海音寺潮五郎の出身高校

海音寺潮五郎 作家

海音寺潮五郎卒業高校
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作家ランキング
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性別
男性

海音寺 潮五郎(かいおんじ ちょうごろう、1901年(明治34年)11月5日 - 1977年(昭和52年)12月1日、戸籍上は3月13日生)は、日本の小説家・作家。本名は末富 東作(すえとみ とうさく)。鹿児島県伊佐郡大口村(現・伊佐市)生まれ。次女は日本テレワークの社長を務めた末冨明子(2011年6月19日没)。

1901年、鹿児島で生まれる。幼いときに体が大きかったことから、1年繰り上げで小学校に入学。実際は何をするにも1歳年上の同級生たちに及ばず、学校生活は苦労の多い辛いものだった(のちにこれが文学を志すきっかけとなったと語っている)。國學院大學高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年作家デビュー。歴史小説を多数発表した。國學院大學教授で戦国史の大家であった桑田忠親との交友も深かった。

「天正女合戦」(『オール讀物』1936年4月号 - 7月号)と「武道伝来記」その他 (『日の出』1936年3月号)で第3回直木三十五賞(1936年上半期)を受賞。

史伝『西郷隆盛』がライフワークで、絶筆・未完作となった。

大口酒造が製造・販売する焼酎「伊佐錦」のラベルの題字も手がけた。

「海音寺潮五郎」という筆名の由来については、海音寺本人が『日、西山に傾く』収録の「夢想の筆名」の中で詳しく説明している。それによると、この筆名を初めて用いたのは昭和4年の上半期に「サンデー毎日」の懸賞小説に応募したときであるという。

当時、海音寺は中学の教師をしていたが、小説を書くという行為に対して世間の理解が乏しかったため、本名を隠すためにペンネームを検討していた。そのうち、うとうと眠ってしまった海音寺は、これまで一度も行ったことがないにも関わらず、紀州の浜辺で眠っているという夢をみた。その夢の中の夢で、誰の声ともわからないが「海音寺潮五郎、海音寺潮五郎、…」と呼ぶ声が聞こえ、そこで夢から覚めた。そして、「ああ、これでいいや。これならわかるまい」と思い、ペンネームとして「海音寺潮五郎」を用いることにして、小説を応募したとのことである。なぜ「海音寺潮五郎」という名前が急に思い浮かんだのかについて海音寺は、「上田敏の訳詩集「海潮音」や近松門左衛門と才をきそった紀海音などのことが意識の深層部にあったのかもしれない」と説明している。

このとき懸賞小説として応募した『うたかた草子』は見事当選したが、本名を秘匿して欲しい旨を明示していなかったため、ペンネームと共に公開されてしまい、ペンネーム案出の苦心は何の役にも立たなくなったという、オチがついている。

のちに三田村鳶魚に「君の名前は『観音経・下』にある」と言われ、読んだところ、その意味からすると、人が書けないようなものを書くという意味になり、傲慢な命名であったことを知り驚いたという。

海音寺を語るときに取り上げられる話題のひとつとして、史伝文学の復興に対する功績がある。これは後年、海音寺が菊池寛賞を受賞したときにも選出理由として挙がっている。

史伝文学とは、歴史上の人物や事件を対象として作品を物語風に記述にあたっても、フィクションの要素を完全に排除し、広範かつ詳細な文献調査などをもとにして、歴史の真実はどのようであったかを明らかにしようとする形態の書物を指す。

日本においては、明治期の山路愛山、福本日南、徳富蘇峰など、大正期の森鴎外や幸田露伴、白柳秀湖などが史伝を執筆していた。しかし、昭和期に入ると、新しい書き手の台頭もなく、ジャンルとしての人気も衰えていった。このような中、海音寺は日本人から日本歴史の常識が失われつつあるとして当時の状況を憂慮し、本人の表現を借りると「文学としての史伝復興の露ばらいの気持ち」を込めて、歴史の真実を伝える史伝文学の執筆に精力的に取り組むことになった。また、歴史はまず文学から入るべき、という考えを持っており、日本の義務教育制度における歴史教育について、子供に最初から史実のみを社会科学的に教えることは、歴史への関心を失くすとともに、一方の側からのみの宣伝を教えることになると批判的でもあった。

その代表作が1959年から『オール讀物』(文藝春秋)に連載された「武将列伝」と「悪人列伝」である。この両作品に収録されている人物伝は、各編が独立した読み物の形式になっているが、これらを時代順に並べ替えて読めば日本歴史の全体が分かる内容となるように、それによって日本人に日本歴史の常識を持ってもらいたいとの希望を持って執筆された。海音寺は「できれば200人、少なくとも100人の人物伝」を書き上げたいと考えていたが、結局、武将列伝33人、悪人列伝24人の計57人の段階でまとまった作品として出版することになった。想定通りの人数に達しなかったことについて海音寺は「恥をしのんで出す」とその心境を述べている。

上記の作品の他にも『列藩騒動録』や『幕末動乱の男たち』など多くの史伝を執筆しているが、これらの作品に触発され、その後、いろいろな作家が史伝を発表するようになった。これについて海音寺は「露ばらいをつとめたつもりのぼくとしては、この上ないよろこびである」との感想を残している。

海音寺は第1回直木賞から候補者として名を連ね、第3回で受賞しているが、この当時、既に多くの作品執筆依頼があり、作家としての生活が軌道にのっていた海音寺は、創設直後の直木賞にあまり魅力を感じなかったこともあり、同じく第1回から候補者となっていた浜本浩が受賞すべきだとして受賞辞退を申し出た。しかし、「既に決まったことだから」という関係者の説得に折れて、受賞を承諾している。

