武藤敬司の出身高校

武藤敬司 スポーツ選手

武藤敬司卒業高校
富士河口湖高校 偏差値 山梨県高校偏差値ランキング
スポーツ選手ランキング
1935位 / 2530人中 スポーツ選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1962年12月23日生まれ
血液型
A型

武藤 敬司(むとう けいじ、1962年12月23日 - )は、日本の男性プロレスラー。WRESTLE-1を運営するGENスポーツエンターテインメント代表取締役。山梨県富士吉田市出身。山梨県立富士河口湖高等学校卒業。闘魂三銃士の1人で、タレントとしての窓口もGENスポーツエンターテインメントがおこなっている。「武藤塾」の塾長、山梨県の観光大使も務めている。血液型はB型。

娘は子役の武藤愛莉。

『日本マット界の至宝』と言われる。プロレスに必要なパワー、スピード、テクニック、センスを極めて高い次元で併せ持った選手として活動を続け、その素質故に「天才」「GENIUS」「平成のミスタープロレス」「Legend」「天才を超えた魔術師」などの賞賛をほしいままにして来た。アメリカでの実績から現在活躍している外国人レスラーの中にもファンは多く、彼らからは敬意を込めて「マスター」などとも呼ばれている。このことから、近年は「プロレスリング・マスター」という愛称が定着しつつある。日本だけでなくアメリカのプロレス界でも抜群の知名度を持つが、未だにWWEでは試合をしておらず、WWEに出場していない最後の大物レスラーの一人でもある。

小学2年生のときに、ドラマ「柔道一直線」を見て柔道を習い始める。学年で一番背が高かったにもかかわらず、バック転やバック宙、鉄棒の大車輪を器用にこなす運動神経の持ち主であった。小学5年生のときには、柔道と並行して少年野球チームにも入り、エースで4番を任されている。

中学に入ると一度は野球部に入部するも、その後すぐに柔道部に転部。3年で初段黒帯。高校卒業後は、東北柔道専門学校(現・学校法人東北柔専 仙台接骨医療専門学校)に進学。全日本ジュニア柔道体重別選手権大会95kg以下級3位。学校では柔道整復師の免許も取得。

1984年、新日本プロレスの選手が通院していた接骨院に勤務していた東北柔道専門学校の先輩のツテで新日本プロレスを紹介され21歳で入門。後に闘魂三銃士となる蝶野正洋、橋本真也は同日入門であり、野上彰、15歳の船木誠勝よりも少し後輩にあたる。船木誠勝、蝶野正洋らによると、入門3日ほどで山本小鉄に辞めたいと言ったことがある。スクワットの練習中、山本小鉄が「嫌ならやめていいんだぞ」と言ったところ武藤は練習を投げ出し、「辞めます」と言い放った。小鉄はたじろぎ、他の練習生であれば引き留めるはずもないところだが「お前、辞めるなんて言うな」と言ったという。さらに小鉄は「あと1週間だけ辛抱してみろ、それでもいやなら辞めても構わない」と言い、それを聞いた武藤は「俺って期待されているんだ」と確信し、そのまま練習を続ける決意を固めた。共に練習していた蝶野は、「武藤が『あの逸材だから』相手がどう反応するか判っていて駆け引きをしていたようだ」と語っている。この時の様子などは闘魂三銃士の自伝「烈闘生」に詳しく書いている。同期の蝶野、橋本らと共に厳しいトレーニングの日々が始まるはずだったが、前田日明、藤原喜明、高田延彦らが第一次UWFへ移籍し、半年後には長州軍13人が全日本プロレスへ移籍してしまったため、怖い先輩がいなくなってしまいやりたい放題だったという。同年10月の武藤のデビュー戦の相手は同じくデビュー戦の蝶野であった。

