神保彰の出身高校

神保彰 ミュージシャン

神保彰卒業高校
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ミュージシャンランキング
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生年月日
1959年2月27日生まれ
血液型
A型

神保 彰(じんぼ あきら、1959年2月27日 - )は、日本のドラマー。

東京都出身。血液型はA型。1980年、慶應義塾大学在学中だった二十歳のときに、フュージョン・バンドのカシオペアに加入してプロデビュー。以降、国内外のリスナー、アマチュア・ドラマーだけではなく、プロのドラマーからも常に注目を集める存在であり、2007年10月10日発売の『ニューズウィーク』誌 日本版(10月17日号)において「世界で尊敬される日本人100人」に選出されている。

音数が多くても一音一音をクリアに聞かせるそのテクニカルなドラム演奏は独りで叩いていないように思わせたことから、千手観音ともそれをもじって“十手観音”(命名者は当時同じカシオペアのメンバーだった向谷実)とも異名が付けられた。すでにデビューしていたカシオペアへの中途加入ではあったが、カシオペアと神保の音楽性はマッチした。双方ともに国内外から高い評価を受けるようになり、神保が加入していた1980年代、カシオペアは黄金時代を築く。1990年に同じメンバーだったベーシストの櫻井哲夫とともにカシオペアから脱退し、ふたりはドラム&ベースのユニット、ジンサクを結成。1998年、ユニットを解消した後、ソロアーティストとして歩み出すようになり、幅広い活動を行っている。

デビュー以来一貫してヤマハのドラムを使い続けていて、シグネイチャーモデルもいくつも作られている。1980年代のカシオペア在籍中よりヤマハのエレクトリック・ドラムのデモンストレーターとしてその開発に携わったことから、1990年代初頭にそのシステムが応用されたMIDIドラム・トリガーシステムによる楽曲のメロディ&ベース部分と生ドラムを独りで同時にこなしていく多重演奏のソロパフォーマンスが編み出された。そのソロパフォーマンスは神保自身によってワンマンオーケストラと名付けられて各方面から注目され、2000年代に入ると、従来の音楽ファン以外からも認知を受けるようになっていった。そして近年における活動の中心となり、国内で年間80本前後、国外でも多くの場所で開催されている。また、作・編曲も出来ることから毎年コンスタントにソロ名義のアルバムを制作している。

リーダー・プロジェクト以外にも、熱帯JAZZ楽団、カシオペアのリーダー・野呂一生がカシオペア休止後に立ち上げたISSEI NORO INSPIRITS、2012年に活動再開したCASIOPEA 3rdなどに常時参加。一方、カシオペアから脱退した向谷実の音楽活動にも度々参加している。また、近年はフュージョン・シーンだけではなく、ポップスやアニメソングなどからもジャンルを超えて重用されている。

父親は生業としてのプロミュージシャンにはならなかったが、神保が生まれてくる前の学生時代には同年代の中村八大とともに米軍キャンプを廻って演奏するほどの本格派なジャズ・ベーシストだった。そのため、幼少の頃から音楽や楽器に親しんだ環境のなかに身を置く。最初に関わった楽器は、お稽古事としてのピアノ。そして中学の入学祝いにドラムセットを買ってもらうも、この時は半年ほどで飽きてしまう。その後、ギターを嗜むのだが、本人曰く普通の腕前であった(しかし、ギターの演奏経験があったことが、後に作曲を習得する際に役立つことになる)。ようやく高校生3年生になってから本格的にドラムを始めるようになる。そのきっかけは、友人からの勧めでデオダートなどの当時まだ黎明期だったフュージョン(クロスオーバー)音楽を好んで聴くようになった矢先、アメリカのキーボード奏者、ボブ・ジェームスのインストゥルメンタル・アルバム『はげ山の一夜』(原題:『One』)のタイトル曲をラジオでたまたま聴き、それに参加していたドラマー、スティーブ・ガッドのテクニカルな演奏に感銘を受けたことから。以降、1970年代後半のフュージョン・ブームが盛り上がっていく中で、スティーブ・ガッド、氏と同時期に列び立てられていたドラマーのハービー・メイソンのふたりが参加したアルバムを聴きまくってコピー演奏していったことで、神保自身の演奏スタイルにストレートに反映されていく。他にもアメリカのファンク・バンド、タワー・オブ・パワーとそのドラマーであるデヴィッド・ガリバルディにも憧れて同様にコピー演奏していって影響を受けていく。高校時代の最後は学校近くの練習スタジオにて、同じ高校に通っていた音楽仲間らと毎日のようにフュージョンのコピー演奏セッションに励むようになる。

