田中賢介の出身高校

田中賢介 プロ野球選手

田中賢介卒業高校
東福岡高校 偏差値 福岡県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
1429位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1981年5月20日生まれ

田中 賢介(たなか けんすけ、1981年5月20日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(内野手、外野手)。

福岡県筑紫野市出身。小学校2年で野球を始め、中学から硬式野球を始める。高校は東福岡高校に進学し、一学年上の村田修一や大野隆治とチームメイトとなる。2年時の1998年に第70回選抜高等学校野球大会に出場し、3回戦・横浜高校戦で松坂大輔に2安打完封され敗退するが、田中は試合の先頭打者として1安打を放った。第80回全国高等学校野球選手権大会、第81回全国高等学校野球選手権大会にも出場したが初戦敗退に終わった。

翌1999年、プロ野球ドラフト会議で、2位指名で日本ハム・中日・西武の3球団で競合の末、ドラフト直前に就任した大島康徳監督が引き当て日本ハムに入団。

入団時から打撃センスは高く評価されていたものの、守備が課題で一軍に定着出来ずにいたが、1年目(2000年)から二軍で打率.313を記録し、9月に一軍に昇格しプロ初安打を記録。2001年は開幕一軍に入り、開幕戦である3月24日の対大阪近鉄バファローズ1回戦で9回に代打で出場してプロ初本塁打を打った。開幕戦での代打本塁打はパ・リーグでは9人目であるが、プロ初本塁打に限っては1989年の広永益隆以来3人目である。当時の正三塁手だった片岡篤史が故障したため、翌日の開幕2戦目にプロ初先発起用され、3月31日~4月6日は6試合連続で三番打者を任されたが、打率を残せず、一軍定着は出来なかった。2002年、2003年は一軍と二軍を行き来する状況が続く。

2004年に一軍で一時3割台の高打率を維持するも、6月に死球による右すね骨折で離脱。21試合の出場に終わる。2005年は一軍で22試合出場に留まるが、白井一幸の指導を受け、打撃理論の再構築と送球難の克服を果たした。二軍で.307、16本塁打の好成績を残し、9月28日の一軍最終戦(対ロッテ戦)で延長11回に初のサヨナラ本塁打を放った。秋季キャンプ後にはトレイ・ヒルマン監督(当時)に「来季、最も飛躍を期待」として唯一名前を挙げられた。

2006年は開幕一軍に入り、課題だった守備が改善され、主に代走・守備固めで起用される。この年のチームは当初、新外国人のホセ・マシーアスを二塁手として予定していたが結果を残せなかったため、マシーアスや木元邦之、川島慶三らとのポジション争いを演じた後、田中が5月上旬から二塁手に、同月下旬から二番打者としてレギュラーに定着。自身初の規定打席到達を果たし、打率3割、21盗塁、リーグ最多犠打(34個)を達成、日本シリーズでも最多記録に並ぶ6犠打(5試合制では史上最多)を記録して日本一に貢献した。二塁手としてゴールデングラブ賞、ベストナインを受賞(以後、前者は2010年まで5年連続、後者は翌2007年と2009年、2010年、2012年にも受賞)。またオフに2004年の骨折の際に右足に埋め込んだプレートの除去手術をした。

2007年は開幕から打撃不振に苦しみ、最終的に打率.255と前年から大きく率を落とすが、全144試合に出場、パシフィック・リーグ最多記録となる58犠打、盗塁も自己最多の27個を記録した。

2008年はグリップを肩より下でかまえる独自の打撃フォームを改造し、肩より少し上で構えるようにしたところ開幕4試合で前年に並ぶ3本塁打を打った。打率3割は逃したが、自身初の2桁本塁打を記録。更にはパ・リーグで唯一のフルイニング出場も果たした。88試合に三番打者として起用された。第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の一次候補に選ばれたが、代表には選出されなかった。

2009年に前任の金子誠から選手会長を引き継ぐ。WBC選考メンバーに入るも、日本代表のメンバー入りはできなかった。開幕から一番打者を任され、打率3割には届かなかったがリーグ最多の79四球、自己最多の31盗塁を記録した。8月21日に右足首痛で2年ぶりに先発出場を外れた(全試合出場は2010年8月14日まで継続)。また、この年は680打席に立ち、リーグ記録を46年振りに塗り替える(翌年西岡剛によって更新(692打席)される)と共に、セ・パ両リーグの規定打席到達者で唯一併殺打0のままシーズンを終えた(後述)。

2010年はリーグトップの得点圏打率.419を記録した他、右投手に対して打率.356と得意とし、シーズンを通して高打率を維持。最後まで首位打者争いに絡んだ。シーズン打率.335と193安打は共に自己最高であり、パ・リーグ2位。8月15日の対福岡ソフトバンクホークス戦を欠場し、2006年6月3日の対横浜ベイスターズ戦より継続していた連続試合出場は、歴代29位の620試合で終了した。この年国内フリーエージェント(FA)権を獲得し、オフには翌年以降のメジャーリーグ挑戦も取り沙汰されたが、総額7億5千万+出来高の3年契約を結んだ。契約にはメジャー移籍を希望した場合は球団の許可を得た上で契約解除できる条項が含まれている。

2011年は春季キャンプ中の右手指骨折で出遅れた上、6月18日の対広島東洋カープ戦で6回に盗塁をした際に左足首を痛め、21日に受けた精密検査で「左距骨骨折で全治4~6ヶ月」と診断され、シーズン中の復帰はならなかったが、フェニックスリーグで実戦復帰し、一軍の試合ではクライマックスシリーズのファーストステージの第1戦と第2戦に一番・二塁手で先発出場するも決勝点となる失策を犯してしまった。

