後藤武敏の出身高校

後藤武敏 プロ野球選手

後藤武敏卒業高校
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性別
男性
生年月日
1980年6月5日生まれ

後藤 武敏(ごとう たけとし、1980年6月5日 - )は、横浜DeNAベイスターズ所属のプロ野球選手。ポジションは内野手、一軍では外野手(左翼手)でも出場する。 2015年シーズンからの登録名は後藤 武敏G.(ごとう たけとし ゴメス)。

シニアリーグで全国準優勝した経歴を持つ。俳優の野久保直樹が一年後輩のチームメイトだった。

横浜高等学校では松坂大輔、小池正晃、小山良男らと共に1998年第70回選抜高等学校野球大会・第80回全国高等学校野球選手権大会に出場、主に3番打者として春夏連覇に貢献、かながわ・ゆめ国体も制覇。なお、後藤は1年生時には既にベンチ入りしており、第78回全国高校野球選手権大会出場時にも、3回戦で9回に代打で登場し安打を打っている。高校通算33本塁打。準々決勝ではPL学園の稲田学・上重聡、準決勝では明徳義塾高校の寺本四郎といった投手と対決した。

高校の1年先輩には俳優の上地雄輔がいる。

法政大学では東京六大学2年春のリーグ戦で打率.445・2本塁打・14打点で三冠王を達成。ちなみに前年には同じく法大の廣瀬純が三冠王に輝いており、史上初めて同一チームから2年続けて三冠王を輩出した。続く2年秋のリーグ戦でも首位打者となり、長崎慶一(法大)、広沢克己(明大)に次ぐ史上3人目の2季連続首位打者であり、後藤の後に達成した選手はいない。ちなみに首位打者2回も9人目の最多記録で、のちに鳥谷敬(早大)、大引啓次(法大)、小野寺和也(慶大)が達成している(2011年現在)。なお卒業はしていない。

4年秋の早大3回戦の9回に、早大先発の和田毅から三振を喫したが、これが和田のリーグ戦通算444個目の奪三振となり、六大学記録を献上した。

リーグ通算73試合出場、258打数79安打、打率.306・8本塁打・52打点でベストナイン3回。山中正竹が指揮を執る第1回世界大学野球選手権日本代表にも土居龍太郎・河野友軌と、のちに西武ライオンズで同期入団となる長田秀一郎・小野寺力と共に選出され、3位入賞に貢献。

2002年のプロ野球ドラフト会議で、西武ライオンズに自由獲得枠で入団。

2003年は故障で開幕に間に合わなかったアレックス・カブレラに代わり開幕戦で「新人ながらいきなり4番に座る」という快挙を成し遂げた。前半は打率3割を超え絶好調で、手首の強さを生かした打撃でクリーンナップに座った。後半に失速したが、101試合で11本塁打と新人ながら活躍し、期待に応えた。

2004年は5番・一塁手で2年連続の開幕スタメンに起用されるが、故障の影響や貝塚政秀の台頭で出番は少なく、打率1割台と低迷した。

2005年はホセ・フェルナンデスの開幕出遅れでチャンスが巡ってきたが、それを生かせなかった。しかし二軍では打率.362・58打点で二冠、出塁率.464・長打率.580を合わせて4冠を獲得、優秀選手を受賞した。この成績にも関わらず、一軍には石井義人が首位打者に立つなど好調だったこともあり、なかなか昇格できず25試合・打率.205に留まり、8度の守備機会で4失策してしまった。9月24日の対ソフトバンク戦で、三瀬幸司から人生初となる逆転サヨナラ適時打を放ち、チームの24年連続Aクラスを決定させた。

2006年は三塁手のライバルである中村剛也がレギュラーに定着したこともあり、初めて一軍出場が無かった。二軍では本塁打がイースタン・リーグ6位の9本、長打率は5位の.447と快打を連発したが、昇格できなかった。

2007年は開幕一軍スタートだったがすぐに降格。中村の不振で5月15日に再昇格したが、打率1割台と結果を残せなかった。二軍では打率.325でチームトップの本塁打と打点を記録したにもかかわらず、この年も一軍では活躍できなかった。

2008年も開幕二軍だったものの、二軍で打率.313・10本塁打と打撃好調で6月中旬に一軍昇格。6月29日の対ロッテ戦(西武ドーム)では小林宏之から2003年以来となる本塁打を放った。更に5回にも本塁打を放ち、自身初の1試合2本塁打を放った。ヒーローインタビューでは2本塁打について「1本目は息子と嫁さんのため、2本目は親父と、先日亡くなった母ちゃんのために打ちました」とコメントし、涙ながらに「母ちゃん、やったぞ!」と叫んだ。以後も好調な打撃を維持して五輪出場組の抜けたチームを支えた。終盤には調子の落ちたクレイグ・ブラゼルに代わって4番で出場することもあり、日本一に大きく貢献した。最終的には49試合に出場して打率.301、自己最多の12本塁打の成績を残した。プロ入り後初めて左翼手も経験したが無難にこなした。クライマックスシリーズでは2本塁打と活躍。日本シリーズでは第一戦、上原浩治からバックスクリーンに同点本塁打を放って日本一に貢献した。

