桑原征平の出身高校

桑原征平 アナウンサー

桑原征平卒業高校
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1491位 / 1802人中 アナウンサー別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1944年(昭和19年)5月14日生まれ

桑原 征平(くわばら しょうへい、1944年(昭和19年)5月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ。2015年度(平成27年度)からは、種智院大学人文学部社会福祉学科の客員教授を務める。

1969年(昭和44年)8月から2004年(平成16年)5月14日までは、アナウンサーとして関西テレビに勤務。2004年度(平成16年度)から2014年度(平成26年度)までは、アナウンサーとして活動するかたわら、大阪芸術大学で客員教授や教授を歴任した。また、一時は「丹後ふるさと観光大使」(京都府)も務めていた。

ニックネームは「征平さん」(もしくは「征平ちゃん」)。桑原菜穂子(フジテレビディレクター)、桑原達秋(福井テレビ局員、元・同局アナウンサー)の実父でもある。

京都府京都市右京区西院の出身で、京都で「水泳一家」として知られた家庭の三男として出生。次兄は、水球の日本代表選手として1964年東京オリンピック・1968年メキシコオリンピック・1972年ミュンヘンオリンピックに出場した桑原重治(元・水球日本代表監督)である。

高校進学の際には、2人の兄の母校でもある京都市立西京高等学校商業科を受験するも不合格。結局、私立京都西高等学校(現在は京都外大西高等学校)を経て、2人の兄の母校でもある成城大学経済学部に進学した。

学生時代には、競泳や水球の選手として活躍。男子200mバタフライでは京都府の中学生記録を5年間保持していたほか、中学校時代には同種目で東京オリンピック(1964年)の日本代表候補選手になったこともある。高校時代にも3年連続で、国民体育大会の競泳・バタフライ種目に京都府代表で出場している。

ちなみに、中学校時代の同級生に、山本忠男(元・南海ホークス内野手・コーチ、三星ライオンズコーチ・監督)や桧山進次郎(元・阪神タイガース外野手)の伯母などがいる。桧山本人も、出身小学校の後輩である。京都西高校水泳部の同期生にお笑い芸人・宮川大輔(以下「大輔」と略記)の実父、成城大学水球部時代の同期生にピン芸人・TAIGAの実父がいた関係で、大輔やTAIGAとも幼少期から親しい。TAIGAについては、後述の経緯から親戚の関係にもある。さらに、ラグビー日本代表およびU20トンガ代表への選出歴を持つアマナキ・レレィ・マフィ(NTTコミュニケーションズシャイニングアークス所属のラグビー選手)も親戚に当たる。

成城大学を卒業後は、当時「黄桜クラブ」という水球部を擁していた黄桜酒造からの預かり社員として、高島屋と縁の深い大阪市内の酒問屋・祭原(さいはら、2001年に菱食へ吸収合併、現在は三菱食品)に入社。かつて南海の選手だった上司に仕えながら、酒やクーポンサービスの営業マンとして勤務するとともに、社長の仲人でTAIGAの実父(前述)のいとこ(現在の妻)と結婚する。また、「黄桜クラブ」の選手として、水球の全日本選手権で優勝している。

結婚の直後に「サンケイスポーツ」でKTVのアナウンサー募集記事を偶然目にしたことをきっかけに、同局の中途採用試験を受けた。1969年(昭和44年)8月に、KTV初の中途採用アナウンサーとして入社。約750人の応募者の中から、2人だけ採用された(もう1人の採用者は杉山一雄)。ちなみに、同年の新卒採用組に、上沼真平(上沼恵美子の夫、元プロデューサー)、千草宗一郎(元社長)、荒田静彦(元カメラマン、現在は系列局・鹿児島テレビ放送の社長)などがいる。

桑原が中途採用試験を受けた当時のKTVでは、大阪万博の開催を控えて(地元局として)アナウンサーを大量に確保する必要に迫られていた。「テレビ局見学のつもりで受験した」という桑原は、受験資格に「標準語を話せる者」との条件がありながら、最終面談(6次試験)で社長から「自分自身の欠点は?」と聞かれて「欠点は標準語が話せない」と回答。しかし、試験官を務めた当時の制作担当常務から、「(桑原の話す)京都弁こそ100年前までは標準語だった」「おもろいやっちゃ(面白い奴だ)」という言葉を掛けられた。結局、人事部長から「研修の3ヶ月間で標準語のアクセントを身に付けられなければ営業職へ異動」という趣旨の同意書に一筆記すことを条件に、アナウンサーとして採用された。

