輪初出場となったアテネオリンピックは、女子5000mも出場可能だったが回避し、女子10000mの1種目のみに絞って出場となる。しかし、レース前に発生した足の故障の為に全く力を発揮できず、同じ日本代表の田中めぐみ(13位)と弘山晴美(18位)からもかなり遅れての26位でゴール(しかも福士の次に27位だった女子選手は最下位である)。ゴールタイムは33分48秒66と自己ベスト記録より3分近くも悪く、先頭からは2周も周回遅れとなる惨敗だった。いつもの福士ならレース後のインタビューでおちゃめな言動を見せるも、流石の福士もこの時は思わず悔し涙を流していた。

6月の日本選手権では女子5000m・10000m共に優勝を果たし、世界陸上ヘルシンキ大会代表に選出。同大会には5000mと10000mの2種目で出場するも、10000mでは前回に続き11位に留まり、5000mは決勝進出を果たすものの12位、2種目共に8位内の入賞ラインには至らなかった。

1月15日に京都市で行われた第24回皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、京都府代表として最終の9区10kmを走り、京都府チームとしての過去最高記録で優勝を果たしている。3週間後の2月5日に香川県で行われた第60回香川丸亀ハーフマラソンでは、初のハーフマラソンにもかかわらず、日本記録をもっていた野口みずき(シスメックス)選手とトップを争い、1時間7分26秒のアジア記録で優勝した。

9月のワールドカップ陸上アテネ大会にアジア代表として出場。3000mで5位、5000mでは銅メダルを獲得。12月のドーハアジア大会女子10000mでは、31分29秒38の記録で同大会初優勝を果たす(3位は当時トヨタ車体所属の大南博美)。1998年バンコクアジア大会の川上優子以来、2大会ぶりの金メダルをもたらした。

2月4日に行われた第61回香川丸亀ハーフマラソンに2年連続で出走。自身の持つアジア・日本記録の更新はならなかったが、1時間8分00秒の記録で2連覇を達成した。

4月には、後輩の湯田友美と共に、エチオピアでの合宿に挑戦するという新しい試みを行っている。

6月29日の日本選手権女子10000mでは、7000m辺りからスパートして独走、この種目で2002年からの6連覇を達成。同年8月開催の世界陸上大阪大会の女子長距離走の代表内定を決めた。その2日後の7月1日に行われた女子5000mでは、スタート直後に転倒するアクシデントにも全く動じず、その後笑顔を振りまく余裕も見せ、10000m同様に後半独走となる圧勝だった。

その後、合宿場所をエチオピアに移した。この時この種目のスーパースターである、ハイレ・ゲブレセラシェとも出会い直接アドバイスも受けている。

地元開催となった世界陸上大阪大会の本番、開幕日だった8月25日の女子10000mでは、レース中盤辺りで靴が脱げかけてしまい、立ち止まって履き直すハプニングが発生する。その後積極的に先頭へ立つ場面もあったが、終盤でペースが落ちて結局10位に甘んじた。9月1日の女子5000m決勝ではスタートから果敢に先頭に立つも、3000m地点で後続に飲み込まれてしまい、その後は離され14位に終わった。

福士本人はかつて「マラソンを走るつもりはない。2時間以上あるなら走り続けるより映画を見たい」と述べるなど、フルマラソン転向について消極的であることを公言していた。しかし、世界陸上大阪大会を目前にした2007年8月23日に突如、マラソンに転向して翌2008年の北京オリンピックを狙う可能性があることを発表。一部の報道では、長距離走種目で五輪内定した場合でも、内定を蹴ってマラソンで五輪代表を狙うともいわれていた。

女子マラソンでは、土佐礼子(三井住友海上)が世界陸上大阪大会で銅メダルを獲得し、北京五輪代表の内定を得たため、残る枠は2つとなる。さらに同年11月の東京国際女子マラソンでは、アテネ五輪女子マラソンのディフェンディングチャンピオンである野口みずきが大会新記録で圧勝し、ほぼ五輪代表決定との報道をされ、事実上残る枠は1つになった。この1つの枠を、2000年シドニーオリンピック女子マラソン金メダリストの高橋尚子(元ファイテン)らを始め、数多くの国内有力選手と争う事になるため、福士には慎重な判断が求められており、マラソン転向に関しては断定を避けていた。

12月18日、日本陸連を通して翌年1月に行われる大阪国際女子マラソンに、「一般参加選手」として初マラソンに挑戦することを表明。福士本人は「まだ本格的な練習をしていないので期待と不安が有りますが、期待に応えられるよう頑張ります」と文書でコメントした。