柔道の猛者であったため入門当初からアントニオ猪木、坂口征二、藤原喜明らと互角にスパーリングをする実力と天性の運動神経とルックスから、早くから将来のエース候補と目され、ヤングライオン杯優勝を経ることなく海外遠征(米フロリダ地区)に出発、グレート・ムタの前身でもあるホワイト・ニンジャというリングネームで活動し、当初はベビーフェイスだったが、タッグマッチで相棒のワフー・マクダニエルを裏切りヒールに転向した。

NWAのフロリダ地区では、1986年5月21日にケンドール・ウインダムからフロリダヘビー級王座を奪取、タイトル初戴冠を果たした。しかし、6月にビデオで反則していたことが判明し、王座を返還させられる。尚、フロリダ時代の彼女の名前がハッピネスちゃんでありレストラン等で名前を呼ばれると注目されたと自叙伝で告白している。その後アラバマのコンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリングで活動し、同年9月1日、NWA US ジュニアヘビー級王座を奪取した。

帰国後、「スペース・ローン・ウルフ」なるギミックで売り出される。当時はリング登場時のコスチュームに宇宙飛行士のヘルメット(そのスタイルの初期のみ着用、というより頭に被らずに手に携えてリングインするという感じであった)をかぶり、ブルゾンタイプのガウンに胸元に“610”(「ムトウ」の意)と書かれていた。本人曰く、ヘルメットをかぶったのは猪木より「ヘルメットのスポンサーが付くかもしれないからかぶれ」と言われたとのことだがヘルメットのスポンサーは付かなかったという。所々ラメの入った青いロングタイツに白いリングシューズで真っ直ぐのふさふさした頭髪は『ジャニーズ系レスラー』であると、プロレス雑誌に書かれた。ちなみにテーマ音楽は「ファイナル・カウントダウン」で、リングに入場する際はロープ間を跨ぐようなことはせず、鉄棒の前転をするような形でトップロープ上を宙返りしリングインする派手なパフォーマンスをしていた。ところが、当時新日本はUWFの抗争真っ最中であり、おおらかなアメリカンプロレスを身に付けた武藤はファンの支持を得られず失敗。とはいえ、早い時期から藤波辰巳とのシングルマッチを実現するなど特別な扱いを受けていた。またナウリーダーとニューリーダーとの世代闘争にも参加しており何故かナウリーダー側として5対5のイリミネーション・マッチ等に参戦していた。

その後、再び海外修行に出る。プエルトリコのWWCではベビーフェイスのスーパー・ブラック・ニンジャとして活動し、1988年2月6日にインベーダー1号からWWC TV王座を、同年5月14日にミゲル・ペレス・ジュニアからWWCプエルトリコ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した。

WWCの活躍を受けてアメリカに呼び戻され、(ギミック上はザ・グレート・カブキの息子)「グレート・ムタ」としてNWAのジム・クロケット・プロモーションズ(後のWCW)に登場し、アメリカのプロレスファンに人気を博した。当時のアメリカでの人気は絶大で、グレート・ムタがスティングやリック・フレアーと対決するのをテレビで見てレスラーを志したアメリカ人レスラーも多い。帰国後も、武藤は様々なコスチューム(後述)で「グレート・ムタ」を登場させた。

凱旋帰国と同時に赤、オレンジ色のショートタイツにコスチュームを変え、やがて人気・実力ともに絶頂期を迎える。(当時の実況担当の辻義就<現・辻よしなり>から「セクシーターザン」「ときめきバージンレッドの熱い風」と形容される)

新日本プロレスにおける武藤の絶頂期は1995年と言える。この年は2月にスコット・ノートンに敗れてスランプ状態に陥ったものの、5月3日、福岡ドームで当時最多防衛記録を樹立していた橋本真也を破って第17代IWGPヘビー級王者となった。8月15日、同じく橋本真也を破り、IWGP王者としては初となるG1 CLIMAX優勝者となった。さらに、10月9日東京ドームでの「激突!!新日本プロレス対UWFインターナショナル全面戦争」のメインイベントでの高田延彦戦は、敢えてこの決戦用にドラゴンスクリューからの足4の字固めという古典的な技を復活させて勝利を収めた。これらの活躍が評価されて、同年のプロレス大賞MVP。なお、G1で優勝した際の副賞としてガウンを贈呈されたのをきっかけに、以後のビッグマッチにおいてガウンを着用するようになる(普段はTシャツ姿で入場)。