そのような経緯もあって、桑原は入社直後から、「何とかしてアナウンス室にとどまりたい」との一心で制作部の部長へ直談判。(通常はアシスタントディレクターや若手芸人が担当する)公開放送の前説、KTV本社で撮影していた江原真二郎出演のドラマ(タイトル不詳)のエキストラ、大阪万博の会場内でKTVの重役や取材スタッフを運搬する電気自動車の運転手などを務めながら、次第に番組出演の機会を増やした。

桑原の名が全国に知られるようになったのは、KTV制作の全国ネット番組『ハイ!土曜日です』にレギュラーで出演してからである。当初はスタジオアシスタントに過ぎなかったが、1975年(昭和50年)から毎週担当したVTR取材コーナー『征平の挑戦』において、日本各地や世界各国で体当たりレポートを敢行(後述)。危険を顧みないほどのバイタリティー、喜怒哀楽を露わにしたリアクション、濁声の絶叫などで全国に名を知られるようになった。

1976年(昭和51年)4月から1977年(昭和52年)3月までは、KTVと関連会社・ラジオ大阪(OBC)による相互交流企画の一環として、当時のKTVアナウンサーから唯一OBCの番組にレギュラーで出演。『みんなでみんなでリクエスト バンザイ!歌謡曲』(同局が当時阪神百貨店梅田本店内のサテライトスタジオから放送していた生ワイド番組)の木曜日に、浅川美智子とともにパーソナリティを務めた。

『ハイ!土曜日です』の終了後も、後継番組の『DOサタデー』『モーニングスタジオ・土曜!100%』(以下『土曜100%』と略記)や、関西テレビ制作・全国ネットのクイズ番組『クイズDEデート』で司会を担当した。1985年(昭和60年)4月からは、その人気に注目したフジテレビ(関西テレビのキー局)からの強い要請で、アナウンサーのまま東京支社編成部へ異動(後述)。1987年(昭和62年)3月までの2年間、フジテレビ制作の全国ネット番組『おはよう!ナイスデイ』で司会を務めた。この時期には、関西地方で大きな事件やブームが続発。関西から単身で東京へ赴任していた桑原も、実際には取材リポーターとして頻繁に関西へ戻っていた。

1987年(昭和62年)4月に本社へ復帰してからは、『ハイ!土曜日です』の放送枠で、『土曜大好き!830』『土曜ぴーぷる』の司会を担当。『めざましテレビ』の中継コーナーにリポーターとしてレギュラーで出演するなど、全国ネット・関西ローカルを問わず、関西テレビの看板アナウンサーとして情報・バラエティ番組を中心に活躍した。

また、横山ノックが参議院議員選挙や大阪府知事選挙への出馬で『ノックは無用!』(関西ローカルの生放送)への出演を見合わせた期間には、ノックの代役として高校の先輩・上岡と共演。ただし、以上の番組での強烈なイメージが敬遠されたせいか、競馬実況で知られた先輩アナウンサー・杉本清とともに定時ニュースを担当する機会はほとんどなかった(後述)。1990年(平成2年)3月末にMBSテレビで放送された『あどりぶランド』(同局アナウンサー総出演のテレビ番組)300回記念スペシャルには、杉山や中島優子(いずれも当時の同僚アナウンサー)とともに、局の垣根を越えてゲストで出演している。

2004年(平成16年)4月から大阪芸術大学の客員教授へ就任した後に、同年5月14日でKTVを定年退職。杉本に次ぐ「局長待遇ゼネラルエキスパートアナウンサー」(管理職扱いの専門職)として、局アナ人生を全うした。KTVでは、桑原の退職翌日(5月15日)に、前代未聞の定年退職記念特別番組『さらば征平・最後の挑戦!』を生放送。後輩のアナウンサーや、『土曜大好き!830』で共演した板東英二や香坂みゆきなどをスタジオに迎えて、『征平の挑戦!』のダイジェストや定年間際での挑戦(東尋坊からのダイビングやマチュ・ピチュでのグッバイボーイ経験など)の模様を放送した。同番組は、関西ローカルでの放送ながら、2004年(平成16年)度の日本民間放送連盟賞でテレビ番組部門のエンターテインメント番組最優秀賞を受賞した。また、大きな反響を得たことから、以降も2度にわたって放送している。

