梅原猛の出身高校

梅原猛 学者

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梅原 猛(うめはら たけし、1925年3月20日 - )は、日本の哲学者。ものつくり大学総長(初代)、京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。東日本大震災復興構想会議特別顧問(名誉議長)。碧南市哲学たいけん村無我苑名誉村長。

立命館大学文学部教授、京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター所長(初代)、社団法人日本ペンクラブ会長(第13代)などを歴任した。

龍谷大学文学部の講師を経て、立命館大学文学部の講師、助教授、教授を歴任した。その後、京都市立芸術大学に転じ、美術学部の教授を経て学長に就任した。その後、「国際日本文化研究センター(仮称)創設準備室」の室長として国際日本文化研究センターの創設に尽力し、設立後は所長に就任した。実存哲学について研究に取り組み、その後、「梅原日本学」と呼ばれる独自の世界を開拓した。また、「スーパー歌舞伎」「スーパー能」を創作するなど、幅広い活動を行っている。これらの業績が評価され、文化功労者に選出され、のちに文化勲章を受章した。京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授、京都市名誉市民の称号を贈られている。

宮城県仙台市で生まれ、愛知県知多郡で育つ。

実父は愛知一中、第八高校を経て、当時東北大学の学生だった梅原半二。実母は魚問屋で父の下宿屋の娘・石川千代。ともに学生だった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため、私生児として誕生した。乳児期に実母を亡くし、生後一年九ヶ月で知多半島の名士で、梅原一族の頭領である伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られ養子となる。実父の梅原半二(工学博士)は、大学講師を退職後、3軒のバー・キャバレーを経営していたが、豊田喜一郎に誘われ、戦後トヨタ自動車に入社、トヨタ自動車常務や豊田中央研究所所長などを務めた。

私立東海中学には、南知多町(当時は内海町)の実家から2時間半をかけて通学した。1942年、広島高等師範学校に入学するが二ヶ月で退学、翌年第八高等学校文科に入学。理科系の父に似て数学が得意だったため、父や周囲から文科進学に反対されたのを、押し切っての進学だった。

青年期には西田幾多郎・田辺元の哲学に強く惹かれて、大学進学に際しては東京帝国大学倫理学科の和辻哲郎(東大赴任前は京都大哲学科の西田の下で助教授であった)の下で学ぶか、あるいは京都帝国大学哲学科の西田の下で学ぶかの選択に迷ったが、結局、1945年、京都帝国大学文学部哲学科に入学する。が、その年田辺は退官していた。西田も、すでに1928年に京都帝国大を退職していたが、京都帝国大哲学科には西田の影響が存在すると考えた。父親は哲学科への進学を歓迎しなかったが、梅原の熱意が強いため許可した。入学直後、徴兵され、9月復学。

大学時代には、実父のところに戻り、父が務めていたトヨタ自動車に近い、愛知県岡崎市矢作町や定光寺などにも居住した。

1948年、同大を卒業。

大学院では山内得立、田中美知太郎に師事、マルティン・ハイデッガー哲学に惹かれつつもギリシア哲学を専攻、しかし二度にわたって田中と対立した。最初の論文「闇のパトス」(1951年)は、哲学論文の体裁をとっておらず甚だ不評だったが、のちに著作集第一巻の表題となる。二十代後半、強い虚無感に襲われて、賭博にのめりこむような破滅的な日々を送り、1951年、養母・俊の勧めでピアニストの夫人と結婚、同年、長女が生まれた時、ヘラクレイトスについての論文を書いており、「日の満ちる里」という意味でひまりと名づける。のちヴァイオリニストとなった。そしてハイデッガーの虚無思想を乗り越えるべく「笑い」の研究に入り、いくつかの論文を発表したが、これは完成しなかった。30代後半から日本の古典美学への関心を強め、「壬生忠岑『和歌体十種』について」(1963年)という論文を書く。

「笑い」の研究を始めたことについて梅原は、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの実存主義哲学から出発したが、現実の生活に苦しくなると実存を頼ることはできなくなり、実存の論理を超えるために自分の心の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、ニヒリズムを超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したのだと言う。寄席に通い、渋谷天外、藤山寛美、大村崑などを研究の対象として論文を書いた。

最近は精力的に神道・仏教を研究している。NHKテレビの生放送中に薬師寺管長の橋本凝胤と「唯識」をめぐり、大激論を交わす。

京都若王子(京都市左京区、哲学の道近辺)の和辻哲郎旧邸に住む。

日本仏教を中心に置いて日本人の精神性を研究する。西洋哲学の研究から哲学者として出発したが、西田幾多郎を乗り越えるという自身の目標のもと、基本的に西洋文明(すなわちヘレニズムとヘブライズム)の中に作られてきた西洋哲学、進歩主義に対しては批判的な姿勢をとる。その根幹は、西洋哲学に深く根付いている人間中心主義への批判である。西洋哲学者が多い日本の哲学界のなかで、異色の存在である。

市川猿之助劇団のために『ヤマトタケル』や『オオクニヌシ』『オグリ』などの歌舞伎台本を書き、これが古典芸能化した近代歌舞伎の殻を破ったので、スーパー歌舞伎と称している。また『ギルガメシュ叙事詩』を戯曲化した『ギルガメシュ』は中国の劇団が上演し、中国の環境問題の啓蒙に大きな役割を果たしている。『中世小説集』や『もののかたり』など説話に基づく短編小説集も評判をとっている。また『王様と恐竜』『ムツゴロウ』『クローン人間ナマシマ』などのスーパー狂言の台本も書いている。九条の会の呼び掛け人の一人。平城遷都1300年記念事業特別顧問。2006年には源氏物語千年紀の呼び掛け人となる。