1997年2月、蝶野正洋率いるnWo JAPANからTシャツを渡されたり、背中に「nWo」とスプレーで書かれたりという演出などにより勧誘を受ける。4月12日の東京ドーム大会でグレート・ムタとして蝶野に勝利するが、試合後二人は共鳴し、WCWでのアメリカ遠征で正式にムタとしてnWoに加入。6月に正規軍の武藤として、当時王者だった橋本に挑むが敗戦。試合後、nWoジャパンの控え室に戻ったことから、本格的に正規軍を離脱する。その後のシリーズからnWo JAPANのムタとしてG1にも参戦するなど活躍したが、膝の故障や度重なるタッグマッチでの亀裂、試合前のペイントする時間が多忙などが重なったことから、ムタをやり切ることに限界を感じて、9月23日にはムタから武藤に変身(試合中に退場して数分後にペイントを落として戻ってくる)し、武藤としてnWoに加入。赤から黒のショートタイツに変わり、その後イラストや英語の文字が記入された黒のロングタイツを着用し、髭を伸ばして、黒バットなどの凶器を使って、黒スプレーで小原道由の背中に「犬」と書いた上でリング外へ絞首刑にするなど(犬事件)ヒールに徹した。

1998年7月、膝の手術から復帰した後、ムタとして渡米することになって髭を剃り、“ナチュラル・ボーン・マスター”(生まれながらの天才)と呼ばれるようになる。この直後、nWo JAPANの総帥であった蝶野正洋が負傷して長期離脱。武藤が軍団の舵を取り「I AM BOSS」と連呼するようになり、欠場明けの小島聡をnWo JAPANに勧誘、年末に行われたG1タッグも小島聡とのタッグで優勝し、そのインタビューでは、「これは俺が作り上げたnWoだ! 蝶野の名前は出さないでくれ!」と発言。1999年、第24代IWGPヘビー級王者となると、蝶野と武藤との関係はこじれた。蝶野は復帰後、nWo JAPANを脱退して独自のユニット「TEAM 2000」を結成した。以後、「nWoジャパン VS TEAM 2000」の抗争が勃発し、最終的に2000年、1月4日の東京ドームで武藤が蝶野に敗れてnWo JAPANは消滅する(しかし真相は本家nWoの権利を持つWCWとの契約が満了したためだといわれている)。なお、1999年は1年間王者に君臨した評価が認められ、プロレス大賞MVPに選ばれている。

その後、武藤はWCWにグレート・ムタとして参戦。空港に着くなり、多数の報道関係者に取り囲まれ、アメリカ国内での人気はいまだに衰えをしらなかった。「あのプロレス史上最凶のヒールが帰ってきました」の賛辞で迎えられるが、バンピーロとのコンビでWCW世界タッグチーム王座は獲得し、スティングと抗争を行ったりしたものの、WWF(当時)より移ってきたビンス・ルッソーらにより、試合の機会を満足に得られないまま帰国。ちなみに武藤の帰国直後にWCWは消滅している。

2000年12月31日の大阪ドームで開催されたINOKI BOM-BA-YE 2000で国内復帰(この間、武藤が猪木との対談DVDを出すなどしていたことから、蝶野が一時期、武藤までも猪木にとりこまれたか?と警戒感を示したこともあった)。高田延彦と一夜限りのタッグを組み、ドン・フライ、ケン・シャムロック組と対戦。この試合は高田のバックドロップでシャムロックより勝利。ちなみに武藤がスキンヘッドになったのはこの試合からである(後述)。

