木内幸男の出身高校

木内幸男 監督

木内幸男卒業高校
土浦第一高校 偏差値 茨城県高校偏差値ランキング
監督ランキング
12位 / 104人中 監督別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1931年7月12日生まれ

木内 幸男(きうち ゆきお、1931年7月12日 - )は、茨城県土浦市出身の高校野球指導者。茨城県立取手第二高等学校・常総学院高等学校の野球部監督を歴任したことで知られる。

幸男は下駄職人の家庭に生まれ育ち、子供のころは結構裕福だったという。

県内有数の進学校である土浦一高(入学当時は土浦中学校)に進学する。野球部では主将でセンターをつとめ3年生の夏は県予選で左中間の打球をあと少しでとれずに逆転負けを喫し、甲子園に行くことは出来なかった。このことの心残りと当時の監督がほとんど練習を見ていなかったこともあって、そのまま土浦一高でコーチを続ける。慶應義塾大学にも合格していたが、コーチを続けるために入学しなかったという。後に阪神監督をつとめる安藤統男を2年生まで指導し、木内が取手二高に移った翌年に土浦一高は甲子園出場を果たしている。

土浦一高での指導はほとんどボランティアで、家業の下駄産業が衰退していった事情もあって、生活のため伝統校を離れて1957年から取手二高に就職する(ただし教員としてではない)。取手二高は戦前までは高等女学校であった関係で、戦後も女子校の雰囲気を色濃く残していた。それゆえに野球部はあくまで男子生徒の存在を知らしめる以上のものではなく、このため、甲子園ははるか遠い存在であった。

後に「マジック」と称される木内の意表をついた戦法は、この長い弱小時代のとても勝てそうにない相手をなんとか負かしてやろうという執念の末に身についたものであり、2回ほど千葉県との東関東大会の県代表になるなどしばしば台風の目となる躍進を見せることもあった。監督以外の事でも拘束の多い教員の身分を嫌って待遇は用務員と変わらない職業監督の身分をあえて選んでいたが、そのため生活はかなり苦しかった。

次第に取手二高は県内の強豪校として定着し1974・1975年と連続準優勝に終わるなど後一歩で甲子園を逃し続けていたが、取手二高に就任してから20年後の1977年に大野久を擁して甲子園初出場を果たし甲子園でも1勝する。それから選抜・選手権合わせて6回甲子園に出場する。特に1984年の選手権大会では石田文樹、吉田剛などを擁し決勝でとても勝てないと思われた桑田真澄、清原和博のKKコンビのPL学園を延長10回の末、中島彰一(前・住友金属鹿島野球部監督)の3ランなどで8-4で破って全国優勝を果たす。まるでガキ大将たちが元気に飛び跳ねるようにプレーする様はPLの緻密な組織野球との対比で「のびのび野球」と呼ばれ、出っ歯をむき出しにして激しく怒っては豪快に笑う木内自身の強いキャラクターもあって一躍全国的に有名な監督となった。なおこの年は国体でも決勝でPL学園と対戦し、5-4で破って優勝している。

1985年からは理事長である櫻井富夫の強い要請で、その2年前に開校したばかりの私立の常総学院に移る。就任3年目の1987年の選抜で甲子園に出場し、選手権ではエースの島田直也や当時1年生の仁志敏久などを擁して準優勝を果たす。伊良部秀輝の尽誠学園(香川)、木村龍治と後藤孝志の中京(愛知)、大会屈指の豪腕だった川島堅の東亜学園(西東京)などの注目の好投手や名門校をいとも簡単に退けていく戦いぶりが「木内マジック」と呼ばれ、以降木内の代名詞として流通していくようになる。それから3年連続で甲子園に出た後、辞任の噂も飛び交ったが結局そのまま常総の監督を続け1993年の選手権で4強、翌1994年の選抜で準優勝、1998年の選手権で8強と常総学院を野球の名門校へと定着させていく。ただ1990年代は「今の子はイエスマンが多い」などと取手二高時代のような選手の反発心のなさを嘆いたり選手の自主性を育てようとノーサイン野球を試みて失敗するなど、指導方針に悩みや迷いが多い時期でもあった。

ところが2000年代になり、70歳を超えて木内は迷いが完全に吹っ切れたように結果を出しはじめる。2001年の選抜では強豪相手に次々と接戦をものにし、決勝で7-6で仙台育英を破って常総学院で初の優勝を果たす。しかしこの頃から視力も衰え始めて試合でも眼鏡をかけるようになり、2003年には「選手を育てる気力がなくなった」ことを理由に勇退を決断する。注目された最後の夏の大会はアンダーハンドの飯島秀明のキレのある球が冴え渡って勝ち進み、決勝で東北(宮城)のダルビッシュ有(現・テキサス・レンジャーズ)をバントを使わない強攻策で打ち崩し4-2で破って有終の美を飾る。この年の戦力自体は特に優れていたわけではなく、坂克彦を中心とする質の高い守備を特徴とするチームで甲子園での本塁打もゼロだった。木内もインタビューで「どうして私の最後の夏にこんなにツキまくるのか」と述べた。

