松田宣浩の出身高校

松田宣浩 プロ野球選手

松田宣浩卒業高校
中京高校 偏差値 岐阜県高校偏差値ランキング
プロ野球選手ランキング
1842位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1983年5月17日生まれ

松田 宣浩(まつだ のぶひろ、1983年5月17日 - )は、プロ野球選手(内野手)。

妻はKBC元アナウンサーの柴田恵理。

1983年5月17日に滋賀県草津市で生まれた。草津市立老上小学校2年生の時に矢橋レモンズで軟式野球を始めた。中学校では栗東ボーイズで硬式野球に転向した。

中京高等学校では主に3番・遊撃手で出場し、高校通算61本塁打を記録した。2年時に第82回全国高等学校野球選手権大会に双子の兄とともに出場(当時の校名は中京商、3年時に校名変更)も、対那覇高校戦で延長の末、自らの悪送球で決勝点を与え、1対2で初戦敗退した。

亜細亜大学入学後は1年春(2002年)から4番を任され東都大学リーグ戦に出場し、同シーズンで3本塁打と力を見せた。同年は第1回世界大学野球選手権日本代表メンバーに選出されて5番を務め、3位に貢献した。2003年も2年連続で第35回日米大学野球選手権大会日本代表メンバーに選出された。井口忠仁(青学大)が持つリーグ通算24本塁打の記録更新も期待されていた。しかし、3年時に部員の不祥事が発覚し、亜細亜大学は半年間の対外試合禁止の処分を受けた。その結果リーグ戦、入替戦は不戦敗扱いとなりリーグ2部へ降格となったため、松田が在籍中の1部復帰は不可能となり記録更新はならなかった。3年生時までの松田の通算本塁打は15本、シーズン最多は2年秋の6本である。その後、亜細亜大学は主将に就任した松田を中心に2005年秋のリーグ2部で優勝し、1部へ復帰した。1部リーグでは通算76試合出場、275打数62安打、打率.225、15本塁打、41打点でベストナインを1回獲得した。2部リーグでは通算10試合出場、37打数9安打、打率.243、4本塁打、10打点を残した。

2005年11月18日に行われた大学生・社会人ドラフト会議にて希望入団枠制度により選択され、12月2日に仮契約を行い福岡ソフトバンクホークスに入団した。12月5日に入団会見を行い、背番号は5に決まった。

ソフトバンクはチームの若返りを図る方針へ転換し、同年27本塁打を記録した正三塁手のトニー・バティスタとの契約を1年残して打ち切り、松田を江川智晃らと競わせるとし、二塁手へのコンバート案も挙げていた。

3月25日、パ・リーグ開幕戦、ホークスでは小久保裕紀以来12年ぶりとなる新人野手の開幕戦スタメン出場を果たした。しかし6月15日に二軍に降格すると、最後まで一軍昇格することなくシーズンを終えた。

小久保がホークスに復帰したため、シーズン前半は出場機会がなかった。しかし二軍で打率.331、チームトップの9本塁打の好成績を残し、多くの故障者を抱えるチーム事情から6月に一軍に昇格し、そのまま一軍に定着。8月には月間打率3割を記録し、200に満たない打数で7本塁打と長打力の片鱗を見せた。

三塁手のレギュラーに定着。長期の離脱もなくシーズン通して活躍し、打率や本塁打など前年に比べ確実な成長を見せた。9月29日の対楽天戦では、初回に岩隈久志から本塁打。これは同シーズンに岩隈がパ・リーグの選手から打たれた唯一の本塁打となった。同年10月、九州朝日放送の柴田恵理アナウンサーと結婚。6月1日にマーク・クルーンがプロ野球記録となる球速162km/hを記録した時の打者でもある(結果は空振り三振)。

秋山幸二新監督体制の目玉の一つとして3番打者に指名されていたものの、開幕戦で一塁へ帰塁した際に右手甲を骨折し離脱。6月5日の広島戦で一軍に復帰し、勢いに乗るチームと共に活躍を見せたが、7月18日のロッテ戦で唐川侑己から死球を受けて右手首を骨折。46試合の出場に終わった。