1977年、慶應義塾高等学校から慶應義塾大学に進学した神保は、高校時代の音楽仲間とともに同校のジャズのビッグバンド、慶應義塾大学ライトミュージックソサエティに所属。新入生が必ずこなさなければならない裏方の雑務から始まり、上級生になる頃には頭角を現してコンテストやライブ出演など第一線で活動するレギュラーバンドのドラマーへと昇格する。そして、神保が大学3年生だった1979年秋、ビッグバンドが渋谷109のイベントライブに出演する際、就職試験で参加できないベーシストの代わりに同大学に在学していたカシオペアの櫻井哲夫に代役出演してもらうように学内のツテを頼って依頼した。受諾した櫻井は初対面だったリハーサル段階から神保の卓越した演奏に感銘を受けることになる。当時のカシオペアはドラマーの脱退が決定事項となっており、次期ドラマーを探していたことから、さっそく櫻井は神保の加入を他のメンバーやスタッフに推薦。ただし、神保本人には秘匿とされ、イベントに出演したビッグバンドの演奏をカシオペアのメンバーとスタッフが実際に観てから櫻井に同調することになって、後日神保に加入を打診した。驚いた神保はそれまでプロ経験もなければ、将来プロになる指向もなかったことで当初は躊躇していたのだが、カシオペア側が総出となって口説き落としたこととコンボスタイルのフュージョンへの憧れと造詣が深かったことからカシオペアの音楽性にやりたいことを見いだして加入するに至った。

当時すでにカシオペアはプロデビューを果たしていたが、1980年2月に神保が加入してすぐにライブ・レコーディングされた3枚目のアルバム『THUNDER LIVE』が、音楽誌『ADLiB』の連載企画「ブラインド・フォールド・テスト」(来日した海外のフュージョン系の著名ミュージシャンに、日本のフュージョン系アーティストの新譜レコードをアーティスト名やプロフィールなど目隠し状態で伏せて聴かせて、音だけの判断で評論してもらう)で賞賛され続けたことで話題を呼び、人気が一気に高まっていく。以降、カシオペアはアルバムを出すごとに売り上げを伸ばし続け、ライブの規模と動員もそれにともなって拡張していった。

1980年夏、カシオペアは4枚目のアルバム『MAKE UP CITY』制作において4人のメンバー全員の自作曲を入れることにした際、ひとりだけ作曲経験の無かった神保にカシオペアの楽曲におけるメインライターであったリーダー兼ギタリストの野呂一生は自分が覚えてきた作曲方法を伝授した。以後、神保はソングライターとしての才能も開花させることになっていく。同年秋から冬にかけて、カシオペアはアメリカのロサンゼルスに一ヶ月滞在して、ハービー・メイソンのプロデュースの下、アメリカ向けアルバム『EYES OF THE MIND』のレコーディングを行った。当時、大学4年生で一般企業に就職する気持ちがわずかながらどこかに残っていた神保にとってそれをすっぱり諦めるには充分すぎるほどの条件であった。1981年春、慶應義塾大学を卒業し、プロミュージシャンとして社会に出る。

