寺山修司の出身高校

寺山修司 その他

寺山修司卒業高校
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性別
男性
生年月日
1935年12月10日生まれ

寺山 修司(てらやま しゅうじ、1935年12月10日 - 1983年5月4日)は日本の歌人、劇作家。演劇実験室「天井桟敷」主宰。

「言葉の錬金術師」「アングラ演劇四天王のひとり」「昭和の啄木」「覗き見マニア」「エロスのアナキスト」「政治嫌いの革命家」「ジャンルを超えたコラージュの達人」「あしたのジョーを愛した男」「三島由紀夫のライバル」「生まれながらのトリック・スター」「サブ・カルチャーの先駆者」の異名をとり、上記の他に俳人、詩人、演出家、映画監督、小説家、作詞家、脚本家、随筆家、評論家、俳優、写真家などとしても活動、膨大な量の文芸作品を発表した。競馬への造詣も深く、競走馬の馬主になるほどであった。メディアの寵児的存在で、新聞や雑誌などの紙面を賑わすさまざまな活動を行なった。

1935年(昭和10年)12月10日、父・八郎、母・ハツの長男として生を受ける。八郎は東奥義塾弁論部OBで当時弘前警察署勤務。父の転勤のため、県内各所を転々とする。ハツと元妻・九條今日子によれば、青森県弘前市紺屋町生まれとされる。当人は「走っている列車の中で生まれ、ゆえに故郷はない」などと記しているが、寺山のこうした記述には多分に創作が混じっているといわれる。戸籍上は1936年(昭和11年)1月10日が出生日となっている。これもハツによれば、「父の仕事が忙しく、産後保養していたため」という。ただし戸籍の出生が正しいとの説もある。本籍地は青森県上北郡六戸村(現・三沢市)。

1941年(昭和16年)、青森県八戸市へ転居。 八郎出征のため、ハツと青森県三沢市へ疎開。彼女はその後九州で働くために青森市の親類に修司を預ける。青森市マリア幼稚園入園。

1945年(昭和20年)、青森大空襲によりハツとともに焼け出される。9月に八郎がセレベス島で戦病死したとの公報を受け取る。終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現・三沢市)の古間木駅前(現・三沢駅)に転居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは進駐軍の米軍キャンプで働く。米軍差し押さえの民家に移る。

1948年(昭和23年)、三沢市の古間木中学校入学。ハツが福岡県の米軍ベースキャンプへ移ったため、青森市内の叔父の映画館「歌舞伎座」に引き取られる。青森市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校。

1949年(昭和24年)、中学2年生で京武久美と友人になる。句作をしていた京武の影響から俳句へのめり込んでいく。文芸部に入り、俳句や詩や童話を学校新聞に書き続ける。

1950年(昭和25年)、青森市営球場で藤本英雄が達成した日本プロ野球史上初の完全試合を現地で観戦する。

1951年(昭和26年)、青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。「山彦俳句会」を結成し、高校1年生の終わり頃「校内俳句大会」を主催。全国学生俳句会議結成。俳句改革運動を全国に呼びかける。京武久美と俳句雑誌『牧羊神』創刊、高校卒業まで編集・発行を続ける。同期生に沢田教一がいた。

1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。山田太一とは同級。中城ふみ子の影響から短歌を作り始め、在学中から早稲田大学短歌会などにて歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。混合性腎臓炎で立川の病院に入院。1955年(昭和30年)、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学。

処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受け、交際が始まる。1957年に第一作品集『われに五月を』、1958年に第一歌集『空には本』を刊行する。1959年、谷川の勧めでラジオドラマを書き始める。また、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと「若い日本の会」を結成、60年安保に反対した。

1960年(昭和35年)2月、第3作目のラジオドラマ『大人狩り』が放送される。同年、浅利が旗揚げした「劇団四季」で戯曲『血は立ったまま眠っている』が上演される。また、篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、大島渚と出会う。25歳でハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。1963年(27歳)、松竹の女優だった九條と結婚し、ハツとの同居先を出る。

1960年代半ば以降からは学研の「高三コース」にて高校生の詩の選者を務めて多くの若い才能を掘り起こしたり、新書館の少女向け詩集レーベル「フォアレディース」を編んだりするなど、「青少年のカリスマ」としての位置づけを強めていく。1963年に『現代の青春論』(『家出のすすめ』)を刊行。

1967年(昭和42年)1月1日、劇団「天井桟敷」を結成。4月18日、草月アートセンターで旗揚げ公演『青森県のせむし男』を上演。6月、新宿末広亭で第2回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第3回公演『毛皮のマリー』。同作に出演した美輪明宏は、この頃の寺山を「あまりにもシャイで、人の目をみて話せない男」と評している。

3月、評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される。33歳で九條と別居。

1969年(昭和44年)、西ドイツ・フランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれ、『毛皮のマリー』『犬神』を初の海外公演。カルメン・マキ「時には母のない子のように」の作詞を手がける。 1970年(昭和45年)3月24日、漫画『あしたのジョー』の登場人物、力石徹の葬儀で葬儀委員長を務める。34歳で九條と離婚。離婚後も九條は晩年の寺山のよき協力者となった。