2001年より新日本プロレスに復帰。1月28日、全日本プロレス・東京ドーム大会に参戦して太陽ケアに勝利。以後、定期的に全日本に参戦することになる。団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT(BAD ASS TRANSLATE TRADING)」を結成する。武藤は新必殺技シャイニング・ウィザードを引っ提げ、史上初の六冠王者(三冠ヘビー級王座、IWGPタッグ王座、世界タッグ王座(当時のプロレス誌のグラビアに、横たわった武藤の胴体や顔にまで6本のベルトが巻かれた写真があった)。ただし三冠ヘビー級王座と世界タッグ王座は事実上それぞれ一つのタイトルであるので実際は三冠王者)となった。さらに全日本プロレスの年末恒例の大場所である世界最強タッグ決定リーグ戦も制して、同年のプロレス大賞MVPに選ばれる。10月には全日本のリングで新日本プロレス所属同士で蝶野正洋と三冠戦が行われた。新日本プロレス、全日本プロレスの主力ベルトで、その時点で保持していないのは過去に自らも保持していたIWGPヘビー級王座のみとなり、武藤自身も次の標的は「猪木イズムの継承者」藤田和之と示唆していたものの、既に格闘技路線への疑問を公言していたこともあり、遂に実現しなかった。

2002年1月、藤田和之を中心とした格闘技路線に重心を移した新日本プロレスでは自身のアメリカでの実績なども潰されることになると考え、弟分の小島聡、ケンドー・カシンおよび新日本プロレスのフロントスタッフの5名と共に新日本プロレスを突如退団。2月26日に全日本プロレスに入団する。この時武藤は「全日本プロレスに骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います。」という名言を残した。なお、この時本当は「骨を埋める覚悟で……」と言うつもりであったが、あがっていたせいで「骨の髄までしゃぶっていただきたいと思います」と言ってしまったのだという。その他に馳浩からの勧誘もあったとされる。

移籍直後のチャンピオン・カーニバルでは初出場にして優勝を果たした。G1クライマックスとチャンピオン・カーニバルの両方を制覇したレスラーは武藤が初めてである(2005年には佐々木健介、2010年には小島聡、2011年には永田裕志も達成)。 7月20日の日本武道館大会では、黒師無双⇒武藤敬司⇒グレート・ムタと1日3変化で3試合をこなして、すべて勝利している。8月30日の日本武道館大会では、自らプロデュース興行を行った。10月には馬場元子社長から全日本プロレスの株式を譲り受け、オーナー兼社長となった。同年中には、K-1の石井和義と組み、エンターテイメントの要素を強く取り入れたプロレス「ファンタジーファイトWRESTLE-1(-レッスル・ワン)」という興行も行っている。

2003年には盟友、橋本真也率いるZERO-ONEに全日本プロレスの選手を率いて乱入。「全面戦争、やるのかやらないのかはっきりしろよ!」という言葉で宣戦布告する。この後、全日本プロレスとZERO-ONEは激しい抗争を繰り広げることになる。 また、4月29日に行われた「BAPE STA!! PROWRESTLING ZEPP TOUR」のZEPP FUKUOKA大会では覆面レスラーTHE APEMAN PLATINUMに変身した。

2004年から他団体のリングに積極的に進出するようになる。2年ぶりに新日本のリングに上がり、1月4日にはボブ・サップとタッグを組み、蝶野&天山広吉に勝利。その後、10月9日には、付き人を務めた西村修と組み、棚橋弘至&中邑真輔と対戦したが敗れている。ZERO-ONEのリングでは、2月29日に大森隆男と対戦して勝利。4月25日には、橋本とタッグを結成して勝利を収めたが、奇しくもこれが最後となった。 武藤と並ぶ天才としてプロレスファンから対戦を熱望されていた三沢光晴との対戦アングルが開始された。(試合ではないがこれ以前に2001年にPlayStation 2用ソフト『オールスター・プロレスリング2』のCMとデモムービーの撮影で2人は共演している。また2人の対談は『リングの魂』(テレビ朝日)において実現している)。2004年7月10日に行われたNOAH東京ドーム大会で初対戦(三沢・小川良成組 vs 武藤・太陽ケア組)。この試合では敗れたが、「夢の続き、見ませんか?」と三沢にメッセージを送った。これがきっかけに加えて、小島の対戦直訴により、三沢は古巣である全日本プロレスへの参戦を果たした。10月31日、両国国技館での武藤敬司デビュー20周年記念興行において武藤は三沢とドリームタッグを結成。馳浩・佐々木健介組と対戦して勝利を収めた。

