松田清の出身高校

松田清 プロ野球選手

松田清卒業高校
明治大学付属中野高校 偏差値 東京都高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
233位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1930年12月11日生まれ

松田 清(まつだ きよし、1930年12月11日 - 2007年2月18日)は、東京都渋谷区初台出身のプロ野球選手(投手、外野手)。

中野高校在学中の1949年夏に、テスト生として読売ジャイアンツに入団する。入団後は肩の故障のため一塁手に転向していたが、1950年夏、二軍の東北・北海道遠征のある試合で投手岩下守道が連投で疲労困憊しストライクが入らず、見かねた松田は宇野光雄二軍監督にリリーフを申し出て好投する。松田の活躍によりこの遠征で巨人は7戦全勝の好成績を挙げて、松田も秋口に一軍に昇格する。この年の公式戦では3試合で13回2/3を投げ10失点したが、自責点はわずか2点に抑えて初勝利も挙げている。

大きく割れるカーブと藤本英雄から伝授されたスライダーを武器に、翌1951年から実力が開花。5月23日の対広島戦で5勝目を挙げて以降、連勝街道を邁進し、10月4日の対名古屋戦で19連勝(1シーズン連勝のセ・リーグ記録)を達成。最優秀防御率(防御率2.01)、最高勝率(23勝3敗、勝率.885)、新人王のタイトルを獲得する。

翌1952年は3月23日の対国鉄戦に勝利し、当時のプロ野球記録である20連勝まで記録を伸ばす。20連勝の記録は1957年に西鉄の稲尾和久がタイ記録で並んだのち、2013年に楽天の田中将大がほぼ半世紀ぶりに記録を更新(最終的にレギュラーシーズン28連勝)するが、いまだにセ・リーグ記録となっている。しかし、松田は年間を通じて前年ほどの活躍はできず、13勝7敗防御率3.17に留まる。

1953年以降は登板試合数が激減して、1955年までの3年間勝ち星から見放された。特に故障したわけでもはなく、なぜ1951年のようなピッチングができなくなったのか明らかではないが、真面目すぎる性格のため、一つ負けてしまったことでジレンマに陥ってしまったのでは、との声もある。

1956年に二軍時代から松田をかわいがっていた宇野が国鉄スワローズの監督に就任すると、松田も国鉄に移籍する。同年2勝を挙げたのち外野手に転向。1957年から1960年頃まで毎年100試合以上出場するなど、外野の準レギュラー格として活躍する。1961年現役を引退。

退団後は評論家を経て、1973年に南海ホークスの一軍投手コーチとなり、同年のリーグ優勝に貢献。山内新一・松原明夫を再生し、江夏豊に抑えに転向させた。1978年からはスコアラーを務めた。1985年から大阪府八尾市にて松田野球塾を開設し、後進の指導に当たる。同塾からは杉本正志(広島・ロッテ・オリックス)・広政秀之(近鉄)・村田正幸(ヤクルト)など何人かのプロ野球選手を輩出している。

2007年2月18日に大阪府羽曳野市の自宅にて虚血性心疾患により死去。享年78(満76歳没)。

球威自体で打者を押さえつけるタイプではなかったが、大小2種類のカーブと、1951年の春季キャンプで習得した鋭く切れるドロップを武器とした。また、投球のリズムが良く、野手が非常に守りやすかったという。

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