鈴木大拙を近代日本最大の仏教者と位置付け、その非戦論の重要性を訴える。また「梅原日本学」と呼ばれる一連の論考では飛鳥時代の大和朝廷の権力闘争を追求するなど、古代日本史の研究家としても知られる。天皇制への支持は強く、世界主義と排外的ナショナリズムの双方に批判的。靖国神社や憲法改正には基本的に否定的な立場を採る。イデオロギーの学術への介入それ自体を批判している。なお、1991年には召人として皇居歌会始に出席している。

また、熱烈な多神教優位論者、反一神教主義者である。多神教は一神教より本質的に『寛容であり優れている』と主張しており、続けて多神教が主流である日本文化の優越性を説いている。その説は多くの「日本文化の優越を語る日本人論」に影響を与え、そのため梅原は、中曽根康弘が創設を主導した「国際日本文化研究センター」の初代所長に就任することになる。

一神教的な思想と多神教的な思想について、古代ギリシアの哲学者であるプラトンとアリストテレスを対比させる。アリストテレスのように生物の多様性に目を向けることが重要だと語る。

臓器移植反対論者としても知られている。原子力発電所に対しても30年前から反対論者の立場を取る。

日本漢字能力検定協会の大久保理事長に依頼され、約10年に渡って同協会の評議員を務めていたが、その間、会議出席などの評議員としての活動を全く行っていなかった。2009年に発覚した協会運営問題に際し、このことについて「信用したことを後悔している。関連会社への委託などとんでもないことで、評議員の機能を果たせなかった自分への怒りも感じる」と弁解した。

実父・梅原半二は工学博士でトヨタ自動車常務取締役や豊田中央研究所代表取締役所長を務めた。恋愛の失敗で心に傷を負いキャバレーを経営していたところを豊田喜一郎に引っ張られ、技術の世界に復帰し、後にトヨタ・コロナを設計した。著書に技術者としての経験をまとめた『純の中の不純』(黎明書房、1974年)、自伝的な『平凡の中の非凡』(佼成出版社、1990年)がある。小説家の小栗風葉は養母俊の兄に当たる。同じく小説家の小中陽太郎は養母の姪の夫にあたる。

長男に芸術学者・美学者で京都造形芸術大学芸術学部教授の梅原賢一郎、その妻はノーベル賞学者福井謙一の娘の美也子。長女にバイオリニストで京都造形芸術大学非常勤講師の梅原ひかり、その夫は京都造形芸術大学副学長で建築家の横内敏人。

親友には京大哲学科からの同級生である橋本峰雄と藤沢令夫、立命館大学勤務時代に同僚だった白川静がいる。若い頃最も親しかったのは源了圓だという。

京大哲学科の4年先輩に当たる上山春平も親友であり、上山に誘われ、当時・京都大学人文科学研究所教授の桑原武夫らと知り合い、交友を深め知遇を得ることになる。

司馬遼太郎とは長年の交友があり、司馬の作品である『空海の風景』の正直な批評を出したが、彼を激怒させて以来、二人は犬猿の仲となる。その後は和辻哲郎文化賞の選考委員を互いに務めた縁で仲が直り、司馬の死去に関しては、追悼文も書いている(国際日本文化研究センター設立以前、梅原は司馬に評議委員として選出しようと懇願したが、断られた)。

生前に交流はなかったが、三島由紀夫と同い年であり、三島の死後梅原の飛躍があったことから、「三島が自分に乗り移った」と思っている。高橋和巳とは交友があり、高橋の死後、自分は長いものを書くようになったから、高橋が乗り移ったと言っている。

大器晩成型で、40過ぎまで単著はなかった。自ら著作集の自序において語るところによれば、これは「処女作というものは頭の先からしっぽまでもすべて独創的であるべきだ」という自己の信念のためであったという。1965年、仏像案内のテレビ番組の司会をし、これを本にした『仏像-心とかたち』を佐和隆研、望月信成との共著で刊行、毎日出版文化賞を受賞。1967年、中公新書から『地獄の思想』を刊行し、古代から宮澤賢治、太宰治に至る記述を行い、ベストセラーとなる。

その後日本仏教の研究を行い、釈迦からインド仏教・中国仏教を経て鎌倉新仏教までを述べる長編の仏教史「仏教の思想(共著)」を著すなど、多くの対談等の本、『美と宗教の発見』等の論文集刊行ののち、創刊された文芸雑誌『すばる』を舞台に、古代史に関する研究的評論の連載を始める。該博な知識による大胆な仮説により、「梅原古代学」、「梅原日本学」、「怨霊史観」といわれる独特の歴史研究書を多数著している。梅原日本学は主に三つの柱からなる。

梅原説の信奉者の有名人には井沢元彦がいる(ただし『水底の歌』が成り立たないことは『猿丸幻視行』に書いてある)。しかし、国文学、考古学、歴史学の立場からは批判も多い。例えば、法隆寺を聖徳太子一族の鎮魂の寺院とする考え方からは、坂本太郎の「法隆寺怨霊寺説について」(『日本歴史』第300号)を皮切りとして、厳しい批判や反論が出されている。また『水底の歌』における柿本人麻呂水死刑説は、益田勝実らによって批判論文が提出されている。

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