福士のフルマラソン初戦として、大阪国際女子マラソンに参加することを発表。本番2日前の2008年1月25日、外国・国内の招待参加選手らとは別に、福士ひとりだけの記者会見が開かれた(通常は招待参加で選ばれた有力選手のみ記者会見に参列するが、一般参加選手が会見に臨むのは異例である)。

1月27日に開催された大阪国際女子マラソンでは、スタート直後に長居陸上競技場を先頭で駆け出してから大阪城公園を出る30km付近まで、福士がハイペースで後続を大きく突き放し、一時は2位集団を2分以上引き離し独走する展開となった。しかし30km地点を過ぎた辺りから、スタミナ切れを起こして急激にペースダウン。その後34km過ぎでは優勝したマーラ・ヤマウチ(元セカンドウィンドAC)や2位の森本友(天満屋)らに抜かれると、35km以降から殆どジョギング状態が続いて十数人の選手に次々と追い抜かれていく。それから福士はフラフラの状況で走り続ける中、さらに40kmを過ぎた長居陸上競技場へ入る手前の、ゴールまで残り570m付近では足がもつれて1度転倒、そして競技場へ入ってからは3度も転倒してしまう。それでも2時間40分台のタイムでようやくゴールラインに辿り着いたが、着順は結局19位と惨敗に終わった。

この大阪国際における福士の敗因について、当日テレビ中継でゲスト解説者だった有森裕子(元リクルート、バルセロナ五輪銀・アトランタ五輪銅メダリスト)は「大体30km程度迄の距離であれば、そのままスピードで押し切れてしまうんです。しかしそこから先になると、どんな人間でもスタミナが尽きて駆け引きの勝負になる」と述べ、福士の経験不足から来るペース配分のミスを指摘した。また福士はマイペース調整を重んじるあまり、練習でも40km以上の距離を継続して走った経験が無かったことが報道により明らかになった。後年フルマラソン復帰に際して、福士本人も「当時はマラソンを甘く考えていた。反省している」と語り、準備不足で臨んだことを認めている。

福士は大阪の後にもう1戦フルマラソンへの参加をほのめかすが、時期的な問題から北京五輪女子マラソンの代表枠がほぼ埋まってしまい断念。その後のフルマラソン出走に関しては、3年9か月にわたって封印する事となった。

その後は、本職である長距離トラック競技で五輪切符を目指すこととなった。今季初レースの6月2日の新潟選抜競技会の10000mは、32分22秒18の6位に終わったが、6月11日のホクレン・ディスタンスチャレンジ深川大会の10000mでは、五輪参加標準A記録を上回る31分30秒94で優勝。

優勝すれば北京五輪代表内定となる6月27日の日本選手権の女子10000mでは、渋井陽子と赤羽有紀子(ホクレン)らの激しい競り合いを展開し、勝負はラスト1周まで持ち込まれたが、渋井(優勝)・赤羽(2位)のラストスパートに遅れを取って3位(31分18秒79)と敗れ、五輪内定には至らなかった。また、2002年より続いていた福士の日本選手権女子10000mでの連覇も6でストップした。又6月29日の女子5000mも小林祐梨子(豊田自動織機・優勝)と赤羽(2位)に敗れて3位(15分16秒27)に終わったが、翌6月30日の日本陸連理事会で北京五輪代表に選出、2大会連続の五輪代表入りを果たした。

北京オリンピック本番は、8月15日に女子10000mへ出走。序盤から超高速のペースに積極果敢についたものの中盤辺りで脱落。8位入賞には届かなかったがなんとか周回遅れは免れ、31分01秒14の11位に入った。これは日本の代表3選手(他渋井・赤羽)の中では最も上位の成績であった。8月19日の女子5000m予選にも出場したが、15分20秒46で組の10位に終わり、決勝進出はならなかった。

社内で世代交代が進んだこともあってか、チームリーダーとしての位置を占めることとなった。会社代表としての位置付けもあり、プロフィール写真なども、より女性らしさを強調したものに改められた。また、この年の日本選手権では順位としては振るわなかったものの、それまでに派遣標準記録をクリアしていたことから、世界陸上4大会連続出場権獲得を果たした。

世界陸上ベルリン大会では女子10000mの1種目のみに出場、初の1ケタ順位となる9位でゴールするも、同じ日本代表で7位入賞を果たした中村友梨香(天満屋)に先を越され、惜しくも入賞ラインには及ばなかった。

12月13日の全日本実業団対抗女子駅伝では3区に出場し、12人抜きでチームをトップで襷を手渡して通過。1998年にエスタ・ワンジロ(元日立)が記録した、31分10秒の大会記録を11年ぶりに更新する31分02秒の区間新記録をマークした。

