武宮敏明の出身高校

武宮敏明 プロ野球選手

武宮敏明卒業高校
熊本工業高校 偏差値 熊本県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
1842位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1921年11月25日生まれ

武宮 敏明(たけみや としあき、1921年11月25日 - 2010年1月15日)は、熊本県熊本市出身のプロ野球選手(捕手)・監督・コーチ。

長年に渡り、読売ジャイアンツ(以下、巨人)合宿所の寮長を務め、「鬼寮長」「鬼軍曹」の異名で知られた。

熊本工業時代は川上哲治の2学年下にあたり、川上からは後々まで可愛がられることになった。ノンプロの奉天満鉄倶楽部、門司鉄道局熊本、九州産業交通(途中、兵役の時期を挟む)を経て戦後の1947年に巨人に入団。翌年からレギュラーとなる。同年の10月3日対阪神戦でランナーの藤村富美男に体当たりを受け、脳震盪を起こす。ランナーが捕手に体当たりをかけたのは日本のプロ野球ではこれが第一号といわれ、武宮は最初の「被害者」となった。 1952年に引退するまで、通算320試合に出場、活躍した。

1953年に二軍監督、コーチに就任。同時に川崎市中原区新丸子に所在していた巨人の合宿所「多摩川寮」寮長となった。厳しい寮則をつくり、午後10時の門限やその他規則を破った選手には容赦なく鉄拳や竹刀を飛ばしていた。しかし、それ以上に、新人や若手に対する優しさと指導力は内外から高い評価を受けており、彼の元で育った寮生たちは、彼を慕い、ジャイアンツの主力としても活躍し、「V9」達成など巨人史に功績を残していくこととなった。

1973年から2年間寮長職を離れ、名目上コーチ兼務だったが、前川八郎の後任としてスカウト部長を務めていた。

その間に湯口事件が起きる。育成現場を離れていたため、湯口敏彦と直接関わる事が少なく、詳しい経緯を直ちに把握できなかったという。後年、自著「巨人軍底力の秘密 鬼寮長の選手教育」で、「スピード、球威とも新浦とは比較にならないほど素晴らしく、巨人史上最高の左腕になるはずの逸材だった」と湯口の才能を評価し、その死を惜しんだ。同時に「生真面目すぎて相手の性格に合わせる指導をせず、常に湯口を緊張状態においていた二軍監督と繊細な湯口との取り合わせは最悪だった」と、当時の二軍監督・中尾碩志を批判しており、球団側に落ち度があることを認めていた。

1975年からはコーチ・スカウト職を退き1982年まで寮長職に専念する。その後は編成担当などを務めた。合宿所が新丸子から川崎市のよみうりランド近傍に移転した後も河埜和正、定岡正二、西本聖、篠塚利夫(現:篠塚和典)、原辰徳、駒田徳広、吉村禎章などといった新人選手を厳しく指導して行った。寮長を引退する際、多摩川グラウンド横で営業していたおでん屋(グランド小池商店)に惜別の句を自筆で送っており、現在でも店舗に掲示している。「グランドに(おでん屋に)通い続けて30年 いつの間にやら頭真白」

1987年オフに退団。当初は郷里の熊本に帰ったが、夫人の死去後は東京で暮らしていた。

2005年、次期巨人監督候補として星野仙一の名が上がった際、多くの巨人OBは反対していたが当時の巨人はV9時代の面影も感じさせないほど低迷しており、その当時の状況を目の当たりにしていた武宮は「今の巨人にはああいう厳しさが必要だ」と歓迎の意向を示していた(東京スポーツの記事による。また、実際に就任したのは原辰徳)。

2010年1月15日午後8時48分、東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で急性膵炎のために逝去。88歳没。

武宮敏明の関連人物

プロ野球選手偏差値ランキング 職業から有名人の出身卒業高校を探す

プロ野球選手偏差値ランキング

県別高校偏差値

関東

北関東

関西

北海道/東北

甲信越

東海/北陸

中国

四国

九州・沖縄

おすすめコンテンツ

全国高校偏差値ランキング
職業から有名人の出身高校を探す
有名人の名前から高校を探す

全国自治体別高校偏差値ランキング