1982年、カシオペアは本格的な海外活動開始していくその前に、当時の所属レコード会社、アルファレコードの計らいで、メンバーがバラバラで世界の好きなところに一人旅に出掛けて海外渡航経験を積むことにした。神保はニューヨークやニューオリンズなどアメリカにおける幾つかの音楽が盛んな都市を廻ってきた。帰国直後、ニューヨーク滞在時の想い出を元にして作ったのがカシオペアのアルバム『FOUR BY FOUR』収録の「MID-MANHATTAN」。この曲はライブで人気曲となり、近年におけるカシオペアの活動形態、CASIOPEA 3rdにおいてもひんぱんに演奏されている。

1984年、当時まだ未発売で試作の段階であったヤマハのエレクトリック・ドラムのデモンストレーターとなる。当初は同じカシオペアのメンバーであったキーボーディストの向谷実とともにヤマハ主催のデジタル機材を中心とした楽器イベントで披露するのみであったが、1986年からはカシオペアのライブにおいてもそれまでのシモンズ製のものからヤマハ製のものに代えて披露されるようなっていく。エレクトリック・ドラムと生ドラムを合わせたその演奏の模様は、1986年末に収録されたライブビデオ『CASIOPEA PERFECT LIVE』の「Drums solo」で観られる。

1980年代当時のカシオペアは年間2枚のアルバム制作と国内外で年間100本前後に渡るライブをこなしていた。常にカシオペアはグループとしての活動を優先させたため、メンバーのソロ活動は制限されることになり、他のバンドとの掛け持ちも出来なかった。1980年代前半、神保のカシオペア以外の場における音楽活動は他のメンバーとともに参加した幾つかのレコーディング・セッションのみで、ソロ活動を始めていくのは1980年代後半になってからだった。

1985年、カシオペアにデビュー以来初めてのまとまったソロ活動期間が設けられた際、他のメンバーがソロアルバムを制作するなかで、神保だけはまだそのときは作らなかった。その代わり、この年は前年に向谷実がサウンド・プロデュースした亜蘭知子のアルバム『More Relax』に楽曲提供と演奏で参加したことが評価されて、彼女の次作アルバム『IMITATION LONELY ―都会は、淋しがりやのオモチャ箱―』と当時人気絶頂期だった中森明菜のアルバム『BITTER AND SWEET』の制作(楽曲提供と演奏)に参加した。翌1986年、再び設けられたソロ活動期間において、ロサンゼルス・レコーディングで初めてのソロアルバム『COTTON』を制作して発表する。神保以外は現地在住のミュージシャンを起用し、当時のカシオペアとは対極的なアコースティック楽器とボーカルやコーラスをフィーチャーしたウォームなスムースジャズのサウンドに従来からのファンは驚いたが、以降のソロ名義によるアルバム制作もこのファーストアルバムの路線で続けられることになっていった。

1989年、カシオペアはグループとしての活動を休止し、三度目のソロ活動期間が設けられることになった。神保はそのなかで2作目のソロアルバム『PALLETE』を制作したほかに、櫻井と一緒にボーカル音楽のバンド、シャンバラを結成し、アルバム制作とライブ活動など行った。しかし、野呂と向谷は「シャンバラの今後の継続的な活動は、直に迫るカシオペアの活動再開に支障を与える」としてふたりに活動停止を要請した。これに対し、櫻井と神保はカシオペアの活動と両立出来ると主張。野呂・向谷と櫻井・神保の両陣営は最後まで平行線を辿って物別れになり、櫻井と神保は1989年かぎりでカシオペアから脱退してしまう。後年の1997年にカシオペアの現役とOBメンバーが集まって収録されたトーク&スタジオライブのテレビ番組『THE MINT CLUB』(CASIOPEA with TETSUO SAKURAI/AKIRA JIMBO『THE MINT SESSION』としてもDVDソフト化)のなかで神保は脱退直前のカシオペアについて次のように述懐している。

僕ら4人(野呂・向谷・櫻井・神保)で、ずっとやってて、最後の方は金魚鉢の金魚が酸素がなくなって(口を)パクパクさせているみたいな感じが自分の中でイメージがあったんです

