牧野信一の出身高校

牧野信一 作家

牧野信一卒業高校
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性別
男性
生年月日
1896年(明治29年)11月12日生まれ

牧野 信一(まきの しんいち、1896年(明治29年)11月12日 - 1936年(昭和11年)3月24日)は、日本の小説家。神奈川県足柄下郡小田原町(現:小田原市)出身。自然主義的な私小説の傍流としてみなされることが多く、17年間の作家生活の中で珠玉の短編十数編を残して早逝したマイナー・ポエトといわれている。「ギリシャ牧野」とも呼ばれた中期の幻想的な作品で新境地を拓いたが、最後は小田原の生家で悲劇的な縊死自殺を遂げた。享年39歳。

決して大作家とはいえない一詩人的な作家ではあるが、その「内発的な自我破り、想像力の開放、分裂に処するパロディの方法の発見」などは文学史的には重要な意味があると磯貝英夫は考察し、その後継者的な作家として、井伏鱒二、坂口安吾、石川淳、太宰治らの名を挙げている。また、「ときにデフォルメされた笑いに身をよじり、ときに救いも見えない焦燥に身をこがす」ような、一種の「動的な精神の燃焼の場」としての牧野の小説は、上記の作家の他、稲垣足穂、小島信夫、野坂昭如、後藤明生などの先駆者的なものがあると千石英世も指摘し、石川淳の他、島尾敏雄、吉行淳之介、安岡章太郎、種村季弘、池内紀ら、熱心な牧野信一ファンの作家が輩出されている。

なお、牧野信一は、坂口安吾の『風博士』をいち早く絶賛し、坂口が新進作家として世に出るきっかけを作った他、宇野浩二、井伏鱒二、青山二郎、小林秀雄、河上徹太郎らと交流を持ち、雑誌『文科』を創刊主宰して、これらの作家の作品発表の場を作った。牧野の代表作には、『地球儀』、『父を売る子』、『西瓜喰ふ人』、『村のストア派』、『ゼーロン』、『バランダ物語』『酒盗人』、『鬼涙村(きなだむら)』、『裸虫抄』などがある。

牧野信一の文学は、通常おおまかには、初期私小説、中期幻想小説、後期私小説への復帰、と分類されている。初期と後期における私小説的作品のいくつかは、「家族と血族の因縁」を扱い、牧野の文学の「深い暗部」を垣間見せている。

基本的に牧野は「自然主義的な作風」の作家とみなされることが多いとする堀切直人は、大正期の『父を売る子』をはじめとした牧野初期の私小説では、「自分の家庭の内幕を大胆にさらけ出した、すこぶる露悪的自虐的な」作品が特徴だとし、晩年には再び、『鬼涙村』、『裸虫抄』などの佳作で「暗鬱な土俗の世界に肉薄」していると考察し、柳沢孝子も、牧野の初期作品は、「自虐的饒舌および劇画」や「鋭敏な末梢神経描写」にあふれた私小説の体裁を持ち、晩年の作品も「朗らかな夢」が涸れていると解説している。

それらの初期や晩年の作風と違う、文壇の通称として「ギリシャ牧野」と呼ばれていた中期の浪漫的幻想小説は、そうした暗部の反転であり、「濃厚なナンセンスによる笑いの文学」、「夢魔的世界」を実現させており、中期の傑作といわれる『ゼーロン』をはじめとする、その時期に位置する作品は、自然主義的私小説の奔流とは趣の異なる「幻想的」な作品群と目され、「古代ギリシャや中世ヨーロッパの古典」に題材を借りた作風となっている。

1896年(明治29年)11月12日、神奈川県足柄下郡小田原町緑町(現在の小田原駅東口周辺)で、旧小田原藩士である牧野家の父・久雄と、母・ヱイの長男として誕生[注釈 2]。父と母はそりが合わなかった。旧家の牧野家は家屋も古風で、入口を入ると直ぐに広い庭に面する座敷が3室あり、庭も古風で、夜になると石灯籠に小さな明かりが、池に落ちる筧の水を照らす風情があったという。