2009年から外野手登録となる。開幕は一軍だったものの腰を痛めて離脱、その後7月9日に昇格した。8月25日の対楽天戦でプロ初となるサヨナラ本塁打を打った。左翼手・指名打者・一塁手として出場し、打率.293・5本塁打を記録。前年同様シーズン中盤から一軍で好成績を残した。

2010年は前年の活躍から一転して、大半を二軍で過ごした。特に左投手は打率.050と全く打てなかった。最終戦で一軍に昇格し、クライマックスシリーズ第1ステージ第1戦にスタメン出場するも、無安打に終わった。

2011年は24試合に出場したが打率は1割台に低迷した。シーズン終了後の11月22日、武山真吾との交換トレードで横浜DeNAベイスターズへ移籍した。

2012年は開幕前に右太腿の張りの影響もあり、前半戦は二軍暮らしだったが、後半戦から一軍に昇格すると、8月には3年ぶりの本塁打を含む6本の本塁打を放ち、貴重な右の代打として最後まで一軍に居続けた。

2013年は開幕一軍とはならなかったものの4月19日に一軍登録されるが6月に降格、8月に一軍復帰を果たすと9月の月間打率が.417という驚異的な数字でチームを支え、9月4日に移籍以来横浜スタジアムで初めてお立ち台にも立った。またトニ・ブランコ、中村紀洋の不調時にはスタメンで4番で出場することもあった。

2014年は中村と入れ替わりで5月7日に昇格すると、当日の対読売ジャイアンツ戦で4番に起用され本塁打を放ったが、左内転筋痛で4日後に登録抹消される。6月18日の一軍復帰後は、昇格当日の対ロッテ戦で先制2ランを含む4打点を挙げるなど打撃好調で、ブランコが怪我で離脱していたことから一塁のスタメンでの出場が続いた。ブランコの復帰後は、不振のアーロム・バルディリスに代わり7年ぶりに三塁手として先発起用される場面もあった。得点圏では.383、代打でも.379と高打率を残し、勝負強さを存分に発揮したシーズンとなった。

2015年は右の代打の切り札として起用された。しかし、得点圏では.208、代打でも.224と前年のような結果を残す事は出来なかった。

愛称はゴトタケ、GT、グッさん(顔が山口智充に似ていることから)、ゴメス。

「ゴメス」の愛称はDeNA移籍初年度のキャンプ中にチーム内でついたもの。石川雄洋との練習の待ち合わせに遅れてきた松本啓二朗が早大で使われていた「ごめーんす」という軽い謝り方をしたのを、石川がわざと「後藤さんにゴメスはねえよ」と居合わせた後藤に話を振ったものがそのまま浸透した。2014年からは、ヒーローインタビューでアナウンサーから「後藤選手」と言われると「ゴメスです」とニックネームをアピールするのがお約束になっている。2015年からはユニフォームの背ネームを「GOMEZ」に変更し、登録名も「後藤 武敏 G.」(G.はゴメスと読む)に変更した。

温厚な性格で、試合中に乱闘・揉め事があった時には怒った外国人選手・首脳陣を止めている場面が多い。西武時代の2011年7月11日には、対オリックス戦で同球団の投手高宮和也が、当時のチームメイト・中島裕之に死球を与えたのを発端に揉め事が発生。しかし後藤は、激高したホセ・フェルナンデス(当時は西武に所属)をなだめた。ちなみに、『文化放送ライオンズナイター』でこの試合の実況を担当していた斉藤一美(文化放送アナウンサー)は、「後藤がフェルナンデスを上手出し投げました」と表現した。

横浜高校時代の同級生だった小池正晃とは、2011年シーズン終了後の移籍を機に、横浜DeNAで再びチームメイトになった。小池が2013年のシーズン終盤に球団から戦力外を通告された直後には、高校の4年先輩でチームメイトでもある多村仁志と共に小池の相談に乗った。その席で後藤と多村が「今の打撃では(現役続行は)厳しい。生まれ育った横浜で引退して指導者になった方が良い」と涙声で助言したことをきっかけに、小池は引退を決意。10月8日の引退試合(横浜スタジアムの対阪神戦)では、目を潤ませながらベンチで見守る後藤の前で小池が2本の本塁打を放つと、小池は後藤・多村と泣きながら抱擁した。なお、2014年からは、小池が横浜DeNAの一軍コーチとして後藤や多村を指導する。

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