1990年、カシオペアから脱退した櫻井と神保のふたりはシャンバラ以外にフュージョン・シーンで活動するジンサクというユニットを結成する。1990年代前半、神保はジンサクの活動と併行して、カシオペア在籍時代から引き続いてロサンゼルス・レコーディングによるソロ名義のアルバム制作も毎年行っていき、アルバムのプロデューサー兼現地コーディネーターの松居和の尽力により、アメリカでも発売されていくようになった。しかも、国内よりもスムースジャズが盛り上がっていたアメリカの方で話題を呼び、現地ではプロモーション・ライブも行われていた。

1992年、初めてのビデオソフト『Metamorphosis』を制作。ドラム演奏のテクニックを伝授する教則ビデオで、収録されている楽曲のデモ演奏パートには、ジンサクのライブで披露されていた櫻井哲夫とのドラム&ベースによるデュオ演奏のほか、後のワンマンオーケストラの元ともなる、ヤマハのエレクトリック・ドラム開発から応用化したMIDIドラム・トリガーシステムを使った神保だけによる演奏もフィーチャーされた。この頃、そのプロモーションもかねて、カシオペア在籍時代は余暇の範囲内でしか行われなかったドラムセミナーをひんぱんに行っていくようになる。ビデオソフト『Metamorphosis』は、神保の国際的な音楽活動における実績から日本ではなくアメリカの音楽ソフトメーカー、DCIによって制作および現地でも発売されたことにより、海外でもそのプロモーションをかねたドラムセミナーが開かれていく。1995年、2作目のビデオソフト『PULSE』を制作して発表。1作目で示したドラム・トリガーシステムを組み込んだデモ曲の演奏はより進化し、生ドラムと同時にメロディやベース、和音も操る独り多重演奏が確立した。同年、ヤマハからテクニカルマスターの称号を与えられたことにより、国内外でのドラムセミナーが活動の柱の一つとなっていった。

1995年、パーカッション奏者のカルロス菅野がリーダーとなったラテン・ジャズのビッグバンド、熱帯JAZZ楽団に立ち上げから参加。1997年、ドラマーが脱退して活動計画に窮していたカシオペアにもサポートメンバーとして復帰する。一方で櫻井哲夫と組んでいたジンサクは1990年代後半になる頃からふたり別々のソロ活動に比重が高まっていたこともあり、1998年にユニットを解消。神保はこれを機に以後は特定のバンドやユニットには属さないソロアーティストとして活動していくようになる。

1990年代末期から2000年代初頭にかけて、ドラムセミナー内で披露される、MIDIドラムトリガーシステムによる楽曲のメロディ&ベース部分と生ドラムを同時にこなした独り多重演奏は、神保がそれ用に作ったオリジナルの楽曲ばかりでなく、ポップスから映画音楽、日本の伝統音楽まで様々な著名曲もアレンジしていくようにもなり、レパートリーが増えていった。この頃、神保自身によって、独り多重演奏のパフォーマンスは、ワンマンオーケストラと命名されることになった。そして、専門的なドラムセミナー内でのデモ演奏としてではなく、ワンマンオーケストラ自体を全編にフィーチャーしたライブも行われるようになっていき、次第にドラムセミナーに代わってそれが活動の中心となっていく。

ワンマンオーケストラは各方面で話題を呼ぶようになり、2001年にはテレビ朝日系列で放送されていた報道テレビ番組『ニュースステーション』に出演し披露したことにより、神保の活動を知る音楽ファン以外にも認知されていくようになる。

1980年代から続けていたソロ名義によるアルバム制作活動は1997年に発表した10作目の『STONE BUTTERFLY』を最後に一旦休止する。それ以後しばらくは、DJのケイ・ナカヤマとのINTELLIGENT JAZZ、和太鼓奏者のヒダノ修一とのヒダじんぼ、アメリカ人ベース奏者のブライアン・ブロンバーグとのJBプロジェクトなど、あらゆる音楽分野の達人とコラボレーションした双頭ユニットでライブとアルバム制作活動を行う。