1897年(明治30年)、信一が1歳に満たぬ時、父・久雄が単身渡米。以後10年近くをその地で暮らすという、通常の父子関係ではなかった。明治30年ごろの小田原にはアメリカへの移民熱が盛んだったという事情はあったが、因循姑息な土地柄や家風から脱出する気持や、妻と離れたい気持も久雄にはあった[7][8]。母・ヱイは小学校の準訓導であったので、信一は祖父母の溺愛の元で育つ[9]。

1903年(明治36年)、小田原尋常小学校へ入学。この前後から外人宣教師に付いて英会話とオルガンを習う。アメリカの父親から通信などで「見知らぬ父」と、その父が住むアメリカへの思いを掻き立てられる。このことは牧野の文学の一つの母胎となる[9]。信一自身もいずれは海を渡り、アメリカで父親と合流するとの予想もあり、幼年から英語を学ぶことに勤しむ。父親の放浪的な気質は信一にも多分に流れており、異国好みの作風の根底にあるものとされる[7]。

1905年(明治38年)、祖父・英福が急死し、父・久雄は帰国したが、家庭に馴染めずに足柄下郡国府津村(現:国府津町)に別居。箱根の富士屋ホテルの通訳、ガイドなどをする。父親の別宅を訪ねてくる息子・信一とは、時に英語で話す。信一はアメリカ帰りの父と日本語では恥ずかしくて喋れなかったが、言いにくい感情でも思いのたけでも英語では話せた[8]。性格の弱い放蕩的な父と、そのような父を背負わされた自分の「エディプス的自我」の定まらなさは、信一の感受性の形成に影を与えた。また信一は、ほとんど終生母親を憎み、父親を愛していたともされ、母は、うとましくもしたたかな世俗や凡俗の「抜きがたい象徴」となる[8]。

1909年(明治42年)、神奈川県立第二中学校(現:神奈川県立小田原高等学校)に入学。同級に終生の友となる鈴木十郎(のち読売新聞記者、後年は小田原市長)がいた。弟・英二が誕生。歳は13歳離れている。中学校の頃の信一は、授業では英語が得意で、校内ではラッパの名手として知られていて、なかなかの洒落者であったという[9]。祖父母に溺愛されて育ったお坊ちゃん気質は、楽天的な闊達な気性を見せる一方で、人見知り風の引っ込み思案げな表情も生活の中に見られたという[7]。初恋は中学4、5年頃で、相手は2、3歳年上で当時20歳の青果問屋の娘だった。娘は爛熟した美人だったという[10]

1914年(大正3年)、早稲田大学高等予科に入学(無試験)。翌1915年(大正4年)、原級予科にとどめられ、浅原六朗、下村千秋らと同級になる。この頃、小田原の花柳界の若い芸妓(17、8歳)に恋心を抱いていたという[10]。1916年(大正5年)、本科に進級。信一の勧めで早稲田に入学した鈴木十郎と共に創作への意欲を語り合う。東京府東京市小石川区高田豊川町(現:東京都文京区目白台)の素人下宿の2階の部屋で、信一は「文学に対する情熱が強く起ってきた」と話す[10]。谷崎潤一郎の作品などに親しむ [11]。

1919年(大正8年)、早稲田大学部文学科英文学科(第二部)を卒業。鈴木十郎の義兄・巌谷冬至(巌谷小波の実弟)の紹介で、時事新報社の『少年』『少女』の編集部記者となり、「牧野七路」の筆名で、『少女』に少女読物を書く。この頃、同社文芸部の佐佐木茂索と面識を持つ。同年11月、大学同級生の浅原六朗、下村千秋ら13人と同人誌『十三人』を創刊する[注釈 3]。12月、『十三人』に「爪」を発表し、島崎藤村に認められる。「爪」には、谷崎潤一郎の『悪魔』の影響が見受けられる[11]。

1920年(大正9年)4月、鈴木十郎らと同人誌『金と銀』を創刊(3号で終わる)。8月、島崎藤村の紹介で雑誌『新小説』に「凸面鏡」を発表し、初めて原稿料を得て、文壇にデビューする機運が開かれる。10月、「闘戦勝仏」を同人誌『十三人』に発表。これも牧野の処女作ともいわれ、谷崎潤一郎の『麒麟』の影響が見受けられる[11]。時事新報社『少女』の投稿者だった鈴木せつとの交際が始まり、やがて同棲する。せつはモダンで賢く、非常に明るく活発な性格で、牧野とは反対におしゃべりであったという[12]。