この大会を最後に、異動で竜ヶ崎一高から藤代高へ移っていた持丸修一(現専大松戸高監督)を招き監督を任せ、自身は常総の理事として野球部から離れ、2005年秋からは総監督という形で野球部に関わっていた。中堅公立校の地道で堅実な指導で知られた持丸だが、常総の監督としては甲子園で1勝もできないまま2007年、夏の選手権後に辞任する。そして、理事長の桜井が再び要請する形で4年ぶりに監督に復帰した。同年の秋季県大会では霞ヶ浦に敗れ選抜出場を逃した。

そして、復帰後の夏の県大会では、準決勝では打撃戦、決勝戦では投手戦から劇的なサヨナラ勝ちで、甲子園出場を決める。5年ぶりに甲子園に帰ってきた木内常総に周囲の期待は大きかった。初戦は関東一(東東京)との、関東勢同士となる対戦だったが敗退。内容も過去最多失点という屈辱的な結果になったが、木内は試合後「(復帰して)たった1年で勝てるほど高校野球は甘くない!」と厳しい表情で話し、視線は既に先に向けていた。観戦していた理事長も「常総は死ぬまで木内監督」と続投を明言している。。年老いても目まぐるしいほどの選手起用は変わっておらず、県大会でも1試合で何人も投手をつぎ込んだり、控えの選手をほとんど使っていた。

2009年は春季関東大会で準優勝するなど茨城県勢戦後最多の4連覇という大記録を成し遂げ自身2年連続の甲子園出場を決めた。初戦は開幕試合で相手が第85回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦で戦った若生正広(当時は東北高校)が率いる九州国際大付ということもあり、注目を集めた。常総は序盤、緊張していた相手にバント攻撃をして4点先制するなど木内マジック再来かと思われたが、その後投手陣が打ち込まれ4-8で敗れ、久々の甲子園勝利とはいかず若生に借りを返される形となった。試合後は自らの継投ミスが敗因と語った。進退問題には発展せず再び指揮をとっている。2011年、夏の公式戦を最後に監督を勇退すると春の関東前に発表された。理由は年齢と健康上によるもの。甲子園を目指した最後の夏は県大会準決勝で敗れた。同年8月3日、後任として同校のコーチとして長年務めていた、教え子佐々木力(茨城県立取手第二高等学校〜日体大出)が新監督に就任すると発表した。

高校野球において上甲正典、高嶋仁、蔦文也、中村順司、尾藤公、山下智茂、馬淵史郎、渡辺元智、前田三夫、阪口慶三らと並ぶ「名将」と呼ばれている。しかし他の「名将」が例外なく猛練習で選手を鍛え上げその力で相手をねじ伏せていくことを目標しているのに対して、木内は選手が自分の采配を理解してついていけるような状況判断やサインプレーなどいわゆる「野球の頭」を鍛えることを重点に置く。この点で木内は高校野球の監督として非常に異質であり、戦術の妙や試合の流れを読む能力という面ではプロ・アマを含めた野球界でもトップクラスとされる。プロで活躍した吉田や仁志も、「木内監督以上に野球を知っている人はいない」という趣旨の発言をしている。見た目は豪快で無作法なキャラクターだが、野球に対しては非常に緻密で繊細であることは多くの関係者が証言している。

その采配は「木内マジック」と称され、熱狂的なファンは全国に多い(特に全国の高校野球ファンに)。選手起用は独特で、先発投手は意表を付いたものが多く、選手の交代も激しい。また、盗塁やスクイズのような機動力を駆使した采配も得意だが、むしろそれ以上に傍から見ると無謀ともいえる強攻策を仕掛けることのほうが目立っている。これは博打を打っているのではもちろんなく、自軍の打撃の勢いや相手の投手の調子を把握し試合状況的に「バントをさせに」棒球を投げてくることなどを読んだ上で仕掛けているのである。その例として、終盤の競った場面の無死一塁という場面でセオリーなら十中八九はバントの場面で強攻し、成功を収めたことが2度ほどある。1つは1987年の選手権準決勝・東亜学園戦の延長10回裏、無死一塁で打者は仁志という場面。木内は仁志に強攻させて、結果はバウンドの高いショートゴロ。しかし意表をつかれた東亜のショートはバントに備えた守備陣形を修正できないまま慌てて一塁に投げて暴投し、一気に一塁走者の島田が生還してサヨナラ勝ちした。もう1つは2001年選抜の準決勝・関西創価戦のこれも延長10回裏の無死一塁という場面。注目の好投手野間口貴彦に対し木内は7番打者だった横川史学に強攻させ、これが見事右中間をやぶるサヨナラ二塁打となった。2003年夏の決勝でもダルビッシュ相手に無死一塁から強攻策を仕掛けた時、テレビ解説をしていた横浜高校監督の渡辺元智も「わかりませんねえ」と批判的なコメントをしていたが結果は一死後に3本の長短打がでて一挙3得点であった。