2012年は6月まで打率.332と首位打者を争う活躍を見せるも、8月29日の西武戦の守備で中島裕之と交錯し左腕を骨折[7]。そのままシーズンを終え、ポストシーズンでの出場もなかった。11月6日には「今年はどんなことがあろうと挑戦しようと決めていた。けがをしても揺らぐことはなかった」[8]と、アラン・ニーロを代理人とし、海外FA権を行使してのメジャー挑戦を表明[9][10]。会見では「パワーは劣ると思うけど、守備や走塁、バットに当てる技術など、細かい部分でアピールしたい。ダルビッシュと対戦したら楽しいでしょうね。ファンに支えられて大きくなりました。球団は『いつでも帰ってきていいよ』と言ってくれた。その言葉だけでありがたいけど、帰ってくる選択肢はない。覚悟してます」とメジャーに骨を埋める覚悟もあることを語った[11][12]。

2013年1月9日にサンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約で合意し10日に契約[13]。最低保証金額4万ドル[注釈 1]、マイナーで月2万ドル[14]、メジャー40人枠入りすることで年俸75万ドルとなる契約で、「通訳を付けると英語も上達しないと思うし、チームメートからも認めてもらえない」として通訳ではなく家庭教師がつく契約を自ら希望した[15][16]。スプリングトレーニングに招待選手として参加するが、19試合の出場で打率.229、出塁率.275を喫し、守備でも二塁手の他、遊撃手や三塁手としても起用されるが計7失策を喫して、AAA級フレズノで開幕を迎える。フレズノでは78試合の出場で16失策(内55試合の二塁守備で15失策)を喫し左翼手にコンバートされる。一方で打撃は78試合の出場でリーグ6位の打率.330、出塁率.392、リーグ5位の20盗塁の成績を残し、7月9日にメジャー昇格。同日のニューヨーク・メッツ戦に二番・左翼手でスタメン出場し、日本人選手通算50人目となるメジャーデビューを果たす。同試合では2回に本塁打性の飛球をジャンピングキャッチする好守を見せ、5回にはメジャー初安打となる中堅前安打で出塁し、4万人の観衆からスタンディングオベーションを受けた[17]。以降も左翼手として起用され、4試合連続安打を記録[18]するなど、15試合の出場で打率.267、出塁率.353、2盗塁の成績を残すが、29日にフレズノに降格。降格後も左翼手として起用され、フレズノでは最終的にリーグ3位の打率.329、1本塁打、出塁率.400、22盗塁を記録。マイナーのシーズン終了後は「首位打者を取りたかったので残念。でも、いい締めくくりができました。パワーがない分、二塁か中堅でスピードで勝負するのが、メジャーで生き残る道かもしれない」と語った。9月3日にDFAとなり、翌日に自由契約となる。

2013年12月20日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ。

2014年、招待選手として参加したスプリングトレーニングでは18試合の出場で打率.185、出塁率.290を喫し、AAA級ラウンドロックで開幕を迎える。ラウンドロックでは62試合の出場で打率.258、4本塁打、出塁率.340、12盗塁の成績を残し、守備では二塁手として起用される。7月20日に本人の希望で契約を解除し自由契約となった。

2014年12月16日に、古巣の北海道日本ハムファイターズが獲得を発表した。3年振りの古巣復帰となる。背番号は「3」。

打撃では広角に打球を打ち分け、2007年にはリーグ最多記録となる58犠打を記録するなどバント技術やボールをカットする技術にも優れる。選球眼に優れ、8打席に1個近い確率で四球を選び、2009年には105三振を喫した一方でリーグ最多の79四球を記録した。右投手に対しては基準違反統一球が導入されていた2011年から2012年の通算で打率.305を残しているが、左投手に対しては同打率.280とやや弱く、メジャー移籍後の2013年から2014年もAAA級では右投手に対しては打率.323、左投手に対しては打率.230と弱かった。

走塁面では一塁到達3.7秒、三塁到達11.35秒をマークするなど全力疾走を怠らず、盗塁面では日本での通算盗塁成功率70%を記録している。

守備では日本ハム時代には主に二塁手として起用されたが、ジャイアンツ時代は送球難から左翼手としても起用された。二塁守備では打者の特徴や配球を考えてポジショニングすることが好きだと言い、併殺参加数が非常に多い。2006年から5年連続でゴールデングラブ賞を受賞しており、2010年には得点換算で球界トップクラスの数値を残した。2012年にはイージーミスが多く見られ、この年は守備イニング500以上の二塁手中両リーグワースト3位のUZR-3.0を喫した。また、内野ゴロを待って捕る癖を慢性的に抱えており、天然芝球場の帯広の森野球場で行われた2012年8月7日のソフトバンク戦では、平凡な内野ゴロを安打にしてしまうミスを犯して、二死から2人の走者を生還させてしまい逆転を許すことがあった。

自身のイメージカラーがピンクであることから、守備でアウトを奪取した数に応じてマンモグラフィ検診をファンにプレゼントするピンクリボン活動に取り組んでおり、2008年オフにはチャリティーイベントも実施している。

ワインが好きで、メジャー移籍前にはダルビッシュ有や建山義紀らと共に「ワイン部」を結成していた。

妻は元札幌テレビ放送アナウンサーの西森千芳。

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