6月の日本選手権では女子5000m・10000m共に、2007年以来3年ぶりとなる2種目制覇を果たした。しかし、2連覇を期待された広州アジア大会の女子10000mでは、終盤プリージャ・スリードハランらインド勢のスパートについていけず4位と敗れる。続く女子5000mでも5位に終わり、結局2種目共にメダルを獲得することはできなかった。

4年ぶりに出走した、2月6日の第65回香川丸亀国際ハーフマラソンでは、1時間9分00秒の記録で通算3回目の優勝となった。また5月1日出場の米カージナル招待女子10000mでは、自身2番目の記録となる30分57秒90をマーク。しかし6月の日本選手権は、5月上旬に左足甲の良性腫瘍を摘出手術後、回復が思わしくないため欠場を表明。世界陸上大邱大会代表選出は絶望となり、福士の世界陸上選手権への連続出場は4大会でストップした。

2011年9月8日、10月9日開催のシカゴマラソンに、福士がエントリーしたと主催者が発表。福士のフルマラソン出場は、2008年1月の大阪国際女子マラソン以来3年9か月ぶり2回目。福士は「2時間20分を目指す。ロンドンオリンピックに女子マラソン代表を目指す為の準備になる」と意気込んで臨んだ。本番当日はレース途中までは野口みずきの日本記録(2時間19分12秒)を更新するペースで快走したが、中間点を過ぎた辺りからペースダウン。レースは優勝したリリア・ショブホワ(2時間18分20秒・世界女子歴代2位をマーク)に6分近く離され、日本最高にも5分以上及ばなかった。それでも初マラソン時のタイムから16分以上も大幅に更新、マラソン2回目で2時間25分を切る2時間24分38秒の自己ベストの3位でゴールした。

3度目のマラソンは、ロンドン五輪女子マラソン選考レースである2012年1月29日の大阪国際女子マラソンへ、4年前の同大会では19位に終わったその雪辱を胸に秘め、今回国内招待選手として挑んだ(マラソンコースは前回出場時と変更箇所有り。当初野口みずきとの直接対決が話題を呼んだが、野口は左太股裏の炎症で欠場、同年3月11日の名古屋ウィメンズマラソンにスライド出場する事を表明)。福士はスタートから高速ペースの先頭集団についていき、中間点を過ぎてからは優勝した重友梨佐(天満屋)とのマッチレースとなったが、26Km地点を過ぎた辺りから動きが悪くなり徐々に失速。30kmを過ぎた頃には重友に完全に引き離され、ペースダウンした所を後続の選手に次々と追い抜かれるという展開になってしまう。結局2時間37分も掛かって9位と敗れ、北京五輪に続いてロンドン五輪も女子マラソン日本代表選出は絶望的となった。

レース後のインタビューで福士は「レースから1週間ほど前に体が少し重いと感じ、軽い減量のつもりで食事を減らしたが、それが結果的にスタミナを削る要因になってしまった」と語り、今回の敗因が調整ミスである事を認めている。ロンドン五輪について問われると「出るとするなら(立場的に)遠回りにならないトラックでしょうね」と述べた。マラソンについては今の処考えていないが、今後も機会があれば挑戦する意向だという。

前回の北京五輪同様に、長距離走種目でロンドン五輪を目指し日本選手権に出場。6月8日の女子10000mでは、残り1000m辺りまで先頭を引っ張ったが、その後すぐ後ろについていた吉川美香(パナソニック)のラストスパートには引き離され、優勝した吉川に次ぐ2位に甘んじたが、A標準記録突破の31分43秒25でフィニッシュ。2日後の6月10日の女子5000mも優勝の新谷仁美(豊田自動織機)についていけず2位(15分25秒74)に敗れたが、翌6月11日の日本陸連理事会でロンドン五輪代表に選出される。なおオリンピックで日本女子の長距離走種目で3大会連続代表選出は、弘山晴美と並ぶ史上二人目の快挙達成となった。

8月5日に開催されたロンドン五輪女子10000m決勝の福士は、号砲から間もなくして日本女子3選手らと共に先頭に立つ積極性を見せたが、4000mを過ぎてから先頭集団の後方に後退。それでも終盤まで入賞圏内で粘っていたが、最後は力尽き31分10秒35の10位(日本女子トップは新谷の9位、吉川は16位)と、五輪で「3度目の正直」の8位内入賞はならなかった。2日後の8月7日は女子5000m予選1組に出場も、4000m付近までは先頭で集団を引っ張ったが又しても終盤失速、15分09秒81の予選8位に終わり決勝進出は果たせなかった。

同年11月4日のニューヨークシティマラソンにエントリーしていたが、開催前にハリケーン発生による被害の影響を受け、中止された。

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