1971年(昭和46年)、『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出。サンレモ映画祭でグランプリを獲得。フランスのニースで作家ル・クレジオと2日間語り明かす。ロッテルダム国際詩人祭に出席し、詩を朗読。フランスナンシーの演劇祭で『人力飛行機ソロモン』、『邪宗門』公演。ベルリンのフォーラム・シアターで『邪宗門』公演。ベオグラード国際演劇祭で『邪宗門』がグランプリ受賞。

1974年(昭和49年)、映画『田園に死す』が公開され、文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。1975年(昭和50年)、杉並区内で上演された市街劇『ノック』が住民の通報により警察沙汰となる。 1979年(昭和54年)、肝硬変で入院。

1980年(昭和55年)、渋谷区内で取材中、アパート敷地に住居侵入したとして逮捕され、略式起訴された(この時の身元引受人は矢崎泰久。「のぞき現行犯」と報道された)。 1981年(昭和56年)、肝硬変の再発で再入院。 1982年(昭和57年)、朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い、『奴婢訓』を上演。

1983年(昭和58年)、東京都杉並区永福在住中、阿佐ヶ谷の河北総合病院に肝硬変のため入院。腹膜炎を併発し、敗血症で死去。47歳没。葬儀委員長は谷川俊太郎。戒名は天游光院法帰修映居士。

1995年(平成7年)、十三回忌を記念して、砂子屋書房が寺山修司短歌賞を開始。

1997年(平成9年)、青森県三沢市に寺山修司記念館が建てられた。2008年(平成20年)2月、生前未発表の短歌が田中未知編纂により『月蝕書簡』(岩波書店)として刊行された。

2015年(平成27年)、寺山修司生誕80年の関連行事が多数行われた。代表的な公演を下記に挙げる。

寺山の競馬との出会いは1956年。ネフローゼで入院中、同室の韓国人から賭博とともにそれを学んだ。

1962年、山野浩一と親しくなったころから足繁く競馬場に通うようになり、1963年、牝馬・ミオソチスに心酔して競馬エッセイを書き始め、競馬を人生やドラマになぞらえて語るなどの独特の語り口で人気を博した。

1964年にはTBSテレビのドキュメンタリー番組『サラブレッド・我が愛』の台本・構成を手掛けている。

1965年、八百長疑惑が持ち上がったたちばな賞のパトロールフィルムを大川慶次郎、虫明亜呂無とともに見た寺山は「どこが八百長なのか分からない」と発言し、八百長疑惑を否定した。

1968年、船橋競馬のある騎手から「寺山さんのエッセイは中央競馬寄り」という批判を受けたことをきっかけに、「ユリシーズ」(南関東)の馬主となる。

1970年からは報知新聞競馬面に「寿司屋の政」、「バーテンの万田」など多彩な人物を登場させて競馬を予想した『みどころ』『風の吹くまゝ』というコラムを連載し、これは1983年4月、死の直前まで続いた。このコラムは後に『競馬場で逢おう』シリーズとして纏められている(Part6まで、JICC出版局)。

競馬界のスポークスマン的存在で、1973年には日本中央競馬会(JRA)のコマーシャルに出演。『カモメは飛びながら歌を覚え、人生は遊びながら年老いていく』という自作の詩(ディレクターを務めた武市好古によると、「遊びについての断章」という名の長い詩だったのを、CM収録時に編集したという)を朗読。1974年にハイセイコーが引退すると、引退記念レコード『さらばハイセイコー』の構成、詩の朗読を行なった。

1978年の日本経済新春杯でテンポイントが骨折し、2か月後に死亡すると、追悼詩『さらば、テンポイント』を残した。この詩は関西テレビのテンポイント追悼特集番組『風花に散った流星』で紹介された。

1978年6月には、NHKが製作した『ルポルタージュにっぽん』「ダービーの日」という番組に進行役として出演。同年5月28日に開催された日本ダービーでの「東京競馬場の長い一日」を、レースに騎乗する福永洋一・岡部幸雄・柴田政人の同期3名の騎手を中心に、調教師、観客らの姿にスポットを当てて描くというドキュメンタリーの形で綴った。

1981年のカブトシロー薬殺未遂騒動の際には、寺山を中心とした10人の競馬ファンの連名で中央競馬会に抗議文を提出。

1982年に寺山が選んだ「私の忘れがたかった馬ベスト10」(競馬放浪記あとがき)はミオソチス、カブトシロー、モンタサン、ホワイトフォンテン、テンポイント、ハイセイコー、メジロボサツ、ユリシーズ、タカツバキ、テキサスシチー、(番外・ダンサーズイメージ)。騎手では中島啓之、のちに吉永正人を贔屓にした。まだ人気にも話題にもなっていない頃から彼らを熱心に取り上げ、「ダービーに勝つまで書き続ける」としていた。中島、吉永共にダービー制覇を成し遂げているが、吉永がミスターシービーで悲願を達成したのは、寺山が急逝した3週間後だった。

報知新聞競馬面予想コラム『風の吹くまゝ』の最終回は1983年皐月賞の当日で、寺山は『勝つのはミスターシービー』と記し、吉永とミスターシービーの勝利を確信していた。

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