清水幾太郎の出身高校

清水幾太郎 学者

清水幾太郎卒業高校
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性別
男性
生年月日
1907年7月9日生まれ

清水 幾太郎(しみず いくたろう、1907年7月9日 - 1988年8月10日)は、日本の社会学者、評論家。

東京市日本橋区(現在の東京都中央区)の竹屋の息子として生まれる。祖父は江戸幕府旗本であった。獨協中学、旧制東京高校を経て、東京帝国大学文学部社会学科卒業。在学中からオーギュスト・コントの研究にいそしむ。中学時代にドイツ語を学んで堪能であったが、フランス語は大学時代に習得。180cmを越える長身であった。

大学卒業後、1931年東京帝国大学社会学研究室副手、1932年「唯物論研究会」幹事、1938年「昭和研究会」文化委員、1939年東京朝日新聞社学藝部専属、1941年讀賣新聞社論説委員、終戦時は海軍技術研究所嘱託。戦後は1946年二十世紀研究所設立、1949年平和問題談話会設立。戦後の平和運動(=反米運動)において大きな役割を果たしたが、60年安保闘争の総括をおこなって以後は、運動面からは手を引き専ら著述に専念した。

林達夫とならぶ優れた日本語の書き手としても評価され、清水自身も『論文の書き方』をはじめ、文章の書き方を論じた著書を執筆している。

現代思想研究会を主宰して香山健一・森田実・中嶋嶺雄らを育てた。

『日本よ 国家たれ:核の選択』では反米という観点から平和運動を批判、平和運動からの振幅の大きさが論議を呼ぶと共に、核武装の主張をめぐって猪木正道らと論争。さらにかねてから親交のあった福田恆存にも、転向後に論難される。だが、実際にはこの「転向」は偽装に過ぎず、『自分は今でも完全な共産主義者で、転向はしていない』と1983年夏にインタビューした中川八洋に告白しており、中川は以降現在に至るまで清水を厳しく批判している。

1949年から1969年まで学習院大学教授を務める。当時、学習院大学に在学していた皇太子時代の明仁親王(今上天皇)に単位を与えなかったとも言われている。(外国訪問のため皇太子の出席日数が足りなくなり、外国訪問を授業の代わりとして単位を与えるとする案が出されたが、これに対し清水が他の学生が苦労して単位を取得しているのに皇太子だけを特別扱いするべきではなく、それならば聴講生になっていただければ良いという論旨で反対したとされる)。

長女は青山学院大学教授を務めた清水礼子。孫に明治大学教授の清水真木がいる。

東日本大震災後の2011年、『流言蜚語』が再版されて注目を集めている。

平和運動の担い手として注目された清水だが、昭和十七年新年号の『改造』誌では「大東亜戦争という名称の底に潜んだ雄大な意図と構想とは、生活観の是正を可能にするであろうし、またこれを前提として、この大規模な戦争の遂行も可能になるであろう」という戦争賛美の発言や、昭和十七年の著書『思想の展開』では「ヒトラー総統の下に、全ドイツの青年が自己の力と生命とを、文字通り民族の力と生命とに化している背後に、ドイツに於ける青年研究の伝統が横たわっていることを知るべきである」というナチズム賛美、『流言蜚語』では言論統制の肯定を著していた。暴露本『進歩的文化人 学者先生戦前戦後言質集』には清水について、次の副題が付けられている。

清水幾太郎(学習院大学教授)戦争と言論統制を謳歌した平和教祖

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