川端慎吾の出身高校

川端慎吾 プロ野球選手

川端慎吾卒業高校
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プロ野球選手ランキング
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性別
男性
生年月日
1987年10月16日生まれ

川端 慎吾(かわばた しんご、1987年10月16日 - )は、大阪府貝塚市出身の東京ヤクルトスワローズに所属するプロ野球選手(内野手)。

実妹は日本女子プロ野球機構の埼玉アストライアに所属している川端友紀。

小学校2年生で、貝塚リトルで投手兼遊撃手として野球を始める。貝塚三中時代は投手として活躍。 市立和歌山商高進学後、本格的に遊撃手としてプレーを始める。2004年の夏の甲子園に出場し、2回戦で聖光学院に敗れる。川端は2試合で8打数3安打だった。

2005年の春のセンバツでは、2回戦で準優勝の神村学園と対戦し敗退。川端はエース野上亮磨のストレートを弾き返し、逆風の中本塁打を放っている。夏の県大会は準決勝で敗退。その後第6回AAAアジア野球選手権大会の選抜メンバーに選出。駒大苫小牧・林裕也、大阪桐蔭の平田良介・辻内崇伸など夏の甲子園に出場した選手たちに混じって、打率.462でベストナインを受賞する活躍を見せた。高校通算33本塁打。

2005年高校生ドラフト会議3巡目で東京ヤクルトスワローズに指名され、推定契約金4500万円、年俸480万円で入団した。

2006年、新人ながら一軍キャンプスタート。開幕一軍は逃したが、二軍では4月から遊撃手のレギュラーの座を掴み、高卒新人としては珍しい79試合に出場。打率は.240と苦戦したが、6本塁打31打点とパンチ力を発揮し結果を残した。シーズン終盤の10月9日の対中日ドラゴンズ戦で一軍初出場(2打数無安打)。10月10日の対広島東洋カープ戦の第2打席で1軍初安打・マルチヒットと共に、プロ初打点を記録し、プロ2試合目で早くもお立ち台に上った。球団史上、ドラフト会議を経た高卒1年目の野手が一軍の試合に出場したのは、1987年に1試合出場した土橋勝征以来、約20年ぶり。それ以前には1984年に池山隆寛が10試合に出場している。ただし、土橋、池山共に、1年目は安打は記録していない。高卒1年目の野手の安打は、1968年の奥宮種男まで遡る。

2007年、二軍キャンプスタートもキャンプ途中に一軍に昇格。しかし昇格直後に体調を崩してしまい、二軍に逆戻りとなった。シーズンでは手薄な内野を補うために、4月と7月に2度一軍に昇格し、消化試合でない日のスタメン出場も経験。二軍では50試合で打率.284と、前年以上の成績を残した。しかし8月22日の試合で左手の薬指を骨折し、全治2ヶ月。そのリハビリで残りのシーズンの出場は出来なかった。10月中旬のフェニックス・リーグで実戦に復帰した。

2008年、春季キャンプでは宮本慎也の三塁手転向プランにより、キャンプ途中まで鬼崎裕司、三輪正義と併用で遊撃手で出場し、2年ぶりの一軍スタート。宮本からポジションを奪うことは出来なかったが、オープン戦でも打撃・走塁で好調を維持し、遊撃手を含む複数ポジションを無難にこなした。そのことが買われる形で、3年目にして初の開幕一軍の座を掴んだ。10月7日、対中日第24回戦の第1打席にて小笠原孝からプロ初本塁打を記録した。

2009年、春季キャンプから右肩痛で離脱し出遅れたものの、5月に一軍昇格。その後は主に左の代打として出場、川島慶三や田中浩康の不調時にはスタメン出場することもあった。しかしスタメン予定であった8月23日の練習中にまたも右肩痛を発症し、登録抹消。以降は一軍での出場はなかった。

2010年、阪神から藤本敦士が加入。遊撃手のポジションを鬼崎裕司、新人の荒木貴裕らと争う。開幕当初は藤本が固定される形で起用されたが、不調から二軍落ち。その後は鬼崎が守備力を生かして台頭したが、打撃に難があったため、7月頃から川端が遊撃手のレギュラーとして起用されるようになった。その後、シーズン終了まで遊撃手のポジションを守り続け、8番打者としてチームの後半戦の躍進にも貢献した。なお。守備力は鬼崎の方が買われていたため、試合終盤は守備固めとして鬼崎が遊撃手に入り、三塁手へ回される機会も多かった。この飛躍にはシーズン中盤に監督の高田繁の休養(事実上の引責辞任)により監督代行に就任した小川淳司の引き立てによるところも大きい。小川は入団当時の二軍監督で、初年度から二軍で積極的に起用された。

