清水隆行の出身高校

清水隆行 プロ野球選手

清水隆行卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性

清水 隆行(しみず たかゆき、1973年10月23日 - )は、東京都足立区出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。

2009年から2012年までの登録名は清水 崇行(読み同じ)。

浦和学院高等学校から東洋大学へ進学。大学時代の同期生には、後に巨人で共にプレーすることになる川中基嗣がいる。東都大学リーグ通算78試合出場、253打数71安打、打率.281、6本塁打、46打点。ベストナイン4度受賞。4年時には福岡で開催されたユニバーシアード日本代表にも選ばれ銅メダル獲得。1995年のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。

ルーキーイヤーの1996年から安定した打率を叩き出し、外野手のレギュラーに定着。同年はリーグ優勝にも貢献した。当初のポジションは左翼手と中堅手を兼任していたが、松井秀喜の中堅手コンバートに従い左翼に定着。不動の2番だった川相昌弘の出場機会の減少に準じ、監督の長嶋茂雄に「バントと併殺が少ない攻撃型の2番打者」として起用されることになる。

同期入団の仁志敏久と不動の1番・2番コンビ、中堅手の松井、右翼手の高橋由伸と不動の外野陣を形成することになる。

1997年は初の規定打席到達を果たした。チームはBクラスに沈んだが打率.304をマークするなど気を吐いた。

1998年も3割を記録した。

1999年は打撃3部門全てで成績を下げた。打率.295で3割は逃したが決して悪い数字ではなかった。

2000年はさらに打率を下げたが、引き続きレギュラーとして出場し、チーム3年ぶりのリーグ優勝と6年ぶりの日本一に貢献した。

2001年は規定打席不足に終わったが、打率.324と高打率だった。なおこの年チームは2位でシーズンを終了したが長嶋監督がこの年限りで勇退した。

2002年は新監督の原辰徳の構想で1番打者に抜擢され、2年ぶりに規定打席に到達し、最多安打のタイトルを獲得。リーグ優勝・日本一に大きく貢献した。

2003年3月28日の中日ドラゴンズとの開幕戦で前年巨人相手にノーヒットノーランを達成した川上憲伸から先頭打者本塁打を放つ幸先のいいスタートを切ったが(巨人では1956年与那嶺要以来)、メジャーリーグ移籍した松井の穴を埋める中堅手の守備練習や開幕早々の肉離れなどの故障などが重なり打率.240、14本塁打の成績に終わり、規定打席にも到達しなかった。

2004年に監督就任した堀内恒夫は、中堅手に当時成長著しかった斉藤宜之の起用を明言。元々外野手としての守備力に難があった清水は一塁手の練習を提案された。しかし、斉藤の故障などもありスタメン復帰を果たし、2年振りの打率3割をマークし、自己最多の16本塁打を記録した。この年チームはシーズン最多記録を更新する259本塁打を記録したが100打点を達成した打者が一人もいなかったこと、チーム最多の盗塁を記録したのが鈴木尚広の9と機動力をあまり駆使しせず繋がりを欠いたことや抑え投手陣を固定できなかったことでチームは3位でシーズンを終えた。

2005年にはセンターラインの強化にゲーブ・キャプラー外野手を獲得。清水は再び一塁手の練習に本格的に取り組むことになるが、選手層の厚さから序盤は代打に回される。キャプラーは打撃はもとより守備にも精彩を欠き、4月後半にはキャプラーと左翼を併用され、5月には定位置に復帰している。5月の西武ライオンズ戦では西武先発の西口文也が9回2アウトまでノーヒットノーランの投球を見せ、2アウト後の打席でノーヒットノーランを阻止するホームランを放ち、ノーヒットノーランの屈辱を回避することに成功した。もし、達成されればチームとしては3年ぶりの屈辱だった。その後も好調を維持し、終わってみれば2年連続で打率3割を記録した。