1921年(大正10年)、佐佐木茂索を介して中戸川吉二と知り合う。3月、「白明」を雑誌『解放』に発表。5月、「公園へ行く道」を『十三人』に発表。8月、「坂道の孤独参味」を雑誌『人間』(新進作家創作集)に発表。9月、「痴想」を雑誌『早稲田文学』に発表。それぞれ新進作家として認められる。時事新報社を辞め、鈴木せつを伴って小田原へ帰り、結婚。東京の友人のいなくなった淋しさもあって酒に親しむようになる[9]。

1922年(大正11年)4月、同人誌『白磁』を創刊し、「池のまわり」を発表。6月、長男・英雄が誕生。9月、「鞭撻」を同人誌『象徴』(『金と銀』の継続誌)に発表。10月、「妄想患者」を雑誌『新小説』に発表。1923年(大正12年)、妻子と共に熱海に転居。6月、「熱海へ」を雑誌『新潮』に発表。これは最初の“父親小説”となる。7月、「地球儀」を雑誌『文藝春秋』に発表。9月1日の関東大震災により、小田原へ帰る。10月、中戸川吉二から、雑誌『随筆』創刊(11月)のための協力を求められて単身上京。東京市牛込区天神町(現:新宿区天神町)の佐佐木茂索の家の一室の編集室に住む。『随筆』の編集を通じ、宇野浩二、葛西善蔵、久保田万太郎らと知り合う。

1924年(大正13年)1月、「スプリングコート」を雑誌『新潮』に発表。3月、父・久雄が急死する。4月、妻子を東京に呼ぶ(やがて下谷区上野桜木町(現:台東区上野桜木)に住む)。5月、「父を売る子」を雑誌『新潮』に発表。8月、最初の作品集『父を売る子』(「新進作家叢書」)が新潮社より刊行される。9月、雑誌『新潮』が「人間随筆――最近の牧野信一氏」を小特集する。滝田樗陰に認められ、10月、「父の百ヶ日前後」を雑誌『中央公論』に発表。以後、“『中央公論』の作家”と目される。11月、「蝉」を雑誌『新潮』に発表。12月、雑誌『随筆』終刊。

1925年(大正14年)1月、「秋・二日の話」を雑誌『新潮』に発表。4月、「『悪』の同義語」を雑誌『中央公論』に発表。“悪の同義語”とは、母親のことを指している[13]。5月、「貧しき日録」を雑誌『新潮』に発表。8月、「観魚洞風景」を雑誌『女性』に発表。9月、「鏡地獄」を雑誌『中央公論』に発表。10月、「秋晴れの日」を雑誌『新潮』に発表。「極夜の記」を雑誌『文藝春秋』に発表。旺盛な執筆を見せ、文壇に進出する。12月、芝区二本榎町の夫人の実家に同居する。父親の死後、牧野の作品には、陰湿な「母親攻撃」の様相が現われる[14]。

1926年(大正15年、昭和元年)1月、「毒気」を雑誌『中央公論』に発表。「悪筆」を雑誌『新潮』に発表。3月、東京府豊多摩郡杉並村大字阿佐ケ谷字東向(現:杉並区阿佐ケ谷一丁目)に転居。4月、「冬の風鈴」を雑誌『文藝春秋』に発表。5月、「蔭ひなた」を雑誌『中央公論』に発表。5月、雑誌『新潮』が「新進作家の人と作との印象――牧野信一氏の印象」を小特集する。7月、「お蝶の訪れ」を雑誌『新小説』に発表。9月、「素書」を雑誌『新潮』に発表。父親の死後、生家は負債を抱え、信一名義の家屋敷や土地を親類に詐取され、没落してゆく。

1927年(昭和2年)1月、「F村での春」を雑誌『女性』に発表。2月、「西瓜を喰ふ人」を雑誌『新潮』に発表。3月、「鱗雲」を雑誌『中央公論』に発表。この頃、神経衰弱に陥り、プロレタリア文学の進出に押され、小田原に帰る。痔疾のために病院に通う。4月、「山を越えて」を雑誌『太陽』に発表。鈴木十郎の姉の世話で借りた小田原郊外の海浜の一室を仕事場とする[15]。6月、「昔の歌留多」を雑誌『婦人公論』に発表。7月、「藪のほとり」を雑誌『新潮』に発表。9月、「雪景色」を雑誌『文藝春秋』に発表。健康の回復を目指して、海岸や附近の山々を散策する。