この頃、カシオペアとT-SQUAREのメンバー間による交流が盛んとなっていて、2003年にジョイント・ライブツアー「CASIOPEA vs THE SQUARE」を開催した。その共演がきっかけとなり、2004年に元T-SQUAREのドラマー・則竹裕之とのツインドラムによるユニット、Synchronized DNAを結成。それと前後して、高校・大学時代の音楽仲間であった鳥山雄司と和泉宏隆ら3人によるインストゥルメンタル・バンド、PYRAMID(活動当初は慶応ボーイを文字って“オーケーボーイズ”なる名義だった)を結成してレコーディングとライブ活動を行っていく。

2006年、カシオペアが活動休止するも、その後にカシオペアのリーダー・野呂一生が立ち上げたソロ・プロジェクト、ISSEI NORO INSPIRITSに参加。2012年、カシオペアはCASIOPEA 3rdとして活動再開し、神保は休止前と同じスタンスでサポートメンバーとして支えている。また、カシオペアから脱退した向谷実の音楽活動にも度々呼ばれて参加している。

2007年からそれまで十年途絶えていたソロ名義のアルバム制作を再開。ロサンゼルス・レコーディングにて、エイブラハム・ラボリエル(ベース)、オトマロ・ルイーズ(ピアノ)らをパーマネントで起用して毎年制作されている。近年は神保が書いたオリジナル曲のものとは別にカバー曲集のアルバムも同時に制作されている。なお、それらに収録されたオリジナル曲やカバー曲は、ワンマンオーケストラ用にアレンジし直されて演奏もされている。

2011年、国立音楽大学ジャズ専修客員教授に就任。2012年からNHK教育テレビジョン(NHK Eテレ)にて放送されている『スクールライブショー』バンドバトル部門の審査員としてたびたび登場するなど後進の指導にもあたっている。

先述の「ワンマン・オーケストラ」を実現するために考案した「ドラム・トリガー・システム」と呼ばれるこの機材の第1号機は、1990年代初頭にヤマハが開発したもの。いわゆる「電子ドラム」に、ドラムの各パーツに貼り付けたピックアップ(圧電素子)や電子ドラムパッドを接続し、それぞれのパーツから打撃を受けると、機材内で設定したMIDIの信号に変換する仕組みを付け加えたものである。

さらにこの機材には、それぞれのパッドや生ドラムが叩かれた際に、1種類・1音程の音を鳴らすだけでなく、あらかじめ下記のような動作の設定を収めることができる。

これにより一人での多重パート・メロディ演奏が可能となる。かつては19インチラックに収めるデザインだったが、近年ではドラムセットの傍らに置いて操作できるコンパクトな機材となった。この機材にもMIDI端子が付いており、サンプラーを接続すれば肉声や自然音も演奏できる。神保自身のライブでは外部MIDI音源を接続し使用している。

なお、上記2番目の機能は神保の演奏を見ても、シーケンサーによる自動演奏のフレーズを鳴らしているだけと思われがちだが、機材にプログラミングされているのは音程の順序だけなので自動で曲が鳴ることはなく、どのパーツを何回どのタイミング・順序で叩くかを完全に習得しないと曲の演奏ができない。演奏ミスはまれに見られ、TV番組のインタビューにて「1打多く打ったらどこかで1打少なくして帳尻を合わせる。合わせられない場合はそのセクションを捨てて次へどんどん進んでしまう。どうしようもなくなった場合はMCでフォローする」と語った。 また、キーボードによる演奏と違って「音を止める」タイミングを演奏者が決められないため、「長く鳴らす音」「短く鳴らす音」をあらかじめプログラミングする必要がある。

神保の説明によると「テープやシーケンサーによる同期演奏とは全く異なる。同期演奏はクリックのタイミングに演奏が縛られるが、ワンマンオーケストラでは自分のタイム感でバンドオーケストレーションを作り上げることができる」という(教則ビデオ"PULSE"より)。

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