桑原は、KTVからの定年退職の前後に、ライバル局の朝日放送(ABC)やテレビ大阪(TVO)からテレビ番組へのレギュラー出演を打診。TVOでは、KTVからの退職を機に、『征平・宮根のヨソ様の事情』(ABCを退社したばかりの宮根誠司との共同司会によるレギュラー番組)を放送することが内定していた。しかし、TVOからの報道発表で事情を知った出馬が、桑原に対して定年退職後から5年間の専属出演契約を提案。その結果として、TVO制作番組への出演を容認することを条件に、「メディアプルポ(同局の関連会社)所属のゼネラル・エキスパート・アナウンサー」扱いでKTVの番組出演を優先する契約を結んだ。

上記の経緯から、KTVでは契約期間満了の2009年(平成21年)まで、アナウンス室に桑原専用のデスクを設置。TVOでは2005年(平成17年)4月から、関西ローカルの冠番組(『征平・宮根のヨソ様の事情』→『征平・宮根のクチコミぃ!?』)で、宮根と共に司会兼リポーターを務めていた。さらに、テレビ・ラジオ兼営局であるABCでは、上記の契約がラジオ番組への出演にまで及ばないことに着目(後述)。退職直後の2004年6月から、桑原をABCラジオのパーソナリティに起用するとともに、ラジオでは自身初めての冠番組として『桑原征平粋も甘いも』(以下『粋甘』と略記)の放送を開始した。

テレビ番組については、『征平・宮根のクチコミぃ!?』へ出演していた2006年(平成18年)に、テレビ東京系列で1月2日に放送された正月特別番組『第2回全日本パフォーマンス人文字大賞』でTVOチームのリポーターとして登場。フジテレビ以外の在京テレビ局が制作する全国ネット番組へ初めて出演した。しかし近年は、出演番組を関西ローカルに限定。2009年(平成21年)4月から半年間『アップ&UP!』(当時KTVで放送されていた情報番組)のリポーターを務めたことを最後に、レギュラー出演の機会が途絶えている。

その一方で、ABCラジオでは2004年10月から、『粋甘』を「ラジオのゴールデンタイム」とされる平日昼間の生ワイド番組へ移行した。現在では、週2回放送の『粋甘』に加えて、『征平・吉弥の土曜も全開!!』(土曜日の生ワイド番組、以下『土曜も全開』と略記)や『征平・あさおのどす恋ラジオ』(事前収録による平日夕方のラジオショッピング番組、以下『どす恋ラジオ』)でもパーソナリティを担当。2015年(平成27年)9月までの『どす恋ラジオ』では、「征太郎(しょうたろう)」というキャラクターで、パートナー・高野あさおとの掛け合いによるショートコントを披露していた。2011年(平成23年)と2014年(平成26年)には、同局の看板番組『おはようパーソナリティ道上洋三です』で、夏期休暇中の道上洋三の代役としてメインパーソナリティを担当。同局の制作番組では新年最初の生放送番組になる『新春スーパーワイド』では、2013年(平成25年)から第1部(5:00 - 11:00)のメインパーソナリティに起用されている。

2012年(平成24年)には、フリーアナウンサーに転身してから3019日を経過した9月12日に、転身後初の著書として『3019(さんれいいちきゅう)桑原征平』を発売。また、宮川大輔の一族を取り上げた『ファミリーヒストリー』(10月8日にNHK総合テレビで放送)の証言ゲストとして、NHKの番組に初めて登場した。

2014年(平成26年)の誕生日で70歳に達したため、同年度限りで大阪芸術大学を定年退職。2015年には、3月15日に万博記念公園で開催の「ABCラジオ スプリングフェスタ2015」で「公開断髪式」に臨んだ(詳細後述)。同年4月以降は、フリーアナウンサーとしての活動と並行しながら、地元・京都にある種智院大学の社会福祉学部で客員教授を務める。同年7月には、メインパーソナリティを務める『粋甘』が、2015年日本民間放送連盟賞の近畿地区・ラジオ生ワイド部門最優秀賞を受賞した。

桑原は、『粋甘』や『土曜も全開』で、自身のエピソードを度々披露している。ただし以下では、自著『生きてるだけで丸もうけ』(2005年、ぴあ)や『3019桑原征平』での記載内容を中心に紹介する。

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