なお、受賞作は一般に「天正女合戦」と「武道伝来記」の2作品とされているが、これは当時の選考委員だった吉川英治らがこの両作品を批評していることを根拠とするものであり、受賞作がこの2作品であると明記されている文献は存在しない。

授賞式を終えた海音寺は、郷里に帰る予定にしていたため列車に乗り込んだが、その列車に授与されたばかりの賞金と懐中時計を置き忘れてしまった。列車を下車した後でそのことに気づき、あわてて次の停車駅に電話してもらったところ、無事に戻ってきたとのことである。海音寺は後年、「まだまだ、よい世なみだったのである」と、このときの事を回想している。直木賞創設当初の賞金は500円、副賞の懐中時計はロンジン社製であった。

第39回の直木賞から選考委員をつとめ、第63回を最後に委員を辞任するまで、全ての選考委員会に出席し、選評を書いた。この間、特に第42回の受賞者となった司馬遼太郎を海音寺が非常に高く評価し、受賞に導いた。

一方で、文学観の異なる作家には非常に厳しい評価を下しており、例えば、第40回から候補者となっていた池波正太郎に対しては酷評といっていいほどの低評価を繰り返し下しており、池波が受賞者となった第43回では、「こんな作品が候補作品となったのすら、僕には意外だ」とまで極言し、結局、直木賞選考を辞退するまでにいたる。

鹿児島県出身の直木賞・芥川賞受賞者は、2014年上半期現在、海音寺だけである。

海音寺は西郷隆盛が登場する作品を多数執筆している。特に、歴史の真実を明らかにする目的をもった史伝形式の作品で西郷隆盛を繰り返し取り上げているのが特徴である。この理由として海音寺が語っているところによれば、西郷は明治維新最大の功臣でありながら、後世の歴史家に誤解されている面が多々あり、その歪んだ西郷像が歴史知識として一般に定着してしまうことを避けるために、真の西郷像を書こうとしたとのことである。

これは歴史を深く知る作家としての使命感からの執筆理由であるが、その背後にある感情として、西郷隆盛は海音寺の故郷である薩摩(鹿児島県)の英雄であり、幼い頃から西郷隆盛や薩摩藩士の話に親しんだ海音寺は「西郷のことが好きで好きでたまらないから」であり、また自身にとって〈西郷の足跡と西南戦争〉をたとえていうなら、「西洋人にとってのホーマーでありイリアッドの如きものである」とも述べ、いかに根本的なものであったかを強調している。

海音寺潮五郎が西郷隆盛を取り上げた主な作品は次の通りである。

海音寺は1969年(昭和44年)4月1日、「今後、一切、新聞・雑誌からの仕事は受けない」という旨の引退宣言を『毎日新聞』紙上で発表して、世間を驚愕させた。あたかもこの年、1月からNHK大河ドラマとして海音寺の作品を原作とする『天と地と』の放送が開始されており、その影響もあって著作がベストセラーとなっていた最中の、まさに人気絶頂での引退表明であった。原作発表から既に10年近くが経過しているなかで、マスコミの力を借りなければ作品が読まれない状況に不満を抱いての引退宣言であるとの見方が一般的であった。

しかし、後に海音寺自身が心境を語ったところによると、この宣言の数年前から「引退の念、しきりなるものがあった」と告白しており、親しい知人には前もってその意図を告げてもいた。海音寺が挙げている引退宣言の理由は、自分自身の人生に限りがあることを意識した上で、

に向けた執筆活動に注力するためであり、これらの目標を達成の後、なお時間があれば買い置いてある二十四史と資治通鑑を読みながら余生を送りたいとのことであった。

このように明確な目的意識をもっての引退宣言であり、その後の執筆活動の多くは海音寺が最も重要視する長編史伝『西郷隆盛』の完成のために費やされたようであるが、結局はこれも1977年に海音寺が急逝したことで未完となってしまった。人物列伝の充実、5部作『日本』の完成についても同様で、どちらも当初の意図を達成しないまま終わっている。

海音寺には「日本」と題する一連の作品群がある。これは江戸幕府末期から昭和の敗戦に至る時代を背景に、海音寺自身の故郷でもある薩摩を舞台の中心として、そこに暮らした庶民の生活を通して日本の近代史を描いていく意欲作である。この「日本」に含まれる作品は執筆された順に

であり、中でも「二本の銀杏」は、海音寺文学を代表する傑作とされている。海音寺の故郷鹿児島県大口市には、この作品に登場する大銀杏のモデルとなった木が実在している。

「日本」は当初3部作として計画されていたが、作品の執筆が進むについて3部では収まりきらないことが確実になり、あらためて5部作として構想し直された。海音寺は1969年の引退宣言後、残り2作品の完成を重点活動の一つと位置づけていたが、結果的には執筆できないままこの世を去った。そのため、この「日本」は3部作として扱われる場合もある。

海音寺の死後に残された遺稿の中から、「一本の樫」と名付けられた未完の草稿が発見されている。これは太平洋戦争前後の時期を舞台とした作品で、5部作の最後の部分にあたるものとされる。晩年の海音寺は、西郷隆盛伝を中心とする史伝の執筆を中心に精力を注いだため、純粋な小説はほとんど執筆されておらず、もし残り2作が完成していれば貴重な作品となっていた。

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