2005年5月14日、新日本・東京ドーム大会でロン・ウォーターマンに勝利。3年ぶりに三冠戦に挑戦したものの、小島に敗北。その後、大相撲の横綱であった曙を呼び、プロレスラーとして育てた。その年の、最強タッグ準優勝に、プロレス大賞では最優秀タッグチーム賞にも輝いた。

2006年、年末の最強タッグリーグ戦には、闘魂三銃士とプロレス四天王のタッグとして川田利明と組み話題性があったものの、小島&天山の「テンコジ」にリベンジされて敗退。優勝を明け渡したが、2007年1月4日の新日本・東京ドーム大会で8年ぶりに蝶野とタッグを組み、テンコジに勝利した。3月には3度目のチャンピオン・カーニバル優勝を果たし、7月の三冠戦(鈴木みのる)には敗れたが、年末の最強タッグリーグ戦では、ジョー・ドーリングと組んで、6年ぶりに優勝。

2008年1月3日、タッグリーグ戦に優勝した勢いで世界タッグ王座を獲得した。4月27日、新日本・大阪大会で中邑を破り、1999年以来となるIWGPヘビー級王者になった。8月31日には、全日本のリングで初めてIWGPヘビー級選手権試合が行われて、G1 CLIMAX2008優勝者の後藤洋央紀を破って防衛に成功。その後、準優勝者の真壁刀義、リベンジに挑んだ中邑に勝利して、4度の防衛に成功。三冠王者になったムタの活躍も併せて評価されて、7年ぶりにプロレス大賞を受賞した。

2009年1月4日、レッスルキングダムIIIで棚橋に敗れてIWGPヘビー級王座5度目の防衛に失敗。3月14日、ムタとして高山善廣に敗れて三冠王座も失った。その後、FIGHTING TV サムライの企画で蝶野と対談。お互いにデビュー25周年興行を行い協力することになり、8月30日にデビュー25周年興行を開催。24年ぶりに同期生の船木誠勝とタッグを結成して、蝶野&鈴木みのる組に勝利した。

また、6月13日に三沢が急逝したため、ライセンス、コミッショナー問題を含めて、再びノアと交流。9月27日に5年ぶりにノアへ参戦。田上明と社長タッグを結成して、小橋建太と初対戦したが敗れた。10月12日に、蝶野のデビュー25周年記念試合で新日本、全日本、ノアによる6人タッグマッチが実現。武藤、蝶野、小橋がトリオを結成して勝利。これで旧全日本の「プロレス四天王」とすべてタッグを結成した。

2010年3月9日、変形性膝関節症による右膝関節内遊離体除去の手術を行うことを発表し、4月5日に手術を行い成功。全日本に移籍してからは初めてとなる長期に渡り試合を欠場したが、9月10日、船木誠勝とのシングルマッチで復帰。試合は引き分けになるものの、欠場以前と変わらぬムーブを見せた。また、9月20日後楽園ホールではKAIとのシングルマッチに勝利。その日の世界ジュニアヘビー級王座戦の試合後にリングに上がり、最多の連続防衛を記録した王者のカズ・ハヤシに挑戦表明し物議を醸したが、翌日の会見で、「気分は(あしたのジョーの)力石。そこにカズ・ハヤシがいるから(挑戦する)」と、世界ジュニア王座への挑戦を正式に発表した。また、それに合わせて体重の減量も行われ、1か月で約10kgの減量に成功して挑んだが敗れた。

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