3月21日の日本ハム戦(札幌ドーム)で11回表に武田久から決勝本塁打を打った。また、4月18日の楽天戦で9回裏に田中将大からプロ入り初のサヨナラ打を打った。5月4日の対オリックス戦で山本省吾から自身初の満塁本塁打を打った。5月9日に左手首を骨折のため離脱したが、6月22日の日本ハム戦で一軍に復帰、7月10日のロッテ戦では普段守らない左翼手として先発出場した。年間で打率こそ.255だったが、19本塁打、71打点、17盗塁と本塁打、打点、盗塁で自己最高の結果を残し、優勝に貢献した。

4月17日の西武戦で自身初のサヨナラ本塁打を含む2本塁打を、20日と21日には2試合連続の本塁打(21日はホセ・オーティズとの2者連続本塁打)を放った。4月はリーグ2位の4本塁打、同2位のOPS1.014を残した。その後も打撃は好調で、松中信彦、小久保、アレックス・カブレラが相次いで離脱した9月25日以降は最終戦まで4番を任された。結果的に自身初めて全試合にフルイニング出場し(他にチーム内では川崎宗則・本多雄一も記録。1チーム3人の全試合フルイニング出場は2リーグ制以後、初の記録)、いずれも自己最高の打率.282、25本塁打、83打点、27盗塁、OPS.854を記録し、リーグ連覇に大きく貢献した。

西武と戦ったクライマックスシリーズファイナルステージでは、4番にはカブレラが座り松田は5番で出場、第2戦で決勝点となるソロホームランを放ったものの、全3戦で打った安打はこのホームラン1本だけで、13打席10打数1得点1安打1本塁打1打点2四球で打率.100と、レギュラーシーズンと比べると結果は良くなかった。プロ入り後初の出場となる日本シリーズでは、カブレラの不振により第1戦・第2戦では4番・三塁手としてフル出場したものの、この2試合で2安打無打点1盗塁と4番としての役目は果たせなかった。小久保と入れ替わる形で第3戦で5番に打順が下がるとすぐに1安打1打点と、以降第5戦までは5番、松中がDHスタメン出場した第6戦・第7戦では6番で出場して得点にからむ安打・犠打・盗塁及び第5戦での押し出し死球での1打点などは出たものの、7戦通しての成績は28打席25打数2得点4安打2打点3盗塁1犠打1四球1死球5三振で打率.160に終わった。

一時は盗塁数がトップを記録するなど開幕から好調であったが、5月から本塁打数と盗塁数が減少し、徐々に失速。それでも中盤まで首位打者争いで上位につけるなど、高打率を維持していた。しかし、8月1日の楽天戦で美馬学から死球を受けてしまい、そして、右第4中手骨骨折で全治3ヶ月と診断される。骨折するまで9本塁打、56打点と好調だった。しかし、シーズン終盤の10月5日のオリックス戦から復帰した。シーズン通算では怪我もあって、95試合の出場、9本塁打に終わるも、打率は規定打席未到達ながら3割、盗塁数は16個を記録した。

オフの11月6日に、「侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」」の日本代表が発表され代表入りした。

12月4日に、第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され候補入りした。

2月20日に、第3回WBC日本代表選手28人が発表され代表入りした。主に「9番・三塁手」として活躍。打率.333、5打点を記録し、準決勝進出に貢献した。

シーズンでは、4月11日のオリックス戦ではサヨナラ本塁打を放った。シーズン序盤は打率が2割3分台まで下降するなど低調だったが、交流戦に入ると徐々に調子を上げ、チームの4番に定着。内川聖一、長谷川勇也らと強力なクリーンナップを形成し、6月13日のヤクルト戦ではプロ初の1試合5安打をマークするなどチームの交流戦優勝の原動力となった。夏場以降は好不調の波が激しく、柳田悠岐が頭角を現したこともあり、6番を打つこともあったが、最終的にはフルイニング出場を果たし、2年ぶりの20本塁打、打率.279、キャリアハイとなる90打点でシーズンを終えた。同年2年ぶり2度目のゴールデングラブ賞を受賞した。