2006年、原辰徳が監督に復帰。前年のシーズン途中より台頭した矢野謙次・鈴木尚広、シーズン途中に移籍してきた木村拓也・小関竜也などとの外野のポジション争いが熾烈を極めていたが、原は「清水・由伸は格が違う」と発言、左翼のスタメンを確約される。秋季キャンプで広岡達朗の指導で課題のスローイングの修正に取り組み、万全の体制でシーズンを開幕したかに思われた。6月3日の西武戦では左投手キラーの星野智樹からサヨナラ本塁打を放ち、翌日4日は初回に相手先発の西口から先頭打者ホームランを放ち、同点の9回にはサヨナラ犠飛を放ち、2試合連続でのサヨナラ打となった。しかし、その後は打撃が低迷し続け、打率2割近辺を上下するほどの打撃不振から抜け出せなくなってしまう。7月26日にはプロ入り11年目にして初めての二軍での調整試合を経験。再昇格後はセンターやライトでの出場も多くなる。打率.216、6本塁打という過去最低の打撃成績となり、大幅減俸を受け入れる。生え抜き野手最年長であった仁志の移籍により、当時の生え抜き野手最年長となった。

2006年に巨人で規定打席に到達した外野手はゼロとなり、高橋由と清水は出場機会を確保したものの、矢野や鈴木の台頭により、この年後半以降は不動のレギュラーを剥奪される。

2007年は豊田清と一足早く自主トレに入り、鈴木や移籍してきた谷とともに「1番候補の一人」として春季キャンプを迎えた。だが怪我により開幕一軍からは外れ、前半戦は不調に苦しみ、一軍と二軍を往復。後半戦に入り徐々に調子を上げていき、スタメンでの出場機会も増えていった。特に9月以降は目覚しい活躍をみせ、少ない打席数ながらシーズン打率.339を挙げた。また、低めだった出塁率もこの年は4割を超えた。10月2日の対ヤクルト戦ではチームを5年ぶりのリーグ優勝を導く内野安打を放ち、中日とのクライマックスシリーズでも7番・センターでスタメン出場、左腕小笠原孝からヒットを放ちチャンスメイク。第2戦・第3戦は高橋由伸の腰痛による離脱で1番に入り、全3戦にスタメン出場した。

2008年のオープン戦は再び感覚の狂いに苦しみ、また隠善智也の台頭などもあり2年続けての開幕二軍スタートとなった。二軍で結果を出したことや、一軍での故障者が続出したこともあり5月1日に一軍登録され、その日の対広島戦(東京ドーム)の6回裏に代打で登場。シーズン初打席でレフト前ヒットを放った。その後も主に代打要員として起用されるが、打率は1割台に低迷するなど不振から抜け出せず、後半戦は一軍出場が無かった。本塁打が0に終わったシーズンは入団後初めてであった。11月15日、自ら志願し、金銭トレードで埼玉西武ライオンズに移籍。

移籍後の2009年1月8日、登録名を清水 崇行に変更した。同年の4月3日の開幕戦千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)では7番指名打者で先発出場すると3打数3安打と起用に応えた。開幕から4試合連続でスタメン出場するなど序盤は好調で4月9日のオリックスバファローズ戦(西武ドーム)での試合では3安打で再び猛打賞を記録した。しかし、次第に成績を落としていった。最終的に44試合の出場で1本塁打、打率.208と力を発揮できず、この年限りで現役を引退した。なお引退試合は開催されていない。

2010年より日本テレビ(同年限りで引退した立浪和義、赤星憲広とともに)・RFラジオ日本の野球解説者、スポーツ報知の野球評論家を1年間務める。2011年からは古巣・読売ジャイアンツの二軍打撃コーチを務める。2014年からは一軍打撃コーチを務める。2015年はチーム打率・安打数がリーグ最下位に低迷し、10月22日に今季をもって退団することが決まった。

2004年シーズンから、安打1本につき1万円を盲導犬育成のために募金していた。2006年は68安打だったが「キリが良いから」と100万円を寄付した。

巨人に入団した年に1996年のメークドラマを経験し、西武に移籍する前年には2008年のメークレジェンドを経験。両方を経験した唯一の人物である。なお、1996年は広島、2008年は阪神に所属していた金本知憲は、敗者側として、双方を経験した唯一の人物である。

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