2011年、開幕戦で最有力ライバルだった川島慶三が東野峻に死球を受けて骨折したことから、スタメン遊撃手に定着し、シーズン中盤までは7番を任される。6番・宮本、7番・川端、8番・相川で「恐怖の下位打線」を形成。クリンナップが不振でも得点源として機能する。しかし、ジョシュ・ホワイトセル、飯原誉士の絶不振や故障によりシーズン中盤からは3番打者として起用される。新打順も無難にこなし、9月末には2割9分台まで打率を上げた。その後不振に陥り、10月19日に左手首痛で登録を抹消された。病院での検査の結果、「左手のTFCC(三角線維軟骨複合体)損傷」で全治6週間と診断(9月14日の広島戦でスライディングした際に左手を地面に強打したのが原因とされる)され、シーズン2位で進出が決定していたクライマックスシリーズに出場出来ず。同じく戦線離脱を余儀なくされた由規、久古、七条らとスタンド観戦する結果になった。ちなみに、このシーズンでは1号ソロ本塁打、2号2点本塁打、3号3点本塁打、4号満塁本塁打という珍しい本塁打の記録を作っている。

2012年、開幕から主に3番、5番に座っていて一時は不振に陥るが、5試合連続マルチ安打を記録。前半戦終了時には打率.284を残す。9月27日終了時点で打率は.277であったが、7試合連続マルチ安打を含む8試合連続安打を記録。なんとその8試合合計の成績は26打数17安打、打率.654と驚異的な追い上げを見せて、打率は.298に急上昇。残り1試合で1打数1安打もしくはマルチ安打達成のどちらかで打率3割達成という中挑んだ、シーズン最終試合対広島24回戦(10月7日)の第1打席はヒット性の打球を放つものの一塁手ブラッド・エルドレッドの好守に阻まれる。その後1安打放ったものの、惜しくも打率3割に届かなかった。その後のCSでは無安打に終わり、シーズンを終えた。最終成績は打率.298、4本塁打、49打点と前年を超える成績を残した。 また、本来の遊撃手だけではなく、宮本慎也の休養日には三塁を40試合以上守った。さらにシーズン終盤からは一塁をシーズン通じて守っていた畠山和洋の怪我により一塁を守る機会もあった。

2013年、4月22日に左足首関節の手術を受け、実戦復帰まで2か月の見通しと発表した。 7月9日に復帰してからは、調整不足の影響からか中々状態が上がらなかったが、8月から徐々に調子を上げ最終的に70試合に出場、規定打席未到達ながら打率.311を記録、本塁打も規定打席の半分程の打席数で過去最高の5本塁打を放った。また9月には自身初となる月間MVPを獲得した。

オフの11月には台湾で行われた「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」の日本代表に選出された。

2014年は自己最多の142試合に出場し、最多安打を獲得した山田哲人らとともに打線の核弾頭として活躍した。3番での出場が多かったが、攻撃型打線を組む時は2番に起用される時もあった。打撃面では、自身初の、規定打席に到達しての打率3割以上を達成したが、守備面では、守備率.957で14失策を喫し、守備に課題を残すシーズンとなった。またシーズン中の6月22日にタレントの水野今日香と結婚していたことがシーズン後に明らかになった。

2015年7月16日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表第1次候補選手に選出された事が発表された。9月10日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表候補選手に選出された事が発表された。シーズンでは、真中満新監督のバントを減らし繋ぐという構想の下2番で開幕スタメンを果たす。その後チーム事情もあり長らく3番を勤めたが、オールスター明けに一気に状態を上げた山田哲人が3番に回ると2番に完全固定され、リーグトップの195安打を記録し、山田との争いを制し首位打者を獲得するなどチームの優勝に貢献した。

オフの10月9日に、第1回WBSCプレミア12の日本代表最終ロースター28名に選出された事が発表された。

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