1928年(昭和3年)1月、「十三夜までのこと」(のち「鶴がいた家」と改題)を雑誌『太陽』に発表。2月、「舞踏会余話」を雑誌『文藝春秋』に発表。6月、「村のストア派」を雑誌『新潮』に発表。作品に豊かな夢想が見受けられはじめる[15]。作品9月、「小川の流れ」を雑誌『文藝春秋』に発表。この年、プラトンの『ソクラテスの弁明』、『クリトン』、アリストテレスの『詩学』、ミゲル・デ・セルバンテスの『ドン・キホーテ』、ゲーテの『ファウスト』、スウィフトの『ガリバー旅行記』、スターンの『感傷旅行』(A Sentimental Journey)などを愛読。作風の転換をはかる。

1929年(昭和4年)1月、「熱い風」を雑誌『新潮』に発表。5月、「円卓子での話」を雑誌『新潮』に発表。6月、「山彦の街」を雑誌『文藝春秋』に発表。8月、「駈ける朝」を雑誌『新潮』に発表。12月、『牧野信一集』(『瀧井孝作集』と一冊の「新進傑作小説全集」)が平凡社より刊行される。作家としての絶頂期を迎えつつあり、中堅作家としての地位を獲得する。この年、足柄上郡山田村の村長・瀬戸佐太郎と知り合う。その周辺を背景とした田園叙事詩的作風が漸次あらわれようになる。

1930年(昭和5年)1月、「ラガド大学参観記」を雑誌『文藝春秋』に発表。3月、「吊籠と月光」を雑誌『新潮』に発表。ゲーテの『ファウスト』の影響などが見受けられる[15]。4月、単身上京。豊多摩郡中野町大字中野(現:中野区中央三・四丁目)の義弟・浅尾辰雄方に寄宿し、のち東京市麹町区五番町(現:千代田区一番町)の松栄館に下宿。雑誌『作品』の創刊準備に係わる。井伏鱒二、小林秀雄、河上徹太郎らと知り合う。5月、「アウエルバッハの歌」を雑誌『作品』創刊号に発表。6月、「西部劇通信」を雑誌『作品』に発表。7月、「歌える日まで」を雑誌『文藝春秋』に発表。「くもり日つづき」を雑誌『作品』に発表。8月、「R漁場と都の酒場で」を雑誌『経済往来』に発表。9月、尾崎士郎の勧めで、荏原郡大森町大字新井宿字山王(現:大田区山王)に転居。妻子を呼び寄せる。10月、「変装綺譚」を雑誌『新潮』に発表。11月、単行本『西部劇通信』を春陽堂より刊行する。

1931年(昭和6年)1月、東京市芝区三田南寺町(現:港区三田四丁目)に転居。いわゆる魚籃坂時代が始まる。2月、「痴酔記」を雑誌『文藝春秋』に発表。5月、「南風譜」を雑誌『婦人サロン』に発表。7月、「『風博士』」を雑誌『文藝春秋』巻末折込みの「別冊文壇ユウモア」に発表し、先月同人雑誌『青い馬』に掲載された坂口安吾の「風博士」を激賞する[16]。10月、「ゼーロン」を雑誌『改造』に発表。「夜の奇蹟」を雑誌『オール讀物』に発表。春陽堂より雑誌『文科』を創刊(主宰。翌年3月まで4輯を編む)。「心象風景」を雑誌『文科』に連載(翌年3月まで4回)。『牧野信一集』(『細田民樹・細田源吉・下村千秋集』と一冊、「明治大正昭和文学全集」)が春陽堂より刊行される。11月、小林秀雄との共訳でポーの「ユレカ」を雑誌『文科』に連載(12月まで)。12月、「バランダ物語」を雑誌『中央公論』に発表。この頃の2、3年が牧野にとって最も“得意な時代”であった。これは実家の経済的没落をきっかけに野外へ出たことで、ただの身辺雑記だけを綴る繰り返しから解放されたことが大きいとされている。

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