ただし、選手の能力を鍛えて伸ばすという面では他の「名将」ほど優れた指導者ではないことも確かである。20年以上の常総学院の指導でプロに入ったのは6人(島田、仁志、金子、大崎、横川、坂)だが、そのうち3人は野球センスの高さを持ち味とする遊撃手である。このことは木内の縦横無尽の采配に対応できる俊敏で器用な選手がもっぱら重宝されてきたことを意味している。木内は実戦的な選手を好んだため剛速球を投げる投手や一発を狙えるパワーヒッターを我慢強く使い続けることはせず、新チームを組んだ段階では4番とエースだった選手が次の夏にはベンチを暖めていることも多かった。中心選手でもその日の調子が悪いと途中で引っ込めることも少なくない。全体練習の時間が短いことは有名で、一定の能力のある選手には技術面での具体的な指導はほとんど行わないなど個々人の選手の能力向上にはあまり関心がなかった。上下関係や礼儀作法に関してもほとんど厳しくない。

選手をけなし倒して育てることでも有名。「ダメなやつはいくら頑張ってもダメ」「やる気ないならやめちまえ」が口癖。もちろんこれは本心ではなく、そこで「ナニクソ」と反発心が生まれることを期待するものである。それまでのレギュラーをベンチメンバーから外し、甲子園大会の直前になって戻すという荒療治も時々行なっている。そのため、その年のチームの雰囲気にもよるが闘争心と感情表現をむき出しにしてプレーする選手が多い。

しかしこれが裏目に出たのが、監督生活に復帰した最初の夏の大会である。初戦で島田隼斗(島田直也の息子)の一人相撲が目立ってしまったが、木内は試合後「お父さんに合わせてしまった。投手が『投手をやりたくない』というのは重く受け止めなきゃいけない」と語るように、本来のポジションは投手ではなかった。これは本人が父親と比較されるのを嫌うため自ら野手を希望していたことだが、資質を優先する木内は投手として起用していった。

勝利監督インタビュー等における茨城弁での受け答え(例:「私は何もしていません。全て生徒たちが頑張った結果ですから…」)が、朴訥としたものながら印象的である。その茨城弁丸出しで愛嬌のある語り口は「木内節」として高校野球ファンに親しまれている。 また、歯に衣着せぬ物言いで試合を論評するのも特徴である。その言動はユニークで小気味よい反面、誤解を招く発言(例:「甲子園に来るつもりはなかったんですが」、「相手が点取れるピッチャーでしたから」等)も少なくない。

甲子園では20回出場、40勝17敗(勝利数は2007年春現在、歴代5位)、優勝3回、準優勝2回の成績をおさめる。茨城県勢の優勝は3回(夏2回、春1回)だが、いずれも木内率いるチーム(取手二高及び常総学院高)によりもたらされたものである。茨城県の高校野球は1970年代以前は全国でもレベルの低い県とされていたが木内が甲子園で活躍して以降の1990年代はレベルアップし、どの高校が甲子園に出場しても勝てるようになった。木内は基本的に通学圏内の選手でチームを構成し、毎年甲子園に当たり前に出るような圧倒的に強いチームを作らなかったことも他の高校の競争意識を高めていったと考えられる。顕著な例が2001年の選抜でこの大会は茨城県勢が前年の秋季関東大会で優勝(常総学院)、準優勝(水戸商業)、ベスト4(藤代)となった(通常秋季関東大会は1県2校参加だがこのときは開催県のため3校出場)ため3校とも出場となった(現在はいわゆる明治神宮大会枠を含む一般枠は1都道府県2校までという原則があるため21世紀枠等で選ばれない限り1県3校出場はありえない)。この大会では前述のとおり常総学院が優勝し、他の2校も1勝をあげた。

とくに水戸商業高校の前監督であった橋本實(故人)は常総学院が圧倒していた時代に4度の夏の甲子園出場を果たし、1999年には春の選抜大会で準優勝を果たしている。2000年には木内の常総時代で唯一県大会の決勝で土をつけており(木内の決勝の戦績は10勝1敗。ちなみにこの頃の県大会の決勝の相手は水戸商業になることが非常に多かった)、木内も「橋本さんにはこっちの手が読まれちゃって」とその手腕を高く認めていた。木内自身は茨城県の高校野球全体をレベルアップさせたいという願望が強く「はやく私の関係以外のところで優勝してほしい」と語っていた。しかし木内が勇退した2004年以降、常総学院はじめどの高校が出場しても苦戦が続いた。春の選抜、夏の選手権合わせ2004年から2011年の8年間で勝利は2005年選手権での藤代の1勝のみで、2012年選手権でようやく常総学院が茨城県勢7年ぶりの初戦勝利を挙げ、2013年選手権で優勝した2003年以来のベスト8入りを果たし低迷期を脱した。東洋大牛久の大野久や下妻二高の小菅勲などの木内の教え子が県内で監督をしている。

取手二高総合成績8勝5敗(春2回、夏4回(優勝1回))

常総学院総合成績46戦32勝14敗(春5回(優勝1回、準優勝1回)、夏11回(優勝1回、準優勝1回))

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