この年から選手会長に就任。レギュラーシーズンでは、5月13日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)で、涌井秀章からNPB公式戦通算9万5000本目の本塁打を放った。また、オールスターゲームのファン投票および選手間投票では、パシフィック・リーグの三塁手部門でいずれも1位を獲得している。

しかし、7月2日の対ロッテ戦(ヤフオクドーム)試合前練習中に、ノックの打球が右手人差し指を直撃。同日の試合には出場したものの、翌3日に病院で診察を受けたところ、右人さし指末節骨骨折で全治に6週間を要することが判明した。結局、3日付で出場選手登録抹消。2012年10月5日対オリックス戦からの公式戦連続フルイニング出場記録が218試合で止まった。また、7月4日には、球団を通じてオールスターゲーム出場の辞退を届け出(楽天の銀次が代替選手として出場)。結局、一軍復帰は8月26日の対日本ハム戦まで持ち越された。復帰後は、9月10日の同カードで、大学の先輩に当たる木佐貫洋から球団通算8,000号本塁打を記録。レギュラーシーズン最終戦であった10月2日の対オリックス戦(ヤフオクドーム)では、1対1で迎えた延長10回裏1死満塁の場面で比嘉幹貴から左中間へサヨナラ安打を放って、チームのパシフィック・リーグ優勝を決めた。この安打は、スカパー!が選ぶドラマティックサヨナラ賞で、同リーグの年間大賞に選ばれている。

クライマックスシリーズ突破を経て臨んだ阪神タイガースとの日本シリーズでは、第3戦まで不振に陥っていた。しかし、10月29日の第4戦では先制2点打、翌30日の第5戦(いずれもヤフオクドーム)ではチームをシリーズ制覇に導く適時打を放っている。その一方で、日本シリーズ後の日米野球2014には、日本代表の一員として出場。11月14日の第2戦(東京ドーム)では、アメリカ代表に選ばれていた元チームメイトの和田毅(シカゴ・カブス)から、チームの大会第1号本塁打(ソロ本塁打)を放った。

主に6番打者として、シーズンの序盤から好調を維持していた。レギュラーシーズンの公式戦では、6月9日の対阪神戦(ヤフオクドーム)で公式戦通算1000安打を岩田稔からの2点本塁打で記録するなど、自己最多の35本塁打・94打点を記録。7月5日の対オリックス戦(ほっともっとフィールド神戸)では公式戦では自身初の1イニング2安打、同月12日の対ロッテ戦(QVCマリンフィールド)では公式戦通算1000試合出場、8月11日の対オリックス戦(ヤフオクドーム)では金子千尋から公式戦通算150本塁打を達成した。また、2年振りにオールスターゲームへ出場。レギュラーシーズンの延長戦ではNPB史上3人目(パシフィック・リーグタイ記録)となるシーズン3本のサヨナラ本塁打、チームの同リーグ連覇・クライマックスシリーズ突破を経て臨んだ東京ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは、10月24日の第1戦(ヤフオクドーム)でシリーズ自身初となる先制本塁打を放った。さらに、シーズンの前後に開かれた野球日本代表の国際試合(GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表および第1回WBSCプレミア12)には、日本代表のレギュラー三塁手に起用され、アメリカとの第4戦において、7回表・2死満塁のチャンスから、レフトスタンドへ勝負を決定づける満塁本塁打を放ち、侍ジャパンの決勝トーナメント進出に貢献した。

その一方で、6月17日に海外FA権を取得したことを受けて、プレミア12開催中の11月9日にこの権利の行使を宣言。行使の選択肢を「メジャーリーグ(MLB) 球団への移籍」か「ソフトバンクへの残留」に絞ったうえで、MLB球団から松田獲得のオファーが出された場合には、同大会の終了後に交渉へ応じる意向を表明した。ちなみに、MLBのサンディエゴ・パドレスでは、宣言を見越して松田の獲得調査に着手。これに対して、ソフトバンクでは、球団史上初めて「宣言後の残留」を松田への特例として認める方針を示している。11月11日に海外フリーエージェント宣言選手として公示された

攻守走すべてにおいてスピード感あるプレーが持ち味で、強肩を生かしたスローイングと三拍子揃ったプレーが魅力。

安打のおよそ6割がレフト方向に飛ぶプルヒッター。強靱なリストを生かした長打力を持ち味とし、かつてはリストの強さが諸刃の剣となり安定感に欠けていたが、打撃コーチの立花義家から指導を受け、さらにリストの強さを生かした体の近くでボールを捉える打撃が2011年から2012年に導入されていた飛ばないボール(基準違反統一球)に合い、多くの選手の本塁打数が減少した2011年には自己最多の25本塁打を記録した。本人は「ボールを前でとらえて手をギュンと押し出す」というこの打撃を、金泰均の名前をもじった前テギュン打法と呼んでいる。

打席で2ストライクに追い込まれるまでは小指がグリップエンドに触れる位置でバットを握り、追い込まれてからは指2本分短く持ちなおしてミートを重視する打撃にも2011年から取り組んでいる[49]。2012年には激減した三振の数が示すように打撃ではしぶとさと確実性が増した。一方で2009年には打率.185を記録するなど内角に弱い[50]。

2014年まではライナー性の打球を持ち味としていたが、2015年には福岡ドームにホームランテラスが新設されたことで「常に外野フライを打つイメージ」とテラス対策に取り組んだ。自身初のシーズン30本塁打に到達し[51]、最終的に35本塁打を放ったが、内12本がホームランテラスへの本塁打だった[52]。

プロ入り前は50メートル走のタイムが6.1秒、遠投110メートルを記録する身体能力だった[53]。特に三塁到達までは11.59秒とトップスピードが速く、2008年には両リーグトップの三塁打を記録している。

守備では主に三塁手として起用されるが、一塁手で起用されたこともあり、2010年には左翼手に就いたこともあった。三塁守備では2008年に17失策を記録するなど不安定さが目立っていたが、バントの処理に優れた2010年には得点換算やUZRで平均を上回る数値を残し[54]、2011年、2013年、2014年にはゴールデングラブ賞を受賞している。三塁線の打球を例え倒れ込んで捕球しても起き上がってから十分にアウトにできる肩の強さが最大の武器[55]。当初は守備に不安があったが「打球の予測や飛んでくる前の準備などの大事さを教わり、練習では取れない打球が試合で取れるようになった」と内野守備走塁コーチの鳥越裕介に感謝していた[56]。

ネクストサークルで素振りをした後、右足で片足跳びを数回行うことをルーティンとし、「あれが僕の調子のバロメーターなんですよ。上半身と下半身、そして体の左右のバランスがバッチリな時は、ケンケンがキマるんです。体のバランスが悪い時はうまく力を逃がしてやれず、ケンケンができない。下半身がグチャッと崩れてしまう感覚になるんです」という[57]。

愛称は「マッチ」「まばたきマッチ」。

大学時代は最上級生になるまで誰より先に日課をこなしてグラウンド整備も最後まで残り、活動停止期間も早朝練習を1日も欠かさなかった事などから、亜細亜大学の桑原務部長は「背中で周りを引っ張るタイプ。今の時代、口だけの人が多いが、松田は率先して自分から行動を起こす。」とリーダーシップを評価していた。2006年2月当時の小川一夫スカウト部長は「他人に言われなくても、自分を追い込んで練習できる。」と述べた[58]。

2015年までのチームメイトであった松中信彦とは、家に招かれ会食するなど懇意な間柄で、例年オフにグアムで行う自主トレにもよく帯同している[59]。

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