小倉恒の出身高校

小倉恒 プロ野球選手

小倉恒卒業高校
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プロ野球選手ランキング
4288位 / 4783人中 プロ野球選手別偏差値ランキング
性別
男性
生年月日
1970年8月10日生まれ

小倉 恒(おぐら ひさし、1970年8月10日 - )は、元プロ野球選手(投手)。

現在はオリックス・バファローズの打撃投手を務めている。

小学低学年から野球を始め、「さつきが丘スポーツ少年団」でプレー。4年生の頃からずっと投手だった。鹿沼東中学校、県立鹿沼商工高等学校(旧校名:鹿沼農商)へ進学。甲子園をめざしたが、出場は果たせなかった。

社会人でも野球を続けたかったがどこからも声がかからず、地元の野球クラブチーム「全足利クラブ」に所属する。足利市役所の体育・文化振興会の職員として働きながら、勤務後に野球の練習を続けた。

1992年、富士重工業の補強選手に選ばれ都市対抗野球大会に出場する。都市対抗野球に富士重工業・日立製作所・住友金属(新日鉄住金)鹿島以外の北関東地区チームから出場した(補強選手に選ばれた)選手は2014年に全足利クラブが都市対抗野球に出場するまで20年以上出ていなかった。

その後、1992年のドラフトでヤクルトスワローズから7位指名を受け、入団。クラブチーム所属選手がドラフト指名を受けるのは、ドラフト会議史上初の事だった。

ルーキーイヤーの1993年は10月17日の阪神タイガース戦でプロ初登板初先発を果たすも2回4失点で敗戦投手となった。同年はこの1試合の登板で終わった。

1994年は中継ぎとして13試合に登板したが、精彩を欠いた。

1995年も7試合の登板に終わった。

1996年はさらに減り、2試合にとどまった。

1997年は開幕から1軍登板できず、シーズン途中に馬場敏史・岩崎久則との交換トレードで広永益隆と共にオリックスへ移籍。

仰木彬監督に見出され、移籍後は中継ぎで起用され、7月20日の日本ハムファイターズ戦でプロ初勝利を挙げた。同年は防御率4.45と安定感を欠いたものの、22試合に登板した。

1998年は12試合の登板に終わってしまった。

1999年は48試合に登板し、5勝11S、防御率2.17の成績を残した。

翌年の2000年にはオールスターゲーム初出場を果たした。シーズンでは9勝5敗10S、防御率2.98の記録を残した。

そして、2001年には先発へ転向。4月28日の日本ハム戦(神戸)では初完投を初完封勝利で飾った。また、自身初の2桁勝利(10勝)を挙げ初の規定投球回到達し防御率はパ・リーグ4位。一方、一発病はなおらず、22試合に先発し両リーグ最多の27被本塁打を浴びた。この年は同じ先発の加藤伸一も2桁勝利を挙げたが、チームは2002年から2004年まで最下位に沈み、2004年オフに大阪近鉄バファローズと合併した。その間2桁勝利投手がいなかったことから加藤と共にブルーウェーブ時代最後の2桁勝利投手となった。

2002年は開幕に出遅れるものの、後半戦勝ち星を重ねて7勝をあげた。

しかし、翌2003年は精彩を欠き、4勝13敗を喫し期待に応えられなかった。抑えでは7セーブを挙げたが、この年のチーム防御率は5.95と6点近くもあり、小倉はこの投壊に足並みを揃えた。

2004年は34試合に登板するも4勝5敗、防御率5.83と前年より防御率が悪化した。先発での登板は同年は10試合だったが、先発での登板はこの年が最後となった。同年11月、選手分配ドラフトで楽天入りする。

楽天入り1年目の2005年は中継ぎで15試合に登板したものの、1勝2敗で防御率7.79。9月下旬、球団から戦力外通告を受けた。現役続行を希望し、11月に12球団合同トライアウトを受験。それが次期監督就任が決まっていた野村克也の目に止まる。息子でもある楽天捕手・カツノリ(野村克則)の進言もあり、野村次期監督は小倉を再生させる事を決意し、球団に再契約を迫る。球団側は当初難色を示すも、最終的には野村の熱意に根負けし、再契約を受諾。小倉は大幅に年俸が下げられたものの、再度楽天でプレーできることになった。

前年の戦力外通告からの出直しとなった2006年は、開幕当時に抑えとして期待された小山伸一郎が不振であったため、代わって抑えを任されたものの結果は芳しくなく、抑え投手の座は福盛和男に明け渡し、自身は中継ぎ投手にまわる。しかしその後8月に福盛が乱調となると、再び抑えの座に復帰した。8月17日にシーズン初セーブをあげる。このように同年シーズンは中継ぎ、抑えと大車輪の活躍をし、楽天投手陣の中では最多の58試合に登板。6勝7敗4S防御率2.18というチーム最高の成績を収めた。6月30日の日本ハム戦(札幌ドーム)では、9回裏に左投手河本育之のワンポイント登板のため、一時的に一塁守備に就いた。この作戦は功を奏し、この9回裏のピンチはしのいだものの、延長10回に田中賢介からサヨナラ本塁打を被弾し敗戦投手となってしまった。オフにはイオン日米野球2006の代表に監督推薦選手として選ばれたが、メッツのホセ・レイエスに最終戦でサヨナラ満塁本塁打を献上し、全米の全勝でシリーズを終了させた。

2007年シーズンはキャンプで出遅れたのが響き、前半はなんとか抑えていたが、シーズン後半は打ち込まれる試合が目立ち、2度2軍へ降格した。結局39試合の登板にとどまり、防御率も前年より悪化し、5.76となってしまった。

2008年は開幕当初から調子が上がらず、2軍暮らしがほとんど。1軍での登板はわずか8試合のみであった。10月1日、現役引退を発表。チーム最終戦当日の10月7日に1軍登録され、最後の登板を行う予定であったが、この最終試合がチームが対戦相手のソフトバンクとの5位争いを決する試合でもあり、かつその試合が延長にまでもつれ込む接戦だったこともあり登板機会はなく、そのまま16年間の現役生活に終止符を打った。

2009年にオリックス・バファローズと契約し打撃投手として転身した。

パッと思いつく変化球は一通り投げられると言われるほど多種多様な球種を持つ選手で、ナックルボールも投げられるという話だが実戦ではあまり投げない。

速球にも力があり、常時140km/h近い球速を出せ、最速では150km/h弱になる。速球とスライダーが、実戦の投球の大部分を占めている。

また、実戦で投げる球種はどれも制球力が非常に高く、2006年に記録した四球は62回を投げてわずか13。イニングの約5分の1とこれだけでも少ないと言えるのだが、この内の10は故意四球である。欠点としては、多くのシーズンで被本塁